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説教原稿

2009年4月19日
「群衆がかわいそうだ」
マルコによる福音書8:1-10

先週は、イースターを祝いました。
主イエス様は生きていらっしゃる。贖いのため十字架にかかられ、死に、よみに下り、遺体は墓に入れられても、すべては神様のご計画どおり、予告されていた通りに3日目に、確かによみがえられました。

この世界は、思うがままにならない世界、そしてここ日本は、いや世界は、クリスチャンの居場所というよりも、主を知らない人たちによって主導権が握られ、動かされているように感じます。

生老病死、四苦八苦、正直者が馬鹿を見る世界。しかし、この世界の冷酷さ、残虐さ、その最たるところである、死の力を打ち破った方が人の歴史の中でただ一人、光り輝いています。その方が私たちの主、イエス・キリストです。
この世界の中にいながら、この世界の暗い力に翻弄されたかに見えても、イエス様は、天上の、神の国から来られた方、私たち人間が、遠い昔もともと住んでいた世界から来られた方です。

額に汗して、労苦せずとも、地は食物を生みだした、あのエデンの園です。死も悲しみもなく、神様の平安の充ち溢れる世界です。不足するという言葉はなく、満ち足りた世界です。争いもなく、罪もなく、神様のみあとを慕って従い歩く世界です。神様の奇跡は日々現わされ、神様の御業が充ち溢れる世界です。神様のいつくしみと愛のご性質という香りが隅々にまであふれた世界です。その世界で息をしながら、神様の御心を呼吸しながら生きる生活でした。

しかしこの地上の世界は、人がそのように神様を求めなくなった世界です。言い換えれば、人が神となった世界です。自力で何事も行い、その結果として奪い合い、妬みあい、争い、殺し合いが起こります。神様の御業を待ち望む人はなくなりました。むしろ自分で工面するのが当たり前になりました。神様に待ち望むなんて、非科学的な、悠長なことを言っている人は、よほどおめでたいか、よほど高尚な人かで、雲の上の仙人じゃないかと言われるようになりました。宗教なんて弱い人がすがるものと言われました。

しかし、人は自分の無力と、自分の不完全さに、気づいてはいません。「人は、神によってでしか満たされない(心の)空洞を持っていて、神以外の何物をもってしても満たすことができない。神によって空洞が満たされると人は生きる」こう言ったのはパスカル、「人は神に向けて作られており、人の心は神に憩うまで安らぎがない」と言ったのはアウグスティヌスですが、実に味わい深い言葉です。

イエス様は、この世界の空洞を埋めるために地上に来られました。愛をもって、御言葉をもって、奇跡をもって満たし、そして、最後にご自分自身を十字架にかけて、いのちを差し出して、埋め合わせようとなさいました。

私たちが喜んで、イエス様、私の心のうちにお住まい下さい、私は今までずっと自分なりに頑張ってまいりました、でもそれでもなお心の渇きを満たすことができず、自分が死んだ後も、いったいどこへ行くか分かりません。一生懸命に自分を奮い立たせ、道徳的に立派に生きることにも、疲れ果ててしまいました。頑張っても頑張っても、自分の中の嫌な面をみると、がっかりしてしまいます。
ですから決めました。私の心の中に入って来て、私といつも、いつまでも一緒に住んで下さって、私に語りかけて下さい。私の心を、魂を、常に見守り、導いて下さい。そして死の時には、私を、あなたのよみがえりの力によって、天にまで引き上げて下さい。私は、自分の努力によってすべてができると思っておりましたが、今その業をやめ、イエス様、あなたに期待いたします。アーメン。

これが信仰の祈りです。イエス様は、喜んで私たちの不出来な所を受け入れ、「あなたは赦されている」とのお言葉を下さいます。「私はあなたといつまでも、世の終わりまでも共にいる」と語って下さいます。

長い導入となりましたが、今日私がみ言葉から教えられ、皆様にお伝えしたいことは、イエス様の「憐れみ」についてです。

イエス様は、この世界の、そして私たち一人一人の心の空洞を満たし、心の中の暗闇を照らすために、やって来て下さいました。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」ヨハネ6:35

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12

このイエス様の救いの深い深いお心が、「憐れみ」という言葉で表わされます。イエス様をこの世界に送られた父なる神様のお心も、この「憐れみ」の心です。

マタイ18章27節、家来が大金を借金して返せず、家族持ち物すべてを売って返済を求める王さま。「どうか待って下さい。きっと全部お返しします」と、ひれ伏し、しきりに願う家来を見て、かわいそうに思い、赦し、借金を帳消しにした王様の姿。
ルカ15章20節、放蕩の限りを尽くした息子が一文無しのボロボロになって帰ってきたとき、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した姿。息子としての相続分は生前贈与としてすべてもらい、生きながらに自分の父と離縁するように独立した息子と呼ばれるに価値のない者を息子と呼び、また抱きかかえる父の姿。
ルカ10章33節、おいはぎにあって服をはぎ取られ、殴りつけられ、半殺しの目にあって倒れている旅人。祭司が通りかかり、レビ人が通りかかるも、自分の身に汚れを負いたくないと、道の向こう側を通って通り過ぎて行きました。しかし、ユダヤ人が見下して嫌っているサマリア人は、その人を見るなり、憐れに思い、近寄って傷の手当てをし、宿屋に行って介抱し、お金まで払ってさらに宿屋の主人に世話を頼みました。
ルカ7章13節、やもめの一人息子が死に、棺が運び出されるところ。当時の社会では世話をしてくれる息子の死は自分自身の死に等しかったやもめの母。町の大勢の人がそばに付き添っていました。イエス様はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくてもいい」とおっしゃり、棺を運ぶ足を止めさせ、死体を生き返らせ、町の外へと死体を葬る葬列の歩みを180度変えていのちの歩みへと、町の中に、家の中に帰らせる歩みへと変えて下さいました。
そして二度の給食の奇跡。
マルコ6章34節では大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を見て深く憐れみ、いろいろ教え、群衆一人一人にパンと魚を配られました。
そして今日の個所です。
「群衆がかわいそうだ」
これは直訳すれば、「私は、群衆に対してずっとずっと憐れみで心が動かされ続けている」となります。

ずっとずっと憐れみで心が動かされ続けている方、それが神様です。神は愛なり、神は憐れみ深い。私たちが願う前から、祈る前から、神様は先に気づいて、私を見て、憐れみによって心を注いでいて下さるのです。

聖書に出てくる群衆とは、イエス様のお話を聞きたくて、集まってくる民のことです。み言葉を求めていくなら、それに加えて、すべてのものが与えられる、食べるパンの心配もしていただける、そう理解できるでしょう。しかしもっと突っ込んで言えば、イエス様は、この世界に住むすべての群衆、人の群れ、そして、今生きている一人一人に深い関心と、憐れみの心をお持ちになっておられるということができるでしょう。

私たちは、そして、私たちのこの世界は、神様がイエス様のいのちをもってその空洞を、その暗黒を埋め合わせたいと願われるまでに、愛されています。

その憐れみの方が、1節、弟子たちを呼び寄せて語っておられます。
弟子たちを呼び寄せて。弟子たちを召し出して、語っておられます。
私たちも、主に召され、主の弟子とされて今、その召命の中に導かれています。

弟子たちと共に主の、私たちをお召しになるお声に耳を傾けましょう。

「群衆がかわいそうだ。」
「私はずっとずっと群衆を見るにつけ、心が憐れみの心で動かされている。」

借金を棒引きにしてくれた王様、放蕩息子を抱きしめたお父さん、走り寄って介抱したよきサマリア人、悲しみの行進を喜びの行進として下さったイエス様の奇跡、そして、本当の羊飼いとして語り、励まし、パンを与え、そして自分自身のいのちをさえ与えて私たちを生かそうとしておられるイエス様!

神様が思っていらっしゃる憐れみの思いに召し出された弟子たち。私たちも、愛する主のお気持ちに心を重ねていきたいのです。

イエス様は続けて語られます。
「三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」

一人一人を見て、遠くから来た者さえいるとおっしゃる主。相手が大群衆でも一人一人を見ておられる主。

弟子たちは現実的に答えます。
「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」

もっともです。人間としては。しかし、神様からの視点に欠けている弟子たちでした。

開口一番、ギリシャ語原典に記されている言葉は、「いったいどこから???」という問いかけでした。
無理もありません。たった7つのパンです。そして群衆は4000人。「いったいどこから?」そんな大量のパンを!!と思うのは、正常な判断です。人としては。人の間からはそんなパンは出て来ません。いったいどこから??私たちは、神様に期待することがゆるされています。
神から!です。

『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』マタイ4:4

パンだけではない、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる!私たちもまた、今日の御言葉によって新たに生かされます。信仰による命が燃え立たされます。

イエス様は、「いったいどこから?」との問いに、どうお答えになるのでしょうか。
イエス様も、質問形で語られます。

「いくつあるか、パンは?」
いくつあるか? 実に間の抜けた問いのような気がします。4000人を養うかどうかという話をしていたのではないですか、手元にいくつあるかって聞かれても、ほら、ここにあるのは私たちの自分の分だけじゃないですか。ほら7つです。でもそれは、人の考えです。

イエス様には、その7つで十分なのです。あなたの持っているもの、あなたの持ち物、あなたの能力、等身大の今のあなたで十分なのです。私たちが今持っているもので、十分です。持たないものを総動員して、工面する必要はありません。私たちのもので、群衆を養うことができます。

イエス様は、感謝の祈りをなさいました。ごくいつもの通りに。
そこに、食卓に、食事が行き渡って、ああ、今日も食事が与えられて、ありがとうございますと、文字通り感謝の祈りをささげるように、イエス様は、4000人を前に、7つのパンで、そのような「感謝の祈り」を捧げました。

信仰です。父なる神様が、この方々を放っておかれるはずがない。三日も教えを聞いて、おなかがペコペコで、帰りの道で倒れてしまうようなこの方々を、父なる神様が放っておかれるはずがない。だから、感謝しますと、イエス様は祈りました。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。
わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」 1ヨハネ5:14-15

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
フィリピ4:6-7

たとえ話 中国奥地伝道をした、ジョージ・ミューラー宣教師の話
「ミューラー宣教師が孤児たちを養っている時、孤児院には食料が全くなくなってしまいました。そこにはスプーンとお皿だけ。
職員はミューラー先生に訴えたのですが、食べ物はどこからも入っては来ません。
ついに朝になり、何百人という子どもたちが食堂で朝食を待っています。しかしどこにも食べものはありません。職員は「先生、どうすればいいでしょう」と、心配して尋ねると、ミューラー先生は「子供たちを座らせてお皿とコップの準備をしなさい」と答え、自らも食卓に座るではありませんか。職員は心配して、子供たちは「先生、お皿やコップはあるけど食べ物はどこ?」と尋ねると、「さあ、食事の感謝の祈りをしよう」と、祈り始めたのです。「天の父なる神様、今日も私たちに日用の糧をお与えくださり感謝します」と、祈りました。
するとその時、ちょうど孤児院の前でトラックが衝突し、積み荷が散乱してしまいました。なんとその積み荷は、一台はパンを、もう一台は牛乳を運んでいました。売り物にはならなくなった牛乳とパンは、ちょうど目の前にあった孤児院を見て、運転手さんたちが、もらって下さいと頼んで来たのです。」

物事を神様の御心から考える。上から良いもの、必要なものは供給されると信じること。これが大切なことです。

小さい少しの魚も、賛美の祈りと共に、増し加えられました。

人々は食べて満腹したとあります。たったあれだけのものが、4000人を満たし、飽き足らせました。
さらに驚くことは、パンの屑を集めた時、それは7つのかごにいっぱいになりました。かごはどれくらいの大きさだったかはよく分かりませんが、4000人を行きめぐって集めてきたパンくずのかごですから、きっと大きなかごだったことでしょう。かご7つ。最初に7つのパンを差し出して、4000人を満ち足らせ、そして7つのかごいっぱいに。ささげたものは、その目的を果たし、最初よりも大きな形となって、弟子たちのもとへと帰ってきました。

ここに捧げる喜びがあります。捧げものは、隣人をうるおし、そして自分自身にも、ささげた以上の恵みをもたらします。

群衆は、言葉にも、業にも、力強い主のお働きに触れて、心も体も満たされて、それぞれの家路へと帰っていきました。

今日私たちが学んだことを整理いたしましょう。
私たちは主の深い憐れみの心をあらわすために、召されています。
私たちは、群衆の必要を満たすようにと、主の憐れみによって召されていますが、それは想像を超えたことを工面するために、私たち自身が力いっぱいに走り回ることではありません。どこからそんなものが出てくるかと言えば、神様からです。御心にかなった願いは、必ず聞かれます。手元を見てみましょう。7つのパン、1つのパンでもあれば十分です。少ない知恵でも持ち物でも能力でも、十分です。しかしそれを主に捧げる時、主が幾千倍にも増やして、群衆の必要のために用いて下さいます。そしてささげた物は、ささげた人の手を離れて用いられ、そしてささげた以上の祝福となって戻ってきます。
東城町とその近隣、一万、二万の群衆のため、日夜憐れみの心をもって心を動かし続けていらっしゃる方に召し出されて、私たちも、何をもっているかではなくて、今あるものを主に捧げて、主の御業を見せていただきたいと、願うものです。

 

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