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説教原稿

2009年4月12日
「私たちの心は燃えていたではないか」
ルカによる福音書24:1-8, 11, 13-35

イースター、おめでとうございます。

私たちクリスチャンは、ここ最近、実に2000回にわたってクリスマスと、主のよみがえりをお祝いしてまいりました。
決して色あせることのない、人類最大の祝事であります。

神ご自身が赤子となり、この世界に送られた、この事実が神秘的なものであると同時に、主が罪を贖って十字架で死なれ、3日目によみがえられたというのも、神秘的なことです。

しばしば、私たちは、この世界の知識ある人々から、処女降誕と、主の復活さえなければキリスト教は信じられるのだが。あまりにも荒唐無稽じゃないかという声を耳にします。

しかし、それは決して私たちが信じられないと言って驚くほどのことではありません。なぜか。それは私たちにとっては理解できないようなことであっても、主なる神様にとっては必然であったということです。深い深いご計画の中、時至って実現された、神様のご計画でした。

弟子たちですら、つまずきました。信じられなかったのです。イスカリオテのユダは、イエス様を、もっと偉大な政治的なリーダーと勘違いしていたと見受けられます。メシアなら、神の子なら、偉大な権力を行使して、ローマも、世界もその手の中に納めてもいいではないか。なのにこの大工のせがれは、取るに足りない人たちばかり一人一人、相手をしている。風采のあがらない男だ。失望した。彼はそう思ったことでしょう。
復活の時もそうでした。イエス様は何度となく、ご自分の苦難の予告をし、しかしはっきりと3日目によみがえると、予告していらっしゃいました。(マタイ福音書でいえば16:21-28,17:22-23,20:17-19)
それなのに。弟子たちは、恐れ惑い、ヨハネ20章にありますように、鍵をかけておびえていました。トマスは、集会を欠席していました。
今日の個所にもありますように、女性たちが朝早く、香料を持って駆け付けると、そこにイエス様の体はありませんでした。
彼女たちは、途方に暮れていました。
筋書きは台本通り進んでいたのに、どうして途方に暮れなければならないのでしょうか。
女性たちはペテロら、主の弟子、使徒たちに空の墓のことを知らせました。彼らはどうしたでしょう。
弟子たちは、彼女らの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかったとあります。

イースター、おめでとうございます。それはなぜでしょうか。
それは、神の恵みは、私たちが立派な信仰者だからと言って与えられるものではないからです。長い、遠い遠い旅に出かけて下さったお師匠様が、いついつに帰ってくるよ、ゴール地点にフィニィッシュのテープを張って、くす玉を用意しておいてねと言っても、人々は上の空でした。主はよみがえられました。人々が忘れようとも、誰も出迎えてもいなくても、主はゴールして下さいました。神様の恵みの計画は、私たちに知られようと知られまいと、着々と、計画の通りに、進んでいきます。

さあ、見て下さい。お墓は空っぽです。私たちの主は、死に打ち勝たれたのです。

こんなに素晴らしい出来事なのに、婦人たちは途方に暮れていました。あらかじめ予告されていたのに、彼女たちにとってそれは、理解できないくらいの、大きな喜びでした。悪い方に悪い方にと考えるのが人間です。別の福音書によれば、彼女たちは誰かが主の遺体を盗み出してしまったと信じていました。

今日イースターの礼拝に集われた皆様に申し上げたいのは、神様を信じることの素晴らしさということです。
現実は、神様によって、予想もつかない素晴らしいことになっている、ということです。
もう約束されているのに、聖書の中にたくさんたくさん祝福が約束されているのに、もう勝利しているのに、もうよみがえっているのに、もう恵みを得ているのに、しばしば私たちは、神様に対して盲目です。悪いことに対して、恐怖に対して盲目ならいいのですが、良いこと、神様の力強さ、恵みの深さ、勝利、素晴らしいことに対して実に私たちは、盲目です。聖書の中にどれだけ神様は私たちと共にいる、私たちを守ると、書いてあるでしょうか。しかし私たちは容易に、力強い神様を心の中から閉め出してしまいます。そうして悲観的な空気が心を満たすのです。

イースターの素晴らしさ、それは、神様の力強さを心に焼きつけられることです。

途方に暮れている婦人たち。
そこに輝く衣を着た、二人の御使いが現れました。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」

ハレルヤです。主は生きていらっしゃいます。
戦争も終わり、あなたの息子さんの遺骨を引き取りに来て下さいとの知らせが届いたら、そこに倒れこんでしまうほどのショックだと思います。信じられないこと。しかし事実を受け入れなくてはなりません。お骨を前に泣いていると、当の本人が帰って来て、お母さん、人違いだよ、僕はほら、生きているよ。さあ、家に帰ろう。こんな出来事があったら、地獄から天国に昇る気持ちだと思います。
死の世界。そこにはだれも関わりを持ちたくありません。一度行ったら帰ってこれないからです。永遠の別れ。人の終焉です。
しかし、イエス様は、確かにその世界に足を踏み入れたのに、戻ってこられました。しかしこれはたまたまお目こぼし頂いた、幸運という言葉でかたずけられるものではありません。
イエス様は、人を死の世界に縛りつける約束手形である人の罪を贖って下さったので、人にとって死はもはや無力となったのです。死の厚い壁は粉々に壊され、もはや死は、イエス様の救いを受けた者にとっては、力のないものとなってしまった。これがイースターのメッセージです。
もう死なんて、力ないものになったのですよ。ましてやイエス様を閉じ込めていることなんてできるわけがないじゃないですか。
どうして生きている方を、死人の中で探すのですか。
あの方は、ここには、墓にはおられません。
復活なさったのです!

この主の復活は、私たちの復活の希望です。

まだガリラヤにいたころ、イエス様がお話になったことを思い出しなさい。

人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。

人の子は、罪深い人間の、まさに罪の行いによって十字架につけられる。そのことによって、人の罪深さは明らかにされました。しかしこうして、イエス様はこの世界の罪を示し、そしてその罪の贖いのために、十字架について下さったのです。そして、死に勝利し、3日目によみがえることは、最初から予告されていました。

そこで、婦人たちは、イエス様の予告の言葉を思い出しました。

ここで私たちが心を留めるみ言葉は、「思い出しなさい」です。
恵みは、勝利の約束は、もう既に何度も語られていたではないか。静かに思い出しなさい、そういうことです。私たちも今までに幾度も、主の御言葉から示されてまいりました。しかしそれがすぐに、困難の極み、失望の極みという所、涙のところでは思い出せないのです。
しかし神様は、御使いを通して、思い出させて下さいます。
今の私たちの立場であれば、内住の、内に住む、聖霊様が私たちに、イエス様のお言葉を思い起こさせて下さいます(ヨハネ14:26)。

はたと、婦人たちは、思い出しました。そして彼女たちは、悟りました。
すべては恐れることはないと。主はあらかじめおっしゃっていた通りの道を進まれたのだということを。主はやはり神のひとり子だったのだということを。主に偽りはないということを。瞬時に、この目の前の出来事によって、彼女たちは、悟ったのでした。

キリスト教は、古い昔からの教えですが、ギリシャ神話のような作り話ではありません。事実に基づいた出来事から始まっています。
事実だからと言って、すなわち信じやすいかといえば、そうでもありません。婦人たちも、初めには途方に暮れました。「そんなことがあるだろうか」と、目を丸くしました。
しかしそれは、初めにも申し上げましたが、驚くべきことではなく、すべてあらかじめ予告されていた、計画されていたことだったのです。
聖書に書かれている事実というものは、奇跡というものは、聖書全巻、旧新約聖書の筋書きの中で、決してその出来事は、突出したものでも、調和を乱すものでもありません。
むしろ、一つの脈々とした一本の流れの中に、深い調和を醸し出しています。
アブラハムから数えても2000年の長きにわたる旧約聖書は、たくさんの著者によって、長い年月のもとに、執筆された場所も様々に異なるのに、実にそのテーマは一貫しています。

彼女たちは、揺り動かされることのない、神様のご計画の延長線上に、この「空の墓」を重ね合わせていました。彼女たちは、主の御言葉により、信仰へと導かれ、この現実を理解したのです。

理解しきれないのが弟子たちです。何を寝ぼけたことを。何をたわ言をと言いました。しかしペテロだけは走って行って空の墓を見ました。

私たちの言っていることも時に分からない方から言わせれば、「たわ言」のようなものかも知れません。処女降誕、復活、なんて非科学的な。いい大人がなんて寝ぼけたことを。そう言われることでしょう。しかしそこに居合わせた人、事実に立ち会った人にはたわ言でも何でもありませんでした。むしろ事実を曲げてソフトに常識的に言うことの方が、「たわ言」なのです。
あの水をぶどう酒に変えられた奇跡を思い出します。
結婚式の世話人は、よくも最後までこんなにいいものを取っておきましたねと言いました。彼に、これは水を汲んで持ってきたのですよと言っても、「たわ言」だったでしょう。しかし、水を汲んで持って行った人たちは、それがイエス様の奇跡の業であると、分かっていました。事実を目撃したのですから。
もう一度申し上げますが、キリスト教は、事実に基づいた教えです。
ですから、キリスト教を、いくら哲学的に、観念的に、分解して信じようとしても、信じることが出来ません。まず事実として信じる時に、信じる私たちに、生ける神様が新たな奇跡という事実を持って、臨んで下さるのです。

新しい年度を迎えております。
私たちは今年、頭で考える観念の神様を学び、信じるのではなく、事実を持って臨んで下さる神様を体験させていただきたいと願います。私たちは体を動かし、手を動かし、イエス様に従う愛の歩みを通して、私たちに先立って働き、しんがりとなって背中を押して下さる、生けるイエス様を体験させていただきたいのです。

エマオの途上の出来事です。

二人の人は、暗い顔をしていました。何やら口論といいますか、議論をしながらエルサレムから11キロメートルの、エマオという町を目指して歩いていました。
こんな大事な復活の日に、町から離れてどこへ行こうとしているのでしょうか。家に帰るのか、難を逃れようとしているのでしょうか。

どうやらこの二人、軽やかな足取りというよりも、沈痛な、重い足取りです。
「何でこんなことになっちゃったんだろうなあ」「あの方こそ神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていたのになあ・・・」

がっかり。失望。人が向かうのは、また悪い方、悪い方。いくら議論をしても、どんどん暗く落ち込むばかりです。

そんな二人にそっと世のそって、人生の旅路に連れ立って歩いて下さるイエス様。
しかし彼らの目は遮られていて、イエス様とは気付きませんでした。これもまた神様のご計画でしょう。

「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」
いったい何の話をしているのですか、イエス様は尋ねました。
彼らは暗い顔をして言いました。
「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

どんなことですか?

「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

生ける神の御子、キリストですと言ったペテロの告白むなしく、彼らはイエス様のことを、「力ある預言者」としか紹介していません。

そして婦人たちがいくらイエス様は予告の通り、み言葉の通り、よみがえられたのよと言っても、彼らは半信半疑でした。おそらく議論というのも、そのことだったのでしょう。そんなことが信じられるか、信じられるか。頭でいくら考えても、分かりません。
墓に行けば遺体はないし、いったいどう理解すればいいのか…。

神様のなさることは、人が理解をしようとしまいと、突き進んでいきます。私たちはしばしば神様のご計画という列車に、乗り遅れます。自分の力で走ってついていこうとして、疲れてしまいます。しかし、信じて、ただ列車に乗れば良いのです。

イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

イエス様の死と復活ということが、いかに聖書全巻のメッセージであるのか。必然であるのか。それは聖書を紐解けば、明らかなことでした。

日も暗くなり、イエス様は先に行かれるようでしたが、彼らはもう暗いですからと言って、引きとめました。パンを割いて、お祈りなさったとき、彼らの目が開きました。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」そう語り合い、
彼らは日が暮れかかっているにもかかわらず、喜びに足を弾ませて、エルサレムに向かいました。先ほどの道のりとは正反対の心持の足取りでした。

エルサレムに着くと、ペテロにも主が現れたことが語られていました。合流した二人も、嬉々として、自分たちの体験を話しました。
教会は、こうして、人生の歩みの中、主が伴って、同じ状況の中にも主がみ言葉から語りかけ、信仰によってこんなにも心燃やされ、喜びに変わるのだということを証しし合う場です。

私たちは、まず自分の筋道を立てようとすれば失望しますが、ひと度主の現実に目を向ければ、み言葉に思いを砕けば、心はあかあかと燃やされ、希望がわいてくることを知っております。

このことを話していると、イエス様が、この話の輪に入られました。「あなたがたに平和があるように」祝福の祈りをして下さいました。
恐れおののく弟子たちのために、亡霊ではない、実体があるということを証明するために、イエス様は魚をパクパクと召しあがりました。
この後また見えなくなられましたが、召しあがった魚の骨は、そこに確かにありました。よく冗談で話されますが、肉を召しあがったなら何も残らなかったかもしれません。
弱い弟子たちのために、イエス様がどれだけ心を砕いて下さったかが分かります。

まとめに入りますが、私たちの信仰の原点は、イースターにあることが分かります。それはよみがえられた主という事実です。聖書全巻の計画の中にあり、確かによみがえられた。このことを信じることにより、私たちは常に主の御言葉の上に自分の全存在を形作っていく。このことが唯一大切なことであることを学びます。

礼拝のただ中にいらっしゃり、生活のただ中にいて下さり、「あなたがたに平和があるように」と祈って下さるイエス様に従いぬく、臨在の信仰に生かされたいと、心から願います。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。へブル10:25

 

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