説教原稿
2009年4月5日
「今日わたしと一緒に楽園にいる」
ルカによる福音書23:32-56
主の受難の週を迎えました。
日曜日、子ろばに乗ってエルサレムに入城、人々は喜び、棕櫚の枝を持って、服を道に敷き、王を出迎えるようにイエス様を迎えたのもつかの間、イエス様は、偽りの証言と共に夜中に捕らえられ、不当に死刑の宣告を受けました。祭司長、律法学者は一部の群衆を焚きつけて赦免を与えようとするピラトを説得し、強盗バラバを釈放させました。「十字架につけろ」「イエスを十字架につけろ」との大合唱。「祝福あれ、主の御名によってこられる方に。」との声が、人の心がそんなにも早く変わるというのでしょうか。
私たちは、群衆心理を知り極め、人々の心を操作しようとする権力者のはかりごとというものが存在するということに、注意しなければ、なりません。日本がかつて、戦争に突入しようという時も、その時は、冷静な判断を失っていました。アメリカが、先ごろイラク戦争が起こりましたが、大量殺人のための生物兵器を隠しているというのが戦いの大前提でしたが、結局そういうものは発見されませんでした。
大きなうねりの中で、まさに人の罪深さと誤りとの中で、イエス様の生命は、奪い取られようとしていました。しかしそれは今に始まったことではありません。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」マタイ23:37
つい先ごろは、バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不倫を暴いて首を切られました。そして、このあと、迫害の手は、イエス様の弟子たちにも及びます。
権力闘争に敗れ、抹殺されたイエス様は、何人かが言うように、「人を助けたが、自分を助けることのできない」まやかし者なのでしょうか。私たちは、イエス様の受難から、何を学びとるべきなのでしょうか。
「されこうべ」、骸骨の丘に十字架が三本。真中がイエス様で、その左右に犯罪人です。死罪を受ける犯罪者ですから、超極悪犯です。きっと人殺しでしょう。その中に、人殺しの極悪犯と共に、私たちの主イエス様が、太い太い釘に両手両足を貫かれ、十字架に架けられています。
人の命を救い、病をいやし、見捨てられていた人たちに罪の赦しの宣言をしたイエス様が、殺人犯と共に、あらぬ罰を受けようとしておられます。冤罪です。策略です。イエス様に限って、なにも、全く罪が見当たりません。自分を神とする、冒涜だとユダヤの指導者たちは怒り狂いました。しかしイエス様は、神ご自身です。
イエス様が十字架にかかっておられるということ、このことこそが人の欺瞞そのものであり、でっち上げそのものなのです。
何かの勘違いでこうなったのではありません。民の指導者たちが、念入りに計画したのでした。
神は、人によって、取り除かれたのです。
神の手を払いのけ、私たちの勝手にやらせてくれ、正義は私たちと共にある。人の、明確な神への反逆でした。
私たちは、2000年前の彼らの悪事を、決して他人事とすることはできません。今の時代、どれだけ神のやり方よりも、人のやり方が優先されているでしょうか。神の御心を求めるよりも、自分のやり方を優先させているでしょうか。
キリスト教国家と呼ばれている国でも、まことしやかに、神の言葉を用いながら、神様の御旨に反したことが行われます。教会でも、日本では戦時中、多くの教会が国家権力に従うより他に道を得ず、結局戦争に反対しえず、アジアの教会への激しい迫害に加担してしまったという、教会の罪責告白が戦後の節目の年に次々と出されました。
私たちは、正しく生きようと願いながらも、数々の罪を犯し続けながら歩いてまいりました。イエス様は、弟子たちに、互いの足を洗い合いなさいと教えて下さいました。
ユダヤ人も日常の罪を自覚しており、それで、いつもいけにえの動物を携えて、神殿に入りました。
人が正しく神様の前に歩み直すため、神様の前に悔い改め、心を向けるはずのいけにえ、神殿であるはずのものが、ゆがめられていきました。神様が意図しておられない、数々の律法があり、それらは、祭司や律法学者が落ち度なく行い尊敬され、できないものは見下すといった人の区別、格付けのために用いられるようにさえなりました。また、そのような支配階級は、神殿でやもめの女性がわずか少しのお金であっても全生活費を投げ入れ、神様への信頼を告白しているにもかかわらずそれに気付かず、ジャラジャラとたくさんの金品を投げ入れるお金持ちをもてはやしていました。宮の中では利をむさぼった両替人や、いけにえの販売人がおり、その得た利益は、権力者を富ませるものであったのでしょう、イエス様は、憤って、神殿を強盗の巣にしていると、お怒りになられました。
私たちが本当に、神様の御心に生きているか否か、こう真剣に問うことが大切です。御心に背く行いというのは、宗教を腐敗させ、キリストを十字架に付け、抹殺するという行動へと直結していきます。
これが人間の地金です。私たちは、正しいことを求めながらも、結局は自分かわいさの余りに隣人を犠牲にして歩みたがるのです。こうして神の御心に背く。これが罪の性質です。
皆で富を分配し、だれもひもじい思いをしないようにと願っても、結局は働かない人が出てきたり、権力闘争や独裁体制が出来上がり、貧富の差が生まれたりします。資本主義、民主主義と言っても、企業や官僚、政治家たちは、どうしても癒着して、「人々のために」と謳っていたものが、結局一部の人たちを富ますに終わることがあります。
この世界は、そのような、罪の世界にあり、皆が皆、自分本位に生きる罪の世界になってしまいました。
イエス様が十字架にかけられるということは、人のそういう罪の性質が明らかにされることでした。
しかしイエス様は、そんな異常な、人が正しいものを策略にかけ、神を抹殺するという状況の中にあっても、静かに、祈りを捧げておられました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
イエス様は、この祈りを祈り続けていらっしゃいました。一回だけ祈られたのではなく、ずっと祈り続けておられたということが、原語ギリシャ語のニュアンスから、伝わってきます。
イエス様が最後の時、祈り続けておられたこの祈りこそ、イエス様が何のために地上に来られ、何をなさろうとしておられたのかが分かる祈りです。
イエス様は、父なる神の前に、裁きの怒りを前にして、私たち人間の前に立ちはだかり、「赦してあげて下さい」と弁護するために、来て下さいました。イエス様は、ご自分が不当に苦しめられ、取り除かれようとしておられるのに、自分の苦しみを告げて報復を願うのではなく、むしろその逆のことを願われました。ここに、イエス様の、ご本質が現れています。神としてのご本質が現れています。
イエス様にとって、ご自分のいのちなど、何にも気を留めてはいらっしゃらなかったのです。しかし、イエス様が最後の時、命を削って、痛みと苦しみの中、なさっていたことは、人の赦しのための祈りでした。
人は、この祈りを間近にしたときに、痛烈にこれを批判しました。馬鹿にしました。何が赦して下さいだ。自分があんなに悲惨な目に遭っているのに。本当に立派な、力あるメシアなら、自分を救ってみろ。
議員たち、兵士たち、そして極悪人で隣の十字架に架けられている隣の男すら、イエス様に、この弱虫、馬鹿もの、ペテン師と、あざわらって話しました。
彼らもまた、ひと度そう語ったのではなく、それぞれに、その罵詈雑言を言い続けたということが、ニュアンスから伝わってきます。
あっちから、こっちから、そしてとなりの極悪人からも。馬鹿もの、ペテン師、メシア様ならば、さあ、自分を救ってみろとのあざけりを受けたならば、どんな気持ちになるでしょう。「お前たちに何が分かる?私こそ本当に神のひとり子、神自身、この世界を創造した神なのに」さあ、裁きの炎の柱を受けるがよい。私たちなら、こう憤ってしまうのではないでしょうか。
実際イエス様がお命じになれば、天の軍勢が直ちに降りてきて、十字架からイエス様を解き放し、迫害するものをすべて打ち滅ぼすことなど、この上なく簡単なことでした。
しかし、イエス様はそう願うことなく、彼らのために、祈り続けます。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
「自分が何をしているのか知らない。分からない。」
知らないからと言わされない、大胆なことをしているのではないでしょうか。今までの長い迫害の歴史があるのではないでしょうか。イエス様の力強い御業の奇跡を数多く見ていながら、神の力によっていると心で認めながら、迫害して死に至らせようとしているのではないでしょうか。
しかしイエス様は、「自分が何をしているか知らないのです、赦して下さい」と祈り続けます。
実に愕然といたします。私たちはそんなにも、正しいことと、誤っているものとを判別できない、自分が何をしているのか分からない状態で生きているということです。
これが、あの善悪を知る木の実を食べた結末であるとは、実に、実に、皮肉です。人が神のようになり、目が開けて善悪を知るようになると言われ、そそのかされて食べたことにより、人は神から離れ、神との関係において死んだものになってしまいました。
善悪は、人が自分で判断するものではなく、神ご自身こそが善であり、神と共に歩むことこそが善であるということ、神から離れて生きようと思えば人は自分が何をしているかも分からないほどに判断力を失った存在であるということを人は知らなければなりません。
神の忍耐と赦しの祈りをわきまえずに、神様の赦しのご計画をもわきまえずに、ただざまあみろ、力あるメシアならそこから逃げてみろというのは、本当に人の浅はかさであります。
しかし、もう一人の犯罪人は、ずっと十字架の上からあざけっている犯罪人を叱って言いました。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
イエス様が必死に祈って下さった祈りは、罵り続ける人たちには、どう聞いたのでしょうか。何をばかげたことを。何様のつもりだ。おれは十字架にかかるようなことはしていない。しかしお前さんは十字架にかかっている。赦してくれというならば、あんたが俺たちに頼まなければならないのではないか?こう思ったことでしょう。
極悪人さえ、自分の身が助かりたいばかりに、さあ自分を救って、俺達を救ってみろと挑戦するかのように、イエス様に食って掛かりました。
あざける人たちはみな、決定的に欠けているものがありました。それは、一人一人が人を責めている場合ではない、自分自身が神の前に、罪びとであるということです。
そのことをもう一人の罪人が、はっきりと言い表しました。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
自分の罪を言い表すのみならず、この犯罪者は、イエス様が、何も悪いことをしていないということに気づいていました。
何も悪いことをしていない。そんな人間はいないわけですから、この犯罪者は、イエス様が神様のもとから来られたメシア、救い主、神ご自身であることを告白したのです。
いばらの冠をかぶせられ、十字架にかけられ、見る影もないイエス様でしたが、この犯罪人は、この方こそ神の救い主であるということが分かりました。
ののしられてもののしり返さず、自分の敵のために赦しを願うイエス様と、自分とを比較し、自分の判断で神をおとしめるのではなく、自分自身をへりくだらせて、自分の過ちを認めて、神様に率直に赦しを求める姿勢です。
この犯罪人は、「あなたの御国においでになるときは、私を思い出して下さい」と願い続けました。
いくつかの声が、重なり合いました。
まずはじめに、イエス様の、人の赦しを求める祈り、しかしそれをかき消すように、3つの群れから、落後者のくせに、何が彼らを赦して下さいだ、自分を救ってみろと、上から目線で自分の罪を認めない声。しかし三番目には、自分の罪を認め、へりくだって赦しを願い続ける声。
右から左から、前から、いろんな声が聞こえてきますが、イエス様は、誰に対して口を開かれるのでしょうか。
イエス様は、赦しを乞う犯罪者に、言われました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
イエス様は、誰に対しても口を開かれませんでしたが、自分の罪を認め、イエス様を神と信じて助けを求める犯罪者に対しては、たれがどんなに重罪を犯した人であるにもかかわらず、すぐに、はっきりと、明瞭に、救いを宣言なさいました。今日、一緒に楽園にいる。自分の罪を悔い、イエス様を神から遣わされた救い主であると信じれば、死後直ちに私たちは、神の楽園、パラダイスに移されるのです。
私たちは、救いを得るために、二つのことを知らなければなりません。ひとつには、私たちが自分のしたことの報いを受けなければならないということ、そして、イエス様はどういう方であるかということ、すなわち、罪を何も犯さない方なのに、十字架にかかられたということです。
昼の12時から3時、もっとも明るい時に、太陽は光を失い、暗くなりました。
イエス様が、人の罪を背負い、罪人と数えられて、死に至る、その時でした。神様の深い怒りを受けて、神のひとり子が刑罰を受けるその時でした。
神殿の垂れ幕が、真ん中から裂けました。
この垂れ幕は、神殿の至聖所の前に掛けられていたものでした。大祭司がいけにえの血を携えてしか入れなかったその所が、オープンなところ、開けたところとなりました。
御子のいけにえの血が流されたからです。ただ御子イエス様の血によって、信じる者が、何の隔てもなく、神様のもとに帰ることができるようになりました。神殿のもろもろの制度は、イエス様によって成就されました。
イエス様は、大声で叫ばれました。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られました。
十字架刑に何度も携わったベテランのローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美しました。 異邦人伝道へと幕が切って下ろされた瞬間でもありました。
太陽が暗くなり、神殿の幕が裂け、これらの出来事を見ると、人々ははっと我に返ったように、胸を打ちたたきながら、悲しみながら家路に帰って行きました。
しかしただ悲しみながら、家に帰ってしまっては、何も変化がありません。人々は、容易に操られる根なし草のような存在でした。喜んで主を迎えたかと思えば、手のひらを返し十字架につけろと叫び、十字架につけて殺せば、胸をたたきながら帰る。こう言う群衆の中に入り込み、自分でよく物事を考えなければ、イエス様の救いを得ることはできません。
ヨセフという議員は、善良な正しい人で、最高議会の議員でしたが、同僚の決議や行動には同意しませんでした。お前もイエスの弟子だろう、裏切り者と言われても、彼はじっと我慢し、自分の信じる道を歩んでいました。
彼は本当に神の国を待ち望み、流されずに、しっかりと本物を見極めようとしていました。
そして、イエス様に出会い、弟子となったのです。
彼は、その思いを実行に移しました。
ピラトのもとに行き、遺体の下げ渡しを願い、真新しい墓に納めました。
安息日に入るまでに仕事を終え、舞台が整いました。
女性たちは、週の初めに香料と香油を持ってすぐに墓に行けるようにと、準備をしました。
そして復活の朝の出来事に続きます。
今日は、様々な人間模様の対比を見ました。
赦しを願うイエス様の祈りと、逆上して自分こそを救え、俺たちを罪人と呼ぶその態度にむしずが走るという人たち。しかし、その通りじゃないか。俺たちこそ自分のしたことの報いを受けている。あの方は何もしていない。どうかイエス様、御国で私を思い出して下さいと願う者。 悲しんで、家に帰る者。とどまって見守る女性たち。勇気を出して遺体を納めるアリマタヤのヨセフ。 弟子たちをよそに、活躍する女性たち。弟子たちは次は我が身かと、恐れていたのでしょうか。
私たちは、イエスさまこそわが主と、どんな状況でも、告白することができるでしょうか。状況が悪くなると、逃げたり、知らないふりをしてしまうということはないでしょうか。恐れずに、信仰を貫き、自分が危険な身に立たされようと、信じる者を貫くことができるでしょうか。
自分の罪を棚に上げて、神をあざけり、自己憐憫に陥ったりしないでしょうか。
祈り
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
イエス様、いつも私たちを導いて下さい。イエス様を捨てて、イエス様だけを罪人にして、自分は義人ぶってしまうことがありませんように。
いつも弱い私たちを見守って下さい。正しい歩みができるように、導いて下さい。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
あなたから離れた安全など、なにも意味を持ちません。迫害のただ中でも、あなたと共にいることこそが楽園です。どうかいつも共にいらして下さい。
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