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説教原稿

2009年3月29日
「兄弟たちを力づけてやりなさい」
ルカによる福音書22:31-34, 54-62

3月最後の礼拝です。今年度もこの礼拝が最終となります。
来週は受難週、再来週は、イースターです。

私たちは、創世記から、ヨセフの苦しみと、神様のお取り扱い、そして彼の受けた苦しみにより、彼の家族を救い、エジプトや世界を救ったことを学びました。

そして今日からは、私たちのために苦しみを味わったイエス様のことを学びたいと思います。

病の人たちをいやし、虐げられていた人たちを赦し、良き知らせを告げ、歩かれたイエス様でしたが、そのゴール地点は、贖いの十字架でした。
罪による膨大な負債は日々増し加わるばかりで、どんないけにえをもっても、良い行いによっても、到底支払いきることはできませんでした。
そこでやってこられたのがイエス様でした。イエス様は、人を縛りつける負債の債務証書を破棄するために(コロサイ2:14)、ご自分が身代わりとなって下さったのです。
「罪が支払う報酬は死です。」ローマ6:23とありますように、罪を犯すと、私たちはその報酬として死を刈り取ります。古今東西、誰もが死によって舞台から退場していきました。
しかしイエス様は、ご自分の死とよみがえりによって、私たちに、永遠の命の道を、開いて下さいました。いや、イエス様が道そのもの、命そのもの、真理そのものであって、私たちと共にいて、導いて下さるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。」ヨハネ14:6

有名な、鶏が鳴く前に3度主を否んだペテロの記事から読み進めてまいりましょう。

31節、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」とあります。

シモンというのは、イエス様の一番弟子ともいえる人ですね。ペテロという愛称をもらっていました。ペテロとは、岩という意味です。彼は岩のようにどっしりとした固い信仰、揺るがない信仰をもっていたからペテロというあだ名をもらったのか。そういう面はあったかもしれません。弟子たちのリーダーを自負していたのか、彼はいつも真っ先に、我先にと行動しました。弟子たちの中で一番先に、イエス様を、メシア、生ける神の子と、告白しました。マタイ16:16 しかし、そのすぐ後で、イエス様の十字架の予告を聞くと、そんなことがあってはならないとイエス様をいさめ、「神のことを思わず、人間のことを思っている」とのお叱りをも受けています。
ガリラヤ湖の上を歩くイエス様を見て、幽霊だと騒ぐ中、「あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」マタイ14:28といったのも、ペテロでした。
勇気のある兄貴分、弟子たちのリーダーです。
彼は、ルカ5章にて、イエス様から、「あなたは人間を取る漁師になる」と言われ、弟子入りしました。しかし彼は、完璧な信仰ゆえ、主の弟子にされたわけではありませんでした。
一晩中漁をして、その晩全く魚がとれない日で、朝、眠い目をこすりながら網を洗っていました。そこにイエス様の演説会がありましたが、ペテロたちはどこ吹く風、網を洗い続けていました。そんな彼らにさあ行こう、もう一回漁をしようといったのが、イエス様でした。まさか、立派な先生でも餅は餅屋。あっしらが夜の漁火漁をやっても取れなかったのに、こんな朝っぱらに魚が来るはずもございゃせん。こう言い掛けて、ペテロは、人のよさからか、気風の良さからか、でもやってみましょうと、言いました。イエス様の顔に泥を塗りたくない。とりあえずお付き合いしましょうと、舟を漕ぎました。あらよっと、網を下し、軽く網をあげて、ほら、左様でございますでしょうと言おうと思いきや、ズシリ、網が重い。おや、何かに引っ掛かったかな?いやいや、ズシリ、ズシリと引っ張ると、まばゆい朝の光に反射するうろこが光、ピチピチ、バシャバシャ、うわあ、大漁だ、みんな、助けてくれ、上げきれねえぞ!こう言うことになったのです。「こんなことがあるわけない。」ベテランの漁師なら、分かることでした。瞬間的に目の前にいらっしゃる方のお働きだと、皮膚で感じたペテロでした。大男が、イエス様の前に、ひれ伏しました。「主よ私から離れて下さい。私は罪深い者なのです。」
「恐れることはない。今から後、あなたは人間を取る漁師になる。」これがシモン・ペテロ誕生の瞬間でした。

長年培ってきた経験則。それと、神様の御心にゆだねること。「神のことか、人間のことか。」これは常に私たちにも問われることです。

シモンペテロとは、そういう人でした。体当たりで、一生懸命で、ほめられることもあれば、失敗することもありました。でも彼は、迷いの中、しかし私は、自分の価値判断をおいても、神様の御力にすがっていきたいと、切に願う人でした。

その一番弟子シモンのため、イエス様は、語られます。もうすぐ切り離され、死が二人を引き離す、最後の時です。ご自分がそのような目に遭ったら、弟子たちはいったいどうなってしまうのだろうか。
「シモン、シモン、見なさい。」イエス様は、シモンに、これから起こることを説明なさいます。霊の目で、いつも見通し、弟子たちを導いてこられたイエス様。見なさい、サタンが、神に願って聞き入れられました。何を聞き入れられたのでしょうか。それは、「あなた方を小麦のようにふるいをかける」ということをです。
小麦のふるい分けとは、何でしょう。
小麦を収穫してのち、小麦の粉の入った身の部分を取り分けた後、外側のからの部分から砕いて中の粉が出てくるようにすると、農家は、そのふすまと、粉とを分けるために、ふるいにかけます。粉を蓄え、必要のない外側の皮は、集めて火にくべられます。これは裁きのたとえです。弟子としての究極の試験がこの時課されようとしていたのです。

サタンとは、堕落した天使です。神に仕えることをよしとせず、自分こそが神になりたいと思い、傲慢から、地に投げ落とされました。イザヤ14:12-15
アダムの妻エバを誘惑し、荒野でイエス様を試し、そして今に至るまで信仰者を堕落させようと、探し回っています。1ペトロ5:8「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」

サタンは、神と人との敵対者であり、告発者です。ヨブ記にもありますように、人のあら探しをして、神に告発し、ほら、彼は神を信じると言いながらあんなことをしていますよと、人をおとしめようとしています。サタンは、こうして、人を神様に不適格なものとさせ、神に捨てられた人を自分のものにしようとして、自分の食い物とするために、探し歩いているのです。まさにハイエナ、まさに獰猛な腹を空かせたライオンです。
しかし注目したいのが、このサタンという存在、強い力をもって神と対等な存在として活躍をしているのかといえば、そうではありません。サタンは、神の願って聞き入れられたとあるように、神の許しがなければ何もできない存在です。
しかし、神様は、罪人をキリストの代価によって受け入れる神様です。サタンはお前は不適格、神様にふさわしくないからこっちのベルトコンベアに移りなさいと言って、その先に口をあけて待ち構えています。しかし、神様にとって不適格な存在などありません。罪人を赦すため、イエス様が十字架にかかって下さり、すべて私たちが告発されるべき理由を帳消しにして下さったのですから、私たちが被告席にい続ける必要は、もうなくなってしまったのです。

この後見事にこれでもかこれでもかと、3度も、ペテロはイエス様を知らないと言います。ペテロにしてみれば、サタンのふるいに掛けられて、自分は絶対に燃やされる「もみ殻組」に入れられたと思ったことでしょう。
しかし32節、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
そんな人間の弱さ、愚かさ、罪深さ、意志薄弱、無節操の破れ口に立って下さるのが、イエス様です。「私、私はあなたのために祈った。」これがイエス様です。ここにはっきりとイエス様の十字架が見えます。人は罪ゆえに、告発者の告発を逃れることができず、根こそぎ連れられて行きます。アウシュビッツ行きの列車に乗せられるようにです。しかしそこに待ったをかける人、それがイエス様です。私が身代わりになるから皆を行かせなさい。私が罪をみんな背負う、私がみなの罪の責任を取るから、こうして、イエス様は十字架につかれ、私たちの罪はキリストによって赦されました。
しかしもともと罪と無縁な神の御子が死に支配されたままでおられるということはありえません。イエス様は、よみがえられました。

「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」使徒2:24

「あなたがたの信仰がなくならないように祈った。」という祈りをかみしめましょう。
ペテロはイエス様を3度も否んで、どの顔で再びイエス様に祈ったら良いかと思ったでしょう。弟子としての資格がないと思ったでしょう。信じ続ける資格もないと思ったでしょう。
ここでイエス様は、ペテロに対して、あなたがたの弟子としての資格がなくならないように祈ったとはおっしゃいません。イエス様は、弟子たちがイエス様を否み、散り散りに逃げ去ったとしても、そのことを許せないとは思われません。誰一人ご自分の孤独な戦いについてきてくれる弟子がいないのかと、お嘆きにはなりません。しかし、その混乱波乱を通り越して、なお弟子たちが信仰を持ち続けてくれるようにと、祈って下さいました。自分の所に帰って来てくれるように、また信じてくれるようにと、弟子たちに、扉を開けて待っていて下さるのです。
放蕩息子のたとえ話がありました。どの顔下げて帰れるのか。しかし、お父さんは、毎日、朝も昼も、息子が帰ってこないかと、遠くに目を凝らしていました。父なる神様もまた、そういうお方です。
「だから」、そういう神様だから、あなたがいち早く立ち直り、そうして、自責の念につぶされている兄弟たちを力づけてやりなさい。あなたが私に代わって力づけてやりなさい。弱り果てた彼らに力を与えなさいと、イエス様は言って下さいました。

しかしそんなイエス様のお気持ちはつゆ知らず、ペテロは自分は牢屋にも、死の果てさえも、あなたとご一緒にと、力説します。この決意を聞いてイエス様は嬉しかったことでしょう。しかしそうは行かないことを主はご存知でした。
34節、「ペテロ、私は言っておくよ、」優しく語りかけるイエス様。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

「もう分かっているよ、みんな分かっているよ。お前のその思いも、でもどうすることもできないことも。私はお前を責めるつもりで言っているのではないんだよ。お前たちのために祈った。とりなし祈った。だからきっとお前は立ち上がる。その時に他の弟子たちも力づけるんだよ、いいね。」
こういう、あたたかい主のご配慮です。
サタンが告発者なら、イエス様はどこまでも弁護者です。弁護者のみならず、身を乗り出して被告席に立って、私たちを刑罰からかばってくれるような弁護者です。こんな人が、他にいるでしょうか。

その時が来ました。
剣や棒を持った多くの人たちが、イエス様と弟子たちのいるところを取り囲みました。弟子たちは剣を取って打ちかかったりして戦いもしましたが、散り散りに逃げ去って行きました。
しかしペテロはただ一人、牢でも死でもご一緒にといったとおり、イエス様についていきました。ただ、遠く離れて従って行きました。縄で縛られ、馬鹿にされ、たたかれるイエス様。何かお祭りのような、集団リンチのような、ただならぬ興奮の雰囲気を持った、夜の集会でした。
たき火にあたるペテロの照らされた顔を見て、じっと見つめる女性は、「この人はあいつと一緒にいた奴だよ」と言いました。
一斉にギロッとした目で見られ、自分も血祭りにあげられると思い、とっさに「私はあの人を知らない」と言ってしまったペテロ。あんなに心に誓ったのに。彼はそこの雰囲気にすっかり飲まれてしまっていました。
人気のない所に場所を移したのでしょう、それでも少し経って、他の人は、「お前もあの連中の仲間だ」と言いました。また集まる注目の目。「いや、そうではない」と言いました。
1時間後、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言いました。イエス様の弟子たちは多くがガリラヤの出身だということが知られていました。ガリラヤの訛りは隠しようもありません。「あなたの言うことは分からない」、別の福音書では、誓って、そんな人は知らないと言ったともあります。
ここで、まだその言葉を言い終わらないうちに、突然鶏が大きな声で鳴きました。
「あなたのいうことは」・・・「分から・・・ない・・・。」他ならぬ自分の口が発した3度の言葉。まだ言い終わらないうちに鶏が鳴き、捕らえられていたイエス様が振り向き、ペテロをじっと見ました。
ペテロは主があらかじめおっしゃっていたことを、思い出しました。
彼は大祭司の庭から逃げ出すと、激しく、激しく泣きました。

今日の個所から学んだことをおさらいいたしましょう。
サタンは、自分では何もする権限はないが、人を告発し、神に挑戦するために、信じる者をふるいにかけようとすることがあるということ。そして罪ある者を死に定めようと、神のおきてを盾にして人を破滅させようと狙っている姿を学びました。
ペテロのくず折れる姿を見ましたが、私たちは、正しく行いたいと思いながらも罪を犯してしまう弱いものであり、検察官、告発者の矛先をいやがおうにも受けなければなりません。この私たちの姿を知ることが第一点です。
しかしイエス様は、そんな私たちのための弁護者です。ご自分が盾となり、贖い手として、代わりに刑罰を受け、私たちを無罪にして下さいました。後は、私たちが赦しの神様を信じて、ただ悔い改めて、神様のもとに帰れば良いのです。これが第二点。最後に、繰り返しになりますが、ペテロの弱さ、人の弱さです。絶対主を否みません、弟子の道を貫きますと言っても、大嵐を前に膝が立たなくなってしまうのが私たちです。そんな時、告発者の声に打ちひしがれて、自分を失格者だと卑下することはありません。そんな時には、イエス様の声を聞きましょう。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

私たちは、神様はあなたを愛しています。失敗し、つまずいて倒れているあなたを、神様は優しく支え起こし、愛するわが子よと語りかけておられますと、良き知らせを語り、世界に住むすべての人々を元気づけるメッセージを持っています。この幸いな務めに今週も、いそしみたいと心から願います。

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