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説教原稿

2009年3月22日
「あなたたちでなく、神」
創世記 45:1-26

獣の心の兄たち。弟を穴の中に置き去りにして、飲み食いし、奴隷に売り飛ばす兄たち。
その兄たちのお陰でなめさせられた長い間の奴隷生活。

しかし、しかし。
食物を買いに来た兄たちがひれ伏すのを見て、ヨセフは、昔々に見た夢を思い出しました。あ、これはあの夢の成就ではないか。
生きて、兄たちに復讐してやろう、生きて、兄たちの罪を暴露してやろう、こう思い続けるうちにエジプトの総理大臣に。さあ兄たちは自分の前に。これはチャンスと思いきや。
この場面は、すでに神様があの時に私に示されていたこと。
なんで、どうして私が苦しみに。どうして兄たちがあんなひどいことを。問い続けての20年。しかし、突然に、答えはやってきました。

そうとなれば、神様の御心の陰に隠れるヨセフでした。
苦しい時、嬉しい時、私たちは、その一歩一歩を神様によって導かれていることを思い、最善のお導きの中にあるということをしっかりと心に留めたいと思います。

「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。」

ついに聞くことができた兄ユダの言葉。人の心、血の通った言葉。父ヤコブの嘆く姿を見たくない。代わりに私が奴隷になります。

この悔いた心、自己犠牲の心、人の真心をヨセフは見たかったのです。審判者、裁判官の仮面がポロリと落ちる瞬間でした。

ヨセフは、平静を保つことが出来なくなりました。もう自分と、兄たちとの間の隔たりは、何もありませんでした。
エジプトの自分の家臣たちに人払いを命じると、ヨセフは、自分こそがあなたたちの弟のヨセフですと、身を明かしました。
声をあげて泣くヨセフ。抑えようもないその泣き声。叫ぶような泣き声。外に出ていたエジプトの家来たちの耳に入るくらいの泣き声。そうして、このことが宮廷へと伝わっていきました。

声を荒げて言わなければならない時もあります。叱らなければならない時もあります。しかし、本当に分かってくれたと思う時、叱ったことが無駄に終わらなかったと思う時、良かったと思うのではないでしょうか。
「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」ルカ15:7

「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」
ヘブライ12:10

神は愛です。神様が裁き主であると思われるときはひと時、神様は、私たちの益のために、私たちを訓練して下さいます。
私たちが本当に分かり、そんな私たちのために、イエス様が十字架について身代わりの死を遂げて下さったことを感謝するならば、どれほどの喜びが、天で沸き上がっていることでしょうか。

分かってくれれば。今までのヨセフの苦しみは過ぎ去り、新しく結ばれた家族の姿に、ヨセフは、喜びに沸き上がるのでした。
今までの苦しみは無駄ではなかった。兄たちも分かってくれた。こんな結末が待っていたなんて。神様、ありがとうございます。あなたのなさることには、何一つ無駄がありませんでした。
この喜びの涙、その歓喜きわまった泣き叫びだったのです。

いまだ信じられないと思ってきょとんと立ちつくす兄たち。もう一度重ねて言うヨセフ。
「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」

「お父さんは元気ですか」少し前にも尋ねたばかりなのに、ヨセフはまた父の消息を尋ねました。親孝行なヨセフです。20年間、どんなに父は自分のことで心を痛めただろうか。同じ空の下、私はここにいますと叫んでも、その声は届かない。ヨセフは、日に日に父ヤコブのことを思っていました。父なる神様も、私たち一人一人のことをいつも思っていて下さいます。私たちは先に神の家に戻ってきました。しかしまだたくさんの兄弟姉妹が生き別れになっています。父なる神様は、待っておられます。
「兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」
なかなか信じられない兄たち。まさか、そんな。奴隷に売られた弟が。唖然呆然です。
ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。
遠山の金さんが桜吹雪の入れ墨を出すような場面です。
もうすっかり言い逃れができない。まさかこんな風に形勢が逆転するとは。
兄たちは自分の身がどうなるのかを考えると、生きた心地がしなかったでしょう。
多勢に無勢、あのひよっ子がまさか今自分の前にいるこのエジプトの総理大臣に化けるとは。

『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 マタイ25:37-40

マザーテレサは、ここにあそこに、主がおられると言って、道端で死にゆく人に仕えました。困窮のもとにいる小さき人を助けるならば、主を助けること、みすぼらしい小さい人をあざ笑い、頭をこずくならば、主にそうすることになります。私たちは、いいことも悪いことも、すべて明らかになる時を迎えます。

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。」

何という、兄たちにとって、血も凍る言葉ではありませんか。兄たちにとっては喜ばしいどころか、何というめぐりあわせかと思って、生きた心地がしなかったのではないでしょうか。

しかし、しかし。ヨセフは、憤ったままで兄たちに正体を明らかにすることをせず、兄たちが悔い改めの言葉を言うまで待って、いや、悔い改めることができるように万事お膳立てしてくれて、そうしてから後、身を明らかにしたではありませんか。
これもまた、神様のご愛を感じさせます。「ほらこんなに出来ていないだろう、ほら証拠だ、ほら言い逃れできないだろう。」こういうやり方もあれば、「あ、間違っているね、え、間違っていない?いや、これこれ、こうでしょう、正直にいえば、なんにも怒らないから、さあ、言ってごらん。」こういうやり方もあります。

ヨセフは言います。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」

大丈夫ですよ。自分がしたことの責任を考えなくていいのですよ。あなたがたは悪いことをしたと、本当に悔いています。さあ、目を天に上げてみましょう。今私がここにいるのは、神様の御心です。命を救うために、神様が私をあなたたちより先にお遣わしになったということです。
ヨセフはこう言い切りました。
何と立派な、神様を中心とした考え方でしょう。私心を持たず、神様の御心に生き抜くヨセフ。爽快です。
命を救うため。 イエス様も、神様の御心のために、十字架の道を歩まれました。ヨセフよりも何倍も、何百倍も、つらい道です。神のひとり子が、犯罪者扱いされて、世をあげて非難され、捨てられ、死に引き渡されたのですから。しかしそれもまた、「命を救うため」でした。命を救うということは、そんな痛みの伴うものなのでしょうか。刺し貫かれることなのでしょうか。そうなのかもしれません。しかしその後、祝福のうちに、栄光のうちに、失ったすべてのものを、何倍にも増し加えられて取り戻すのです。私たちが天に帰った時、私たち一人一人がそのことを確かに、体験いたします。

ヨセフに耳を傾けましょう。
この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。
神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。

「残りのものを与え、あなたたちを生きながらえさせ、大いなる救いに至らせるため」
どんなに絶体絶命の時にも、残りの可能性を残していて下さる神様。生きながらえさせ、多いなる救いへと至らせて下さる。確かに、彼らから引き続いて、やがて大いなる救い主、イエス・キリストが、彼らの系図の中から現れるのです。

8節、
わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。

あなたたちでなく、神。
これがヨセフの、苦しみの意味を解き明かし終えた時の言葉でした。あれも、これも、皆神様のなさること。ヨブの告白をも思い出す言葉です。
私たちはよく愚痴をこぼします。状況が悪いからとか、何で運が悪いのかとか、こう逆風ばかり吹くのかと。しかし、神様にあっては、すべてが必然です。人を恨むことなく、状況を恨むことなく、私たちは神様を信じることによって、どんな状況も是、アーメンと、受け入れることができるのです。歯を食いしばるときも多くあります。しかし、神様はこんなことさえ通して、私のために最高最善の道を通らせようとしていらっしゃる。そのことを信じたいのです。到底信じられないようなひどい道であったとしても、「ここに遣わしたのは、神」こう信じて、歩んでいきたいのです。
人生信じられないことが現実として襲い掛かります。しかし神様にあっては、想定外のこと、思いがけないことはないのです。
奴隷にするのも主であれば、9節にありますように、「神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。」
こうなさるのも主の御業です。

すべてのことを主がなさっていると、本当に信じることができたならば、私たちはもう、人生の浮き沈みに一喜一憂することはなくなります。

ヨセフは、長い格闘の後、ついに弟ベニヤミンを腕に抱きました。共に泣きました。

ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。
ヨセフの兄弟たちがやって来たという知らせがファラオの宮廷に伝わると、ファラオも家来たちも喜んだ。

ファラオも家来たちも喜んだ。 以下にヨセフが忠実なしもべであり、国の中でも尊敬されていた僕であったかが分かります。

喜びの知らせは父イスラエルに伝えられました。
「ヨセフが生きています」

父は知らせを聞いても気が遠くなり、ぼーっとしていました。信じられないことでした。
エジプトで一緒に暮らしましょうと、さあ、迎えの車もあるではありませんか。こうしてやっと、父ヤコブは元気を取り戻しました。
長い間の喪失が埋め合わされ、そしてそれをはるかに上回る喜びで満たされる。
イスラエルは言った。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」

何という喜びの「よい知らせ」ではないでしょうか。私たちも、主イエス・キリストの愛によって、死を乗り越え、死の喪失の痛みが埋め合わされ、永遠の命の中、互いに泣きながら再会する幸せの約束をいただいております。

苦労もこの地上の時限り。私たちは、このお預かりしている勝利の福音を携えて、よみがえりの主、イエス・キリストの愛を伝えていきたい。そう願うものです。

悔い改めを待って、いや赦すためにお膳立てして下さる神様のお姿をまざまざと見て、私たちもまたそのお優しいお姿に生き、隣人の罪を贖う歩みをし、地上に平和がなりますようにと祈り歩んでまいりましょう。

 

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