説教原稿
2009年3月15日
「この子の代わりに」
創世記 44:12-34
新しい週の朝を迎えております。
突如として起こった飢饉によって、エジプトへと引き寄せられるヤコブの家族たち。
そこで待っていたのは、先にエジプトに遣わされたヨセフでした。
エジプトに売られ、苦労を重ねたヨセフ。しかし、神様が共にいて下さり、その手の業をことごとく祝福して下さいました。大国エジプトの中を上り詰めて行ったヨセフ。王の次に就く位にまで高められました。主イエス様を思います。
ひざまずく兄達の姿を見て、あの兄弟がひれ伏した夢の実現を思いました。すべては、神様のご計画のうちらあったことを知りました。ヨセフは、兄達への恨みを捨てました。信仰に立ち、私心を捨て、すべての状況は神様のご計画のうちにある。私はただ神様のしもべにすぎませんと、祈るヨセフでした。
兄達。 彼らは、父ヤコブの偏愛にうんざりして、弟ヨセフを亡き者にしました。奴隷に売り飛ばしました。彼らはその罪を深刻には考えていませんでした。しかし時が来て、彼らの罪はあらわにされます。私たちも、時が来ますと、私たちが犯しました、一つ一つの罪が明らかになる時を迎えます。深刻に思っていなかった罪、もうとうの昔に忘れてしまった罪をも、あらわになるときが来ます。
しかし、父なる神様の求められることは、刑罰ではなく、私たちが心から悔い改めること、私たちが考え直して、方向転換をすることです。そうすれば、私たちの罪を罰しようとはなさいません。罪の刑罰は、もう既にイエス様が、十字架の上に、受けて下さったからです。
ヨセフも、兄達を試します。試練に会わせます。ふるいにかけます。しかしそれらは、兄達が、自分たちの行った過ちと向かい合い、それを心から悔いて、方向転換するためのものでした。
父ヤコブ。 彼だけが一人、蚊帳の外でした。事の真相を知らないのは、彼一人でした。兄達の悪事も知らず、ヨセフが生きているのも知らず、シメオンが人質に取られ、今度はベニヤミンを連れて来いと言われ、いったいどうして自分の息子たちが次々と連れて行かれるのか、ただ嘆くばかりでした。
シメオンは人質に取られています。父のもとに帰って食物を届けた兄弟たちは、すぐにベニヤミンを連れて、シメオンを取り戻しに行くべきでした。しかし、ベニヤミンは、父ヤコブが愛したラケルの子。そして、あの失ったヨセフの弟でした。父ヤコブは、この子まで取られたならば、自分は悲しみのうちによみに下ると言いました。
「いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」
こうして、時だけが過ぎて行きました。
シメオンが捕らえられているのは分かっています。しかし、誰も父を説得できるものはありませんでした。そもそも自分たちがお父さんの愛する息子ヨセフを奪い取ったということを知っているからです。あんなことをしたからこんな羽目に…シメオンはどんな気持ちでいるだろう。シメオン自身も、牢の中で、自分の罪の刈り取りをしているんだと思っていたことでしょう。
しかしもう一度申し上げさせていただきたいことがあります。
この出来事の背後にあるのは、神様のご計画です。
ヨセフがあの夢を見た時、あの時は、兄たちが決定的な罪を犯す前でした。神様は彼らの敵意を見抜いていらっしゃいました。先の先までお読みになる神様が、兄たちの悪事を通り越して、ヨセフを救い手としてエジプトに遣わして下さいました。そうして今ヨセフの手によって、兄たちの罪を取り扱い、悔い改めさせ、また切り裂かれた家族を一つにしようとして下さっているのです。
私たちの身に、私たちの家族には、私たちに社会には、日々混乱があります。うまく行ったり、今まで築き上げてきた者が、一瞬にして崩れ去ってしまうようなことがあります。しかし、どんな状況の中にあっても、それも神様のご計画と、思い出していただきたいと思います。
ついに、沈黙を破って、ユダが口を開きました。
「あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。
こんなにためらっていなければ、今ごろはもう二度も行って来たはずです。」
こんなにためらっていなければもう二度も。二度往復ですから、最低2ヶ月は迷っていたということです。
三男ユダです。長男は父の側女を寝取り、次男三男、シメオンとユダは、妹が辱められ、怒って、シケルの町の男を皆殺しにし、略奪した悪三人組でした。しかしここでユダは、自分が責任を負ってでも行かせて下さいと、父に頼みます。こう着状態の中、他の者は誰も口を開きませんでした。
このユダは、かつても、長男ルベンと共に、ヨセフの命乞いをした兄です。
父ヤコブも、さすがにこのままでは一同飢え死にという所まで来て、ユダの言葉も手伝って、ついにベニヤミンをエジプトに送る決断をしました。
ヤコブは祈る気持ちで言いました。
「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。」
そして、ここ言いました。
「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」
痛む父の心です。引くに引けない崖っぷちの判断でした。家族が引き裂かれ、一人、また一人奪い取られる痛み。しかしそれが神様のなさることならば、仕方がない。ヤコブが、自分の手に、がむしゃらに握って離さなかったものを、手放す瞬間でした。
父なる神様は、どうだったでしょうか。選択の余地がなかったヤコブとは違い、父なる神様は、進んでご自分から、何の見返りも求めずに、人の罪のために、愛する御子を差し出して下さいました。十字架の上に、はりつけにして、私たちに、御子を与えて下さいました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネ 3:16
ベニヤミンも共に。ヤコブの子たちは総出で行ってしまいました。
一同は、エジプトに着くと、ヨセフの屋敷へ案内されました。これはどうしたことか。また何かの罠か。身ぐるみはがれて奴隷にされるのかと身震いする兄弟たちです。
彼らはヨセフの執事の前に進み出て、言いました。
「ああ、御主人様。実は、わたしどもは前に一度、食糧を買うためにここへ来たことがございます。 ところが、帰りに宿で袋を開けてみると、一人一人の袋の口のところにそれぞれ自分の銀が入っておりました。しかも、銀の重さは元のままでした。それで、それをお返ししなければ、と持って参りました。 もちろん、食糧を買うための銀は、別に用意してきております。一体誰がわたしどもの袋に銀を入れたのか分かりません。」
執事は、言いました。
「御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。あなたたちの銀は、このわたしが確かに受け取ったのですから」
そして、執事は、囚われていたシメオンを兄弟たちに会わせました。
ともに食事をとの事となり、昼ごはんの時間にヨセフが家に帰って来ました。
兄弟たちが地にひれ伏すと、ヨセフは、兄弟たちの安否を尋ね、父上は元気かと、尋ねました。ヨセフの家族愛が漂っています。
ベニヤミンを見て、まだ幼かった自分の実の弟が、立派にたくましくなったことを見ました。エジプトに長く過ごしていたヨセフも、一瞬にして自分の父母のことを思い出しました。血を分けた実の弟を見て、ずっと異国の地で張り詰めていた緊張がほどけ、あどけない少年の心に戻ったヨセフ。自分の母の面影を弟に見て、胸が熱くなり、涙が出そうになりました。奥の部屋に行き、泣くヨセフ。彼もまた一人の人間。今までけなげに頑張ってきた彼を、神様はいやして下さるのでした。
兄弟たちは皆、食事のテーブルに案内されましたが、11人の兄弟たちは、誤りなく、年の順に座らされたので、兄弟たちはどうして自分たちの年の順が分かるのだろうかと、びっくりしました。ここにも、ヨセフの家族愛が、感じられます。
兄弟たちは、思いもかけず、ご馳走とぶどう酒に酔いしれ、酒宴を楽しみました。家族愛が、感じられます。ベニヤミンの食事は他の兄弟のよりも5倍も多かったとのことです。ヨセフがどれだけ、ベニヤミンの身を案じ、肩身を狭くしてはいないかと心配していたかが分かります。
ヨセフは執事に、兄弟たちが持ってきた穀物の袋に入りきれないくらいにたくさんの、運べる限りにたくさんの食料を入れ、持ってきた代金の銀をまた戻しておくようにと言いました。家族愛が現れています。
そして、ヨセフは最後のテストをします。ヨセフは、ベニヤミンの袋の中に、自分の愛用の銀の器を入れさせ、ベニヤミンに盗みの嫌疑をかけることにしました。疑われた弟を、兄たちはかばってくれるのか、それともまた見殺しにするのか――。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」 2コリント13:5
私たちも折々に信仰のテストを受けることがあるかもしれません。私たちは、悔い改めにふさわしい実を結ぶ必要があります。しかし私たちのうちには、イエス様が共にいて下さり、キリストの聖霊により、私たちは正しいことを行うことができるのです。それでも正しいことができないかもしれません。しかし聖霊様は、弱い私たちの心を励まし、正しいことを願うように、導いて下さいます。
シメオンを取り戻し、ベニヤミンも無事で、たくさんの穀物と共に、帰る途中、ヨセフの執事が形相を変えて追って来ました。善に対して悪で報いる恩知らずと。
兄弟たちはあわてます。 自分たちは前回穀物の代金の銀を受け取ってもらえなかったので、わざわざ深刻して返すほどの正直者なのになぜと食い下がりますが、持ち物改め、ということになりました。
果たして、ヨセフの銀の器は、事もあろうにベニヤミンの袋から出てきました。
あわてふためく兄弟たち。ヨセフの筋書き通りです。
兄弟たちはまたヨセフのもとに戻されました。
「この上は、私たち皆で奴隷になります。」そういうユダに対し、ヨセフは、ただ杯を盗んだものだけが残ればいいと言います。
ユダは、自分がベニヤミンの身を保証すると言って家を出てきました。ここであくまで父の身を案じ、ベニヤミンを守ります。長い長いセリフです。
「ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げますことに耳を傾けてください。あなたはファラオに等しいお方でいらっしゃいますから。
44:19 御主君は僕どもに向かって、『父や兄弟がいるのか』とお尋ねになりましたが、
44:20 そのとき、御主君に、『年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』と申し上げました。
44:21 すると、あなたさまは、『その子をここへ連れて来い。自分の目で確かめることにする』と僕どもにお命じになりました。
44:22 わたしどもは、御主君に、『あの子は、父親のもとから離れるわけにはまいりません。あの子が父親のもとを離れれば、父は死んでしまいます』と申しましたが、
44:23 あなたさまは、『その末の弟が一緒に来なければ、再びわたしの顔を見ることは許さぬ』と僕どもにおっしゃいました。
44:24 わたしどもは、あなたさまの僕である父のところへ帰り、御主君のお言葉を伝えました。
44:25 そして父が、『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来い』と申しました折にも、
44:26 『行くことはできません。もし、末の弟が一緒なら、行って参ります。末の弟が一緒でないかぎり、あの方の顔を見ることはできないのです』と答えました。
44:27 すると、あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、わたしの妻は二人の息子を産んだ。
44:28 ところが、そのうちの一人はわたしのところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。
44:29 それなのに、お前たちはこの子までも、わたしから取り上げようとする。もしも、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちはこの白髪の父を、苦しめて陰府に下らせることになるのだ』と申しました。
44:30 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、
44:31 この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。
44:32 実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。
44:33 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」
ユダは、切々と、父を裏切ることはできない、ベニヤミンを失ったら父は、どんなに悲しむか、その苦悶を見るに堪えない、ユダは、自分が身代わりになるから弟ベニヤミンを助けてほしいと懇願しました。
かつては嫉妬して、弟を殺しても構わないと思った兄達。そして今は、このユダが、自分の命を失っても、弟を助けたいと申し出るまでになりました。これならば、弟ベニヤミンはこれから大丈夫だ。この兄ユダが、ついに自分の身を犠牲にしてでも守ると自分から言い出したのならば大丈夫だ。そして感動のヨセフの告白が次の章に待っています。
今日の個所からまとめたいと思います。
ヨセフの家族愛。裏切られても、憎まず、神様のご計画に従って、家族の祝福のために、兄弟を祝しつつ、時に試すヨセフの姿は、まさに神様のお姿です。神様はあふれる家族愛のこころをもって、今週も、私たちを祝福し、諭し、導いて下さいます。
ユダの身代わりの愛。「この子の代わりに、このしもべを」との言葉、私たちもしかとこの耳にしました。見事に悔い改めの実を結んだ兄ユダ。自分の身を潔く捨てて弟を助けようとする兄の愛は、不完全な人間の愛ながら、今日も、読む者の心を感動させます。
彼は一度自分の身をささげ、失ってしまうように見えますが、しかしユダはベニヤミンの命を取り戻し、そして自分の命も、称賛のうちに取り戻しました。
イエス様の姿を見ます。命を失うことが、他の命を取り戻し、そして称賛のうちに自分の命を取り戻すことであるということを。
私たちも、友のために命を捨てて下さったイエス様と共に歩むことによって、愛によって隣人に仕え、命を与えるほどの愛に生かされるときに、身代わりの、いわば尻拭いの愛に貫かれ、生かされるときに、この人のいのちと自分のいのちを取り戻す働きに生かしていただけることを確信いたします。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」 ヨハネ15:13
「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」 詩篇30:5-6
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