説教原稿
2009年3月1日
「夢を思い起こした」
創世記 42:1-24
キリスト教が最もキリスト教らしい点とは何でしょうか。それは、神様の赦しの愛、神様の身代わりの愛、神様が私たちを求めて手を伸ばしていらっしゃるという点ではないかと思います。
これはしばしば「無償の愛」とか、「無条件の愛」と呼ばれます。
相手が自分を愛してくれるなら、愛し返すことに、難しさは少ないでしょう。お利口さんで、礼儀があり、自分に貢献してくれる人なら、その人を愛さずにはいられないことでしょう。
しかしキリスト教の結婚式では、イエス・キリストのことを例えて、しばしば次のように説教がなされます。
神様の愛は、報酬としての愛ではなくて、一方的な、無条件の愛です。良いことをしたからと言って与えられるご褒美のような愛ではなくて、相手が自分を気づ付けるようなことをしたとしても、相手が十分でなかったとしても、不誠実であったとしても、変わらずに注がれます。ですから、相手次第で愛するのではなく、まず無条件に、無代価で、愛を与える人になりましょう。そして互いがそのように愛することが出来たら、幸せな家庭を築くことができます。
毎月決まって幾ら幾らのお小遣いを与える親がいます。子供は無計画にお金を使いがちです。月の終わりの方になると底をつき、お母さんにもう千円と、おねだりします。
もうあなた、また今月もかい。計画的に使いなさいと言ったでしょう。だめだめ。甘やかしたら人間ダメになってしまうわ。
もう一つ、魔法のような展開があります。
ああ、ああ、分かったわ、あなたも色々と付き合いがあって大変だものね。分かったわ。でも千円で足りるの?二千円、三千円?こう言われますと、子供は、いえいえ千円で結構。ごめんなさい、もう迷惑をかけないようにするから、となります。
うろ覚えですが、こんな話もありました。
戦争で足を失った子供が、悩みに悩んで帰るに帰れないでいました。足を失った自分を両親はどう思うか。元のように、受け入れてくれるだろうか。そこで彼は考え、電話をかけました。ああ、生きてたの、良かった、よかった、早く帰ってきなさい。あ、あのね、友達がいるんだ。彼と一緒に帰っていいだろうか。彼は身寄りがないんだ、面倒を見てほしい。ああいいよ、帰ってきなさい。でもね、彼には足がないんだ、それでもいいかい、ああそうか、それならば、悪いけれど他を当たってもらいなさい。こんなやり取りの後、息子はとうとう自ら命を絶ってしまった。両親は後になってその引き受けてほしい友達とは息子自身のことだったことを知った。・・・
人が人を赦すこと、無条件で受け入れることとは、難しいものです。
七を七十倍するまで赦すということ、迷惑の上塗りばかりする人に対して、日に何度でも、もしもその人が謝ってくるならば赦してあげるべきこと。
右の頬をたたくものに左の頬もたたけと差し出すこと。
みんなみんな、最高の相手に対する配慮ですね。「目には目を。歯には歯を」ひとつやられたら何倍にして返す。一つ借りたら少し間引いて返したい。いつも人間は自分を中心に回っています。
イエス様の、隣人に対する配慮を感じます。
さあたたき足りないか、こっちの頬をたたきなさい。さあもう一回、さあもう一回、しまいにはたたく相手が悪かったとなるでしょう。
訴えて下着を取ろうとするものに、上着も与える。
1.5キロ一緒に歩け、荷物を持って歩けと嫌なことを頼まれたら頼まれた倍の距離を歩く。
自分に何の故なく十字架の刑罰の道が備えられても、黙々とそこを歩く。
「隣人を愛し、敵を憎め」いや、敵をも愛しなさい。自分を迫害するもののために祈りなさい。
なかなか出来ないことです。
自分を寝ても覚めても憎み、自分を失脚させ、自分の失敗を喜ぶその人のために、自分の命すら狙い、死んでしまえと日に日に祈っているその人のために、祈りことが出来るでしょうか。その人を赦し、罪を不問にしてあげることのみならず、積極的に、その人の幸せのために、祈ることが出来るでしょうか。
しかしそれが、神様の道です。イエス様の道です。無条件の愛、神の愛です。
自分が悪くない時、さんざん叱られた時、自分が反撃すればそれで終わり、しかし黙って、すみませんでしたといえば、後で必ず誤解は解けます。
この世の中、イエス様の歩まれた道をたどるとき、自分が進んで頬を叩かれて甘んじている時に、自分が甘んじて損をするときに、必ず神様のお働きが現れるのではないでしょうか。
ヨセフです。
行き地獄を嘗めさせられたヨセフです。
人権を奪われ、体一つですべてを奪われたヨセフです。
言葉の分からぬ国に一人投げ込まれた17歳のヨセフ。一度取り立てられるも、またも冤罪で失脚するヨセフ。しかし、耐え抜きました。
ある日、突然に、道は開けました。彼は、地下の牢獄からピラミッドの上にまで駆け上がりました。イエス様を思います。
あなたの今の苦しみも。あなたが神様と共に歩みたいと願ったその時から、いえその前から、私たちは神様のものとされています。あのことこのこと。うまくいったこともあるでしょう。失敗もあるでしょう。罪もあるでしょう。しかし神様が良きに計らって下さいます。やがて天の高みにまで引き上げて下さいます。
7年の豊作が終わりました。
ヨセフの見た夢の通り、7年の凶作が訪れ始めました。
ヨセフの父、兄弟のいるカナンでも同じように飢饉が激しくなっていました。
ヨセフの10人の兄達は、顔を見合わせているばかりでエジプトに穀物を買いに行こうとしません。
さあ行って、買ってきなさい。このままでは、飢え死にしてしまう。父に促されて、エジプトに出かける10人でした。父ヤコブは、一番末の子、ベニヤミンを家に残しておきました。ベニヤミンは、ヨセフと同じ母、ラケルとの子供でした。
ヨセフはエジプトで、王の次に立つ権威をもち、倉に納めていた穀物を販売する監督をしていました。
そこに、かつて自分を苦しめた10人の兄達がやってきました。あれから22年が経っていました。
他の人たちに交じって穀物を買いに来ていたとあります。あのシケムを略奪し、ヨセフを売り飛ばした兄達も、大国エジプトの雰囲気にのみこまれていたのでしょうか。
ヨセフは一目で兄たちだと分かりましたが、兄達はヨセフに気付きませんでした。
さあヨセフは、どのように接するのでしょうか。
兄達は、地面にひれ伏し、ヨセフを拝しました。
自分は今やこの大国の支配者。目の前にひれ伏している兄達を、命令一つで破滅させることができる。報復をすることができるのです。
ヨセフは素知らぬふりをして、厳しい口調で、どこからやってきたのだと言いました。兄達は、縮み上がって、「食料を買うために、カナンからやって来ました」といいました。何のためにやってきたかとは問われていないのに、兄達の方から言いました。
多くの人たちと一緒に、自分たちもただ穀物を買いに来ただけなのに、どうして自分たちだけがこのように責めを受けなければならないのか。彼らは困ったことになったと思って、ただただひれ伏していました。
兄達が汗をかきながらひれ伏しているその時、ヨセフは、22年前、自分の周りに兄達がひれ伏している夢を見たことを思い出しました。そして今、そのことが、神様によって成就したのだと分かりました。
そう考えれば、自分が売られたのも、苦労したのも、忍耐したのも、すべてはあの時から始まっていたのだということが、分かりました。神様は、自分がエジプトに売られ、悲惨な状況の中から立ち上がらせて下さったと信じていたが、売られる前から、もうご計画を始めていらっしゃったのだ。そう考えるならば、残虐なあの兄達の仕打ちも、神様の御手のうちにあったということか。神様はこの時、家族を飢饉から救うために、私をここに送られたというのか。エジプトを救い、家族を救うために。それならば、兄達もここで取り扱って下さるに違いない。過去の罪を悔い改め、共に進んでいくために。
ヨセフの頭の中で、一瞬にして怒りと恨みがなくなり、神様のご計画の前にひれ伏し、従おうとするヨセフでした。
イエス様のお姿を思い出します。
ゲツセマネで祈るとき、祈ったあの祈りです。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 マタイ26:39
苦しみの意味についてです。神様はすべてお見通しで、私たちを愛し、守って下さり、その上で、苦しみにもお会わせになるのです。それは、将来の計画のためにです。必ず試練と共に、脱出の道を与え、そして最後には、素晴らしいご計画を成し遂げて下さるのです。
私たちの苦難は無駄ではなく、自分のためであり、そして私たちの周囲にいる方々のためになるのです。
感慨深いことです。神様に取り扱われている私たちを通して、神様は、周囲の方々に、働きかけられるのです。
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」 2コリント3:3
「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」 2コリント5:20
神の人ヨセフです。
兄達の悔い改めを引き出さねばなりません。自分の赦せないという衝動には決して立ってはいません。
ヨセフは兄達を責めます。「お前たちはまわし者だろう、スパイだろう。」
兄達は答えます。
「いいえ、ご主君様、しもべどもは食料を買いに来ただけです。私どもはある男の息子で、正直な人間でございます。」
「正直な人間」これが私たち読者の失笑を誘います。何が正直者か。弟を死んだものと偽って奴隷に売り飛ばした者たちがと、思います。
いや信じないぞ、お前たちは、まわし者だろう。ヨセフは語気を強めます。
いえ、私たちはカナンのしがない12人兄弟で、父と弟が今カナンにおりまして、もう一人の弟を失いました。
するとヨセフは、問題が核心に近づいてきましたので、「お前たちを試す」という言葉を2度語ります。本当に言っている通りか、その弟を連れて来い、こうヨセフはいい渡します。弟ベニヤミンがいるということは、ヨセフは知っているはずなのに、どうしてわざわざ確かめるのでしょうか。
ヨセフは、同じ母から生まれた子、ベニヤミンが、自分の次に、標的にされたのではないかと疑ったのではないでしょうか。よもや自分と同じように、始末されたのではないか。いじめられて、やつれているのではないか。そのベニヤミン、自分の弟を見るまでは、兄達のことを信じられないという気持だったのでしょう。
誰か一人を行かせて後の9人は牢で待っておれと言いますが、三日間10人の兄達を牢獄に監禁した後には、9人で行って、1人だけ待っておれと言いました。
ちゃんと末の子を連れて帰ってくれば、人質の命は助けてやるとのことでした。
10人の兄達は、自分たちがヨセフに対してしたことによって罰を受けているのだと互いに言い始めました。
思わぬ苦難に会うとき。自分の身からさびが出る時。これはチャンスです。自分は正直者と本気で信じている者が、足元から覆されるとき。やがてヨセフが現れるとなれば、「彼は死んだ」といった嘘は完全に日の光にさらされます。しかし、この苦しみの中で、兄達が過去のことに真剣に目を向けることは、必要なことでした。
「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」
長男ルベンは言いました。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」
今更ながら、過去の罪を悔いる兄達でした。
そういえばルベンお兄さんは自分を助けようとして頑張ってくれたんだっけ…あの時の出来事を思い、遠ざかって泣くヨセフでした。
ヨセフは、兄達が買った穀物の袋の中に、兄達が支払った銀貨を戻しておきました。弟ヨセフの愛情でした。
しかし兄達はそれに気づくと、訳が分からずに混乱します。まるで自分たちが穀物をただで盗んできたみたいだといぶかります。
「これはいったい、どういうことだ。神が我々になさったことは。」
家に帰ると父ヤコブも驚きます。シメオンが人質に取られ、かわいいベニヤミンは引きたてられるとは。ヨセフに続いて、どうしてこうも悪夢が続くのか。
いや、どうしてもベニヤミンだけは渡すまいぞ。この子がいなくなったら、私はいったいどうすればいいというのか。この子に何か不幸があったら、お前たちはこの白髪の父を、悲嘆のうちによみに下らせると、ラケルの子の溺愛ぶりをあらわしているのでした。
今日の個所から学びたいこと、それは、私たち自己中心な者を取り扱って下さる神様のご配慮です。
罪を犯しながらも正直者とうそぶく兄弟たちに対するヨセフの配慮と愛情を思います。自分に対してなされた悪意を思って復讐心を燃やさずに、神様のご配慮を思って兄達の幸いのために尽くすヨセフの姿です。
神様もまた、怒りにまかせて復讐をするようなお方ではありません。復讐をするのではなく、過ちに気付くように導いて下さいます。怒りを受けながらも、袋の中に銀貨を見つけた兄達。
「ああ、私たちが悪かったんだな」と語る兄達の姿を見て、陰で泣くヨセフ。
この端々から私たちは、神様の愛を感じることができます。
このことも、あのことも、神様が私たちの幸せのために用意していて下さること。私たちはその神様のご愛の中で、隣人を赦し、積極的に愛し、神様の赦しの愛をあらわすものでありたいと、願います。
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