説教原稿
2009年2月22日
「神の霊が宿っている人」
創世記 41:8-40
不思議な不思議なヨセフの人生を今日も追いかけてまいりましょう。
神様の御目のうちには、あれもこれも、計画されていたこと。ヨセフが奴隷として売られ、そしてあらぬ罪を着せられて、牢獄に入れられたのも、すべて神様のご計画のうちにありました。
しかし、あまりにも数奇な運命、激動の波乱です。しかし、しかし、ヨセフは、神様の手中に、しっかりと握られていました。
奴隷として売られていっても、そこはエジプトの侍従長の家。主がともにおられ、一奴隷でありながら、ことごとくヨセフの手の業は祝され、主人に目をかけられるようになり、一外国から来た奴隷でありながら、主人の財産のすべてを任されるほどになった。これは奇跡です。小説のような現実の話。「現実は小説より奇なり」です。しかしそこに降りかかった新たな悲劇。主人の妻に言い寄られ、濡れ衣着せられ、また転落。牢獄へ。しかし、それも神様の恵みの導きの一本道のど真ん中でありました。
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」 1ペトロ4:12-13
そこからしか展開しない、祝福にあずからせるために。神様は、考えていて下さるのです。最善の計画を考え、用意していて下さる神様が、私たちと共にいて下さるのならば、どうして私たちは、心配することがあるでしょうか。今週も、私たちは、この導いて下さる方に信頼して、平安をいただきたいと願います。
さて、牢獄の中に入れられても、神様が共にいて下さり、犯罪人と数えられた者でありながら、看守の好意を得て、牢の中の人でありながら、信頼を得て、他の受刑囚のお世話係に任命されたヨセフでした。ありえない。いえ、神様は、どんなときにも、いばらをも、そこを花園にして下さいます。
こつこつ、こつこつ。信じる神様に身をゆだね、腐らず、怒らず、媚びず、見下さず、神様だけを見上げるヨセフ。鉄が熱い火にくべられ、そして激しく叩かれて鋭く強い刃物に精錬されていくように、ヨセフは、神様の手の中にありました。神様の手の中にあると考えなければ受け入れられない悲惨でした。神様は、いつもヨセフの友となって下さいました。
イエス様。イエス様のことを思います。神の御子でありながら、その身分を捨てることができないとは考えず、仕える者の姿となり、弟子の足を洗い、赦し、励まし、ついに十字架について身代わりの死を遂げて下さったこと。人の支払うべきすべての負い目を代わりに支払って下さったこと。その行いが義と認められ、よみがえられた主。今も父なる神の右にまして、私たちのために弁護して下さっています。
神に導かれて苦しむということは、益をもたらします。キリストの苦しみを理解させていただくのです。キリストを、証しできるのです。
牢にいたヨセフでした。二人の王に仕える高官がある日、牢に入れられました。ヨセフは彼らに仕えました。二人とも、ふさぎこんでいました。栄光ある、王に仕える給仕役と料理役です。何か失敗があったのでしょう。誤解かもしれません。王の口に入るものを扱う人たち。謀略による毒殺。権力者を引きずり下ろすという数々の計画があったことでしょう。命がけの仕事であったに違いありません。
ヨセフの夢の解き明かしが、始まります。
給仕役は、自分が見た夢を語りました。
「ぶどうの木が、見る見るうちに三本のつるを出し、花が咲き、ぶどうが熟し、そのぶどうを取って、ファラオの杯に入れ、出しました。」
ヨセフは言いました。
「三日たてば、ファラオはあなたを元の職務に復帰させるでしょう。」
「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。 わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」
看守にも、何度となくいったセリフでしょう。「私は何も悪いことはしていないのです。」看守には、どうする事も出来ませんでした。しかし、その言葉を信じて、信頼して、色々な働きにとりたててくれたのでしょう。何も悪いことをしていないのに。それでもおとしめられるのが、この世の悲惨、まま見かける悲惨です。そうと分かっても開けない道。しかし、理解者は現れます。しかしそれでも待ち続けなければならない。
ヨセフは、この復帰するであろう、王の給仕役、献酌官に、一筋の望みを託します。しかし、この給仕役は、自分が復帰する喜びで一杯で、ヨセフのことなど、すっかり忘れてしまいます。牢から出て行った給仕役。望みを託したヨセフ。しかし、十日待っても、1ヶ月待っても、1年待っても、何の変わりもありませんでした。
もう一人の料理役は、ヨセフの解き明かしの通り、三日の後、処刑されました。
二年が経ちました。
待って、待ち続けて2年。
放っておかれたのか。神様は、ヨセフのことを顧みられなかったのか。いいえ、そうではありません。神様は、時を用意しておられたのです。
エジプトの王ファラオが、不思議な夢を見ました。
よく肥えた7頭の雌牛。ナイル川から上がって、草を食べていると、やせ細った7頭の雌牛が出てきて、肥えた雌牛を食いつくした。
太って、よく実った7つの穂が、干からびた7つの穂に、飲み込まれてしまった。
王は胸騒ぎがして、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めても、誰も王のために解き明かせる者がいませんでした。
そうしているうちに、あの給仕役が、ハッとしました。2年前、自分の夢を解き明かしたヨセフを、思い出しました。
「私の所に呼んできなさい。」
散髪をして、着替えをして。それまでは、頭はぼさぼさ、服はボロボロだったのでしょう。しかし、王の前に出るように着せ替えして、さっぱりと散髪したヨセフは、輝いていたことでしょう。泥池に咲く蓮の花のように。
「お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだな。」
太陽の神、光の神を信奉する生き神ファラオの前で、その栄華と威光の前で、ヨセフは臆することなく、自分の信じるイスラエルの神の名を口にします。
「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」
異国の地で、奴隷で、罪人で、もう何も望みがないという所にある者が、しかし神様の導きと、賜物とによって、王に謁見し、王から知恵を乞われるほどの身に置かれるということ。これが神様のもとに身を避ける者の醍醐味です。そして大国エジプトを救い、世界をも救うものとなる。
「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」
この大事のときに、自分というものを大きく見せ、自分が助かりたいと、がむしゃらになるヨセフではありませんでした。彼は、苦労のるつぼの中で、すっかりと砕かれていたのです。
望み多き、誇り高き17歳でした。しかし、苦労を端から端までなめさせられ、彼は、練られていました。自分では自分の人生をどうにもこうにも導くことなんてできやしない。大河に押し流され、翻弄される人生でありました。しかし神様は、今、賜物と共に大国の王ファラオの前に自分をお導きになられた。・・・あのことも、このことも、今ここに導くためだったのか。この神様のご計画。
「わたしではありません。ただ神。」ヨセフは、神様のご計画を肌で感じていました。
夢を聞いたヨセフは、直ちにこの言葉を語ります。
「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。」
私たちは、エジプトであろうと、イスラエルであろうと、イスラムであろうと、キリスト教であろうと、すべては神様の手の中にあることを知ります。神様は、世界大の神です。そして、すべての造られた者の神であり、分け隔てなくご自分の民を祝福しようとしておられることが分かります。選民イスラエルは、祝福されて、世界に祝福を取り次ぐために、選ばれています。私たちクリスチャンもまた、同じです。
この世界の、神の見えざる手を、私たちは、信じています。
神様が、世界に対して、事をしようとしていらっしゃるのです。
「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。」
もう一度、ヨセフは語ります。
これから7年、豊作の後、その豊作があったことを全く忘れてしまうほどの飢饉がおこります。雌牛も、実った穂も、重ねてそのことを示しています。
ファラオが夢を二度も重ねてみたのは、「神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです。」
「神がなされる。」ヨセフは、ファラオの夢を解き明かすことにも、何も恐れがありませんでした。説き誤ったならば、また深き穴に陥るということなど、何の心配も抱いてはいませんでした。そして、自分の信じる神が、ヘブライの、一民族の狭い神だなどとは、みじんも思ってはいませんでした。大国エジプトの神が豪華けんらんで素晴らしく、自分の神の名を出せば、場違いであるとか、嫌われるであるとか、そういうためらいが一切ありませんでした。彼は、この聖書の神様を、唯一無二の神と、信じていたのです。
そうした結果、彼は、大国エジプトの魔術師や知恵あるものの誰もが出来なかったことを成し遂げることが出来ました。しかし、彼は、その栄光を神に返し、私ではありません、神がこのことを成そうとしていらっしゃいますと語りました。
私たちも、大いに学ぶところです。私たちも、自分ではなく、私たちが信じる聖書の神様は、そんなにも偉大なお方であるということ、そして、世界を支配するお方であるということを、今一度信じるべきです。あらゆる自分の中の、神様を小さくする制限を振り払って、ヨセフのように、神様を信じるべきです。
ヨセフは、自信を持って解き明かし、そして夢の解き明かしのみならず、これから来る飢饉のために、実際にどうすればいいか、食料の備蓄にまで触れ、王に進言しました。
「神共にいます」・・・この力を強烈に感じたファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心したとあります。
ファラオは、家来たちに、「このように神の霊が宿っている人は他にあるだろうか」と言いました。最大限の賛辞です。異教徒をして、エジプトの王をして、こう言わしめたヨセフ。彼は、神様を信頼し抜いたのみです。エジプトの王の前にもひるまず、自分の神によって与えられた賜物を用い、教えられたとおりに語ったのみです。
私たちにも、同じことができるのではないでしょうか。
どこに行っても、どんなに立派な所に行っても、立派な人々に出会っても、私たちは、与えられた賜物と教えから語り、そうして必ずや人に益を与え、感銘を与えるべきものがあります。
それは、イエス・キリストの福音に集約されています。
神様がこの世界をこよなく愛し、愛して下さり、人が神様と交わることのできないもろもろの心の中にあるよこしまさのために、それを取り除いて神様と人との和解を生じさせ、自由な交流が出来るように、神の子供とするために、イエス・キリストに人のすべての罪を担わせ、十字架の上に、身代わりの死を遂げさせたということです。この身代わりの死を信じること、ただこのことによって、感謝をもってイエス様を救い主として受け入れることによって、人は救いを得、永遠の命を得る。これは、驚くべき人類の宝です。私たちはこの福音をもっています。
ヨセフに話を戻しますが、ファラオは言いました。
「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」そして、「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。」
ヨセフは、エジプトの総理大臣として、王の次に立つものとされました。この時30歳。17歳で売られ、それから13年。すべてはこの年、この月、この日、この朝、ファラオが夢を見て起きたこの時のために用意されていたことでした。
ヨセフは王から印のついた指輪をもらい、妻をもらいました。そして二人の子供を得ると、
マナセ・すなわち、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」という名を付け、そしてエフライム・すなわち、「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」という名を付けました。
7年の豊作の後、ヨセフの解き明かしの通り、7年の飢饉が来ました。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があったと記されています。
こうしてエジプトが守られることは、次にはイスラエルにとっての計画なのでした。神様のご計画は完全です。無駄がありません。
「神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。」 詩篇18:31
今日学んだことをまとめましょう。悲惨の中にも神様の計画。神様の助け。神様の最善の時があります。あせらず待ち続け、世界の支配者である神様に期待し、ただ頼みとし、自分の考えを脇に置き、神様に期待する人、どこに出ても、神様の賜物を臆せずに発揮する人は、世界をうるおします。「私ではなく神。」祈り期待しつつ、新しい週を迎えましょう。
私たちの出番があります。福音のかぐわしさが世の中に充ち溢れますように。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
マタイ5:14-16
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