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説教原稿

2009年2月15日
「主がヨセフとともにおられ」
創世記 39:1-23

 「父、母、兄達が自分にひれ伏し拝む夢を見た。」神様からの不思議な夢でした。

 ヨセフは、兄弟たちから激しくねたまれ、ついに奴隷として売られてしまいました。あわや殺してしまおうという所でしたが、長男ルベンと、四男ユダは、それを食い止める役どころとなります。
ヨセフをめぐる不思議な状況を思います。私たちは、ヨセフ物語から、壮大な出エジプトの出来事まで、そしてそれをひな型としてイエス・キリストによる解放という地平までを見ることができます。
しかしそこに至るまでの状況と言いますか、この舞台のおぜん立てを考えますと、実に不思議な感じがいたします。
どうやら父ヤコブとおじエサウとの確執にまでさかのぼります。
ヤコブがエサウを騙してハランの地へ行ったこと、父ヤコブがそのおじラバンによって騙されたこと。そして、図らずも望みの妻ラケルの他に3人の妻を持つことになったこと、このことこそが、最愛の子ヨセフと、普通の子・その他の子供たちとを分け隔てることになりました。そして、その不満が高まっている時に、あの夢の話が出てきます。そして奴隷として売り払われる。

不思議な神様のご計画というより他にありません。自分の人生というものが、自分から始まっているかと思えば、父母から、祖父母から・・・。父が兄エサウをかわいがり、母が弟ヤコブをかわいがり、そうして入れ知恵したことが、今孫ヨセフの身に降りかかっているのです。

 「ああ功徳(くどく)、ああ業(ごう)のなせるわざよ」と思いがちな、日本の風土に暮らす私たちです。しかしヨセフが売られていくことは、先祖の業を一手に引き受け、ばちが当たってしまったことなのかと言いましたら、それはそうではありません。
あれもこれも、神様のお導きです。

 新約聖書ヨハネ福音書9章に、生まれつき目の見えない人の話があります。主の弟子たちは、その人が聞こえるところで、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と聞きました。当時、ユダヤでもこのように考えられていました。「因果応報」説ですね。しかし因果応報ならば、生まれつきの盲目だったら、赤ちゃんには何の責任もないでしょう、やはり親が悪いからそういう子供が生まれるのですか、そう尋ねます。これは弟子たちが悪いというよりは、多くの人たちが陰でそう思っていたことを代弁したものでしょう。
イエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と、おっしゃいました。
罪を犯したからというならば、罪を犯したことのない人が一人でもいるだろうか。イエス様は、罪を裁きに来たのではなく、いやしと罪の解放の御業をするために地上に来られたのです。

 人は罪を犯します。そのことによって、混乱を招きます。ヨセフのケースのように、兄弟に憎しみを生み、ヨセフが売り飛ばされるという罪と悲惨が生まれます。しかし神様は、それらすべてを用いて、人のために良き業を紡いでくださるのです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマ8:28

 ヨセフが売られた37章からページをめくりますと、38章には、四男ユダの話が載っています。長男ルベンは父の側女を奪い、二男と三男は、シケルの襲撃事件を起こします。実はこのユダこそが、ダビデ王と、主イエス様につながる系図の人となります。
しかし四男ユダは、カナンから異邦人の妻を迎えます。二人の間に3人の男の子がありました。しかし長男は、嫁を迎えましたが、後に神様の意に沿わないことをして、死んでしまいます。長男夫婦がいて、長男が死ぬと、二男は、長男の妻と結婚し、死んだ長男のために子供をもうけるというのが習わしでした。しかし次男も死んでしまいました。それでは三男をと、行かなければなりませんでしたが、父ユダは、三男までも死んでしまっては大変と、長男の嫁に三男を与えませんでした。これに不満を持った嫁タマルは、やもめの服を脱ぐと、ベールをかぶって神殿遊女の姿をして、しゅうとであるユダに現れました。ユダはそうともしれずに自分の嫁と関係を持ち、嫁はユダの子供を授かる。その子ペレツが系図の人となっていきます。

 さてそしてその系図の人たちを守り導く使命を与えられたヨセフのお話が進んでいきます。
ヨセフは、エジプトの王ファラオの侍従長のポティファルのものとなりました。
兄弟たちのよって奴隷に売られるということ。自分の家で、愛され、父がいて、持ち物があり、甘えることが出来る家庭があったのに、それらは奪い取られ、今は売られて奴隷の身。機械のように扱われ、人権もなく、ただ使われる身。人生の意味とか、生きがいとか、楽しみとか言うことは全く意味がなく、使い捨て。それが奴隷のイメージです。人生の転落です。命令によって動くしかない身に。後は食べるか寝るか位。人間としてこれ以下に落ちるところがあるだろうか。そのような状況でした。兄弟を恨み、自分を呪い、神を呪う、そんなすさんだ状態にもなり得たでしょう。もしも自分がこういう状況に陥ったら、どうなってしまうかと、考えます。罪のないイエス様のお苦しみに目が向かいます。奴隷のように仕え、命まで差し出して下さったイエス様。身代わりとなって罪を引き受け、罪ある者を救い出す。神様の愛がくっきりと、現れています。

「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」ヘブライ2:18

「主がヨセフと共におられた。」
この一言に尽きます。どうしてヨセフは、地獄のような苦しみに耐えられたのか。突如として襲い掛かった悪夢のような現実の中を生きることができたのか。主が共にいて下さったのです。
恨む気持ち、憎む気持ち、それらを容易にぬぐい去ることはできなかったでしょう。しかし、ヨセフは主によって、取り扱われました。彼の心の傷は、いやされていきました。私たちにとっても、つらい状況、逃れたい悪夢、許せない怒り、様々なものを、神様はいつもともにいて、いやし、導いて下さいます。そのような方がともにいて下さるということを信じましょう。
次に主は、彼の仕事を祝福して下さいました。主がともにおられ、主は彼のすることをすべてうまく計らわれた。
「主がともにおられたので」「主がともにおられ」「主がうまく計らわれた」、私たちの人生は、「私が、私が」ではなくて、「主が、主が」、主が切り開き、主がうまく取り計らい、主が引っ張って導いて下さる人生です。もしも今、私がにっちもさっちもいかない難しい状況にあると思っていらっしゃるならば、「主が」働いて下さいますようにと、祈りましょう。所詮「私」はちっぽけな、どうにも切り開けない存在です。しかし目をあげて、主が導いていらっしゃることに目を留めましょう。悲惨の井戸の底にも光が照っていることを知りましょう。「主が」「主が」「主が」。主が、腕まくりをして、私たちのために、私たちが嘆いている間にも働いて下さったいることを思い出しましょう。

「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」ヘブライ2:18

 ヨセフは、立ちあがりました。主が、追い風をつくって下さいました。彼は主を捨てませんでした。主に期待しました。そんな彼が何事もうまくやってのけるのを見て、ポティファルは、「主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見」ました。ポティファルは、ヨセフに目をかけました。まじめに誠実に、心から仕え、首尾よく仕事をする彼を信頼し、ヨセフを重んじ、自分の身近に仕えさせ、多くを教え、家の管理をゆだね、財産すべてをヨセフの手にまかせました。
「武力によらず、権力によらず ただわが霊によって」ゼカリヤ4:6

ヨセフには、主からの力が与えられました。

「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい」詩篇127

主が共にいて下さるのならば、奴隷の生活の中にも祝福があり、信頼を得る。主が共にいて下さらないのであれば、労苦はむなしい。聖書はそう語っています。弟を売り飛ばした兄達は、自由でありながら、平安がありません。主がいつも共にいて下さるということは、なんと幸いなことでしょうか。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」  ヨハネの手紙一 1:9
「御子を信じる者は裁かれない。・・・真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」 ヨハネ3:18,21

 神様の前に出て、神様にとらえられ、ヨセフのゆえにポティファルの家は祝福されました。私たちもまた、主にとらえられた光の子です。この世の光、地の塩です。私たちを通して地上の氏族は祝福されるという神様のお約束に変わりはありません。

「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」 詩篇1篇

ポティファルは、信頼してすべてのものを任せることにしました。逆境にも神様の助け、祝福の中と思われた時、また悲劇がヨセフに襲い掛かります。

「ヨセフは顔も美しく、体つきもすぐれていた。」・・・売られてきた時には半人前でしたが、ヨセフは立派に成長していました。そのヨセフをいつも気にしていたのが、主人ポティファルの妻でした。彼女は、自分とただならぬ関係を持つようにとヨセフを誘惑し始めました。

ヨセフは断って、言います。
「あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」

いつも神様を、自分の前に意識していたヨセフでした。誰に気付かれなかったとしても、神様はご存じである。私は生ける神様をいつも目の前に意識しています。素晴らしい信仰です。

あるとき、ヨセフが家の中に仕事をしようとして入ると、そこにはだれ一人もいませんでした。おそらくポティファルの妻が皆を出してしまっていたのでしょう。彼女はヨセフの着物を力の限りにひっぱりました。形相を変えて引っ張る妻。逃げようとするヨセフ。
ついに上着を脱いで自分だけかろうじて逃げきるヨセフ。プライドが傷つけられたポティファルの妻は、金切り声をあげます。「あのヘブライ人が私を―」 頑ななヨセフの信仰を呪ったものでしょうか。もしくはよそ者ヘブライ人という構図によってヨセフを窮地に立たせようという計算でしょうか。

主人ポティファルは怒り、ヨセフは捕らえられ、侍従長の家来ということで、彼は王の囚人を入れる監獄に入れられました。

やっとつかんだチャンスだったのにどうして。またも転落を経験する時でした。

「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、 監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。
監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」

しかしここでも神様は、ヨセフとともにおられ、彼を守り導いて下さいました。ヨセフはここでも看守長の目にかない、主が共にいて下さり、主がヨセフのすることをうまく図って下さいました。こうして、ヨセフの道は、さらに切り開かれていきます。後にもっと大きな仕事をするために、この監獄行きは、必要なことでした。

今日の個所から私たちは、神様のご計画の深さについて教えられます。神様は、時代の最初から終りまで、すべて見通していらっしゃいます。そして、人の罪深い一つ一つの出来事の悲惨さから、それを逆手に取って、私たちの幸いを造り出して下さるお方です。私たちが挫折を味わう時、しかし神様は私たちと共にいて下さり、その状況の中に働いて下さり、そこを通ってでしかいくことのできない神様の目的の地へと、私たちを導いて下さいます。私たちはそういう神様を、いつも目の前に覚え、信頼し、感謝して、心動じずに進んで行きたいと願うものです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ16:33
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 マタイ28:20

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