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説教原稿

2009年2月1日
「命まで取るのはよそう」
創世記 37:18-36

 2月に入りました。最近は雪が降るかわりに雨が多くなりました。春の足音が、一歩一歩近づいてきました。沖縄ではもう桜が咲いているようですね。
先週は、創世記34,35章から、シケムで妹ディナが汚され、兄シメオンとレビが怒ってシケムの男たちを皆殺しにし、町中を略奪したという記事を読みました。家の中をよく治められないヤコブ。思えば兄エサウから家督を奪い、父イサクを悩ませたのもヤコブ自身。彼もまた、子育てに悩む父親でした。
神様は、ベテル、「神の家」に行きなさいと、ヤコブが天からの梯子を見せていただいた、彼の信仰の原体験の場所に導き返されます。
いろいろなことがあった。エサウから逃げて歩いた。ラバンおじさんのもとでぎゅうぎゅうに絞られた。しかしそこから富とともに脱出させていただいた。エサウお兄さんの赦しも得ることができた。そして住民とのいさかい、息子の問題…この時、うつむき加減のヤコブに、神様は、私の家に帰りなさいと語られました。
この後、ヤコブとエサウの父、イサクは、180年の生涯を閉じます。ヤコブとエサウは共に、父イサクを葬りました。ヤコブはイスラエル、エサウは後のアラブ人へとつながります。イシュマエルも、元々は同じ父アブラハムから。しかしこの葬儀の共同作業の後、ヤコブとエサウはそれぞれ分かれていきます。36章には、こうして、エサウが死海の南に移動していき、エドム人の先祖となっていった様子が記されています。ここでエサウの子孫の系図が記されていますが、その水脈は、徐々に本流から遠ざかり、先細りしていきます。後に、出エジプトのイスラエルの民を妨害したり(民数記20:18)、南王国ユダの滅亡を喜び(エゼキエル35:15,36:5)、イスラエルを嫌うようになっていきます。また、新しい王・イエス・キリストの誕生を喜ばず、エジプトの王ファラオのように、2歳以下の男の子を一人残らず殺させた、あのヘロデ大王も、エサウの子孫のイドマヤ人でした。
神の祝福をないがしろにしたことでその子孫は次第に離れ、ついには完全に敵対するようになりました。逆に言いましたら、神様の祝福と契約につながるものは、子々孫々まで、神様の恵みの流れの中に守られるということです。
そして今、ヤコブから、次の世代へと、バトンが渡されようとしています。
神様の恵みの流れの中にあるとはいえ、また今日も、血なまぐさい憎しみの争いの姿です。神様はそれでも一歩一歩ご自分の民を忍耐強く導いて下さいます。

 ヤコブには、側女も入れますと、4人の妻がいました。その中で彼が一番愛したのがラケルでした。ラケルは、ヨセフと、ベニヤミンを生み、ベニヤミンを生んだとき、死んでしまいました。ヤコブはラケルの子をとりわけ愛していました。

 「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。」

 ヨセフは、12番目に生まれた子供で、男子としては11番目に生まれた子供でした。彼は、末っ子でかわいいということと、何よりラケルの子供であるということで、ラケル亡き今、どの息子よりかわいがられました。

 自分の妹のためにと立ちあがるシメオンとレビ。そして父の側女ビルハの所に入って寝てしまった長男ルベン。そして1人だけ猫かわいがりされるヨセフ。不協和音の広がるヤコブ一家でした。

 ラケルの姉、レアの子供は、ルベン、シメオン、レビ、ユダ。そして少しおいて、イサカルとゼブルン。そして女の子はディナ。この7人の結びつきは強いものでした。ヨセフをだれに預けるか。父ヤコブは、レアの子たちではなく側女のビルハとジルパの子供たちとともにいるように、ヨセフに命じました。父ヤコブは兄たちからヨセフを守ろうとしていたのでしょうか。
ヨセフは、17歳。まだ仕事は半人前だったことでしょう。兄たちの仕事ぶりから学ぶ日々でした。彼は賢いところがあったのでしょう、兄たちの、レアの子たちの働きを見て、側女たちの子供たちの働きを見て、色々と思う所を父ヤコブに報告していたようです。

 すその長い上等な晴れ着。色々と自分たちのことをスパイするような弟。ひらひらと歩くその姿が視野の隅っこに入ると、むしずが走る。自分たちが当たり前のようにやっていることでも、ヨセフがやると、やんややんやと喝采を送る父ヤコブ。「おもしろくねえな」、「ああ、おもしろくねぇ。」と語りあう兄たちでした。側女の子たちは自分たちも立場が弱く、比較的にヨセフといっしょになれたのかもしれませんが、それでも父の偏愛にはたまらなかったことでしょう。
兄たちは、ヨセフを憎み、穏やかに話すことも出まなくなっていました。「何だ、バカ野郎、そんなことも分からないのか!」こんな風に兄貴風を吹かせることでしか、憂さを晴らせない兄たちだったことでしょう。「チビ」「のろま」こう言い続けてきた弟のヨセフ。しかしあるときに変わった夢を見たといって、兄たちに話しかけるヨセフでした。
「聞いて下さい」…何を言うかと思えば、畑で兄弟で束を結わえていると、自分の束がむくりと立ちあがり、兄弟たちの束が周りに集まって来て、ヨセフの束に向かってひれ伏したという夢でした。
いつも馬鹿にされ、末っ子扱いされていたことを跳ね返そうとした深層心理でしょうか。いえいえ、ヨセフには、後で出てきますように、夢が与えられ、夢を解き明かす賜物がありました。エジプトの獄の中で、やがてその能力を発揮します。そしてこの兄弟たちがひれ伏すということこそ、これから本当に起こる真実でした。
不思議な神様の啓示、予言の夢でした。しかしこのことを、自分を妬み、憎む兄たちに話すべきだったのでしょうか。皆さんがヨセフだったら、どうなさるでしょうか。
これは自分の夢ではなく、願望ではなく、神様から導かれた「夢」であるという確信があったのでしょう。しかしそれを得意満面になって話す、世間知らずのヨセフの姿も、見えないわけではありません。
兄たちは、「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」と言い、こんな話をするヨセフをますますさらに憎みました。しかしこれらすべては、神様のご計画のうちにあることなのでした。
ヨセフはまた別の夢を見ました。太陽と月と、11の星が自分にひれ伏しているというものです。太陽と月。父と母と、11人の兄弟がひれ伏すということでした。この夢には、父ヤコブもびっくりし、叱ってみんながひれ伏すというのかと、言いました。兄たちは、一度ならずに度までもと、ヨセフを妬み、憎しみが最高潮に達しましたが、父ヤコブは、はたと我に帰り、何かの予兆かもと、思いめぐらして、心にとどめておきました。天のはしご、神との格闘を経験したヤコブであります。

 さてある日、ヤコブすなわちイスラエルは、ヨセフに言いました。「兄さんたちが元気にやっているか、見てきておくれ。」兄たちは、シケムにいました。シケムといえば、ディナの一件で、騒ぎが起こったところです。少し帰りが遅いのではないか。あの土地には因縁があるし。心配になった父は、賢いヨセフを送り出しました。2日3日。たどり着きましたが、そこにはいません。人の話を聞き、さらに1日、ドタンへと兄たちを探しに行きました。

 あっ、兄さんたちだ、無事でよかった。ヨセフが気付くと同時に、兄たちも気付きました。おお、弟よ、心配してきてくれたか。よくここが分かったね。・・・いえいえ、そうではありません。彼らは、こう話し合っていました。
「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」

 「夢見るお方」、「夢見るご主人様」という、皮肉たっぷりの言葉です。殺してしまえ。あいつの夢なんて、ハッタリだったってわけだ。何が夢だ。おれたちでその夢を散り散りに引き裂いてしまおうぜ。
彼らにとって、あの夢がいかに心の中に印象付けられていたかが、分かります。労働する自分たちと、何か神がかった弟。気に食わない夢を見やがって。しかし、それが神様からの「夢」、ビジョン・幻であったなら、彼らは神様に敵対しようとでも言うのでしょうか。

 しかし神様は、彼らの思い企てをすべてお用いになる、ご自分の救いの計画のために、万事御心のままになすために、お用いになるのです。なんと深い神様のお心でしょうか。
しかしここで殺されてしまっては壮大な計画が終わってしまいます。

 長男のルベンが口を開きました。彼はヨセフを助けようとして、「命まで取るのはよそう。」「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」こう、言いました。ルベンは、後で穴の中からヨセフを助けようとして、ここ言いました。父の側女を寝取る長男でした。後悔の気持ちがあったのか、長男の責任感からここ言ったのか。しかし、ヨセフのいのちは首の皮一枚でつながりました。

 おにいさーん、ヨセフが来ると、兄達は取り囲むように、あのすその長い晴れ着を、あの目ざわりだった着物をはぎ取り、ヨセフを捕えて乱暴に、雨水溜めの穴に投げ込みました。水がたまっていれば溺れていたかもしれませんが、この時は空で助かりました。
もがいても、よじ登ろうとしても、よじ登れない大きな穴。ヨセフはもがき続けました。にいさーん、冗談でしょう、ごめんなさい、誤るから助けてー、おにいさーん、もういいでしょう、助けて下さい、助けてー。声の限り叫びましたが、兄たちは来てくれません。

 兄たちは、叫びをよそに、腰をおろして平然と食事をしていました。ああ、せいせいしたとばかりに。シケムの人たち殺しの次には、弟殺し。どうしてヤコブの子供たちは、ここまで残酷になってしまったのでしょうか。もう自分の感情にブレーキをかけることが出来なくなっているようです。

 さてどうやって殺そうか、放っておけば干からびるだろうが、ハッハッハッ。こんな風に話している時に、もう一人、ユダが助け舟を出します。
「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。
それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」

 兄弟たちは、それもそうだな、金になった方がいい、そういうことで話がまとまりました。奴隷に売られていくヨセフ。この時に席をはずしていた長男のルベンは、後になってほとぼりが冷めた頃に穴から助け出そうとして向かってみると穴が空っぽで、びっくりして兄弟たちのもとに走り寄りました。
「あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか」
意外と弟思いだったのか、もしくは自分の責任となってしまうのが恐ろしかったのか、その真偽は分かりません。また、奴隷に売ろうといったユダは、弟を本当に売りたかったのか、守りたかったのか、真実は霧の中です。しかし、神様は、確かに、ヨセフの命を守って下さいました。そして、イスラエルを飢饉から守り、エジプトで富ませ、そしてエジプトから解放し、また約束の地に返して下さるのです。
ヨセフの着物に雄山羊の血をつける兄達。野獣にかみ殺されたと嘆き、悲嘆にくれる父ヤコブ。ああ、偏愛の付けを払わされたのだとせせら笑う子供たちでした。
お父さん、もう元気を出して、と慰めても、幾日も、幾日も、嘆き悲しみ、慰められることを拒み、「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」と、泣きに暮れるヤコブでした。
かつては騙したヤコブは、また今度は子供たちから騙されます。この時、ヨセフは、長い長い旅路の末、エジプトのファラオの宮廷の役人、ポティファルの奴隷となりました。

 神様の「夢」のご計画は、思いもかけないときに、思いもかけない方法で、始められます。そして罪人を諭し、導き、そして平和と救いを打ち立てて下さいます。私たちは、この世界大の視野で、歴史の初めから終わりまでを見通す神様のご存在を心に留め、信じて、どんなときにも信頼し、お委ねして、み言葉から教えられ、日々進むことが出来るのです。

 私たち一人一人のうちに、夢を与え、幸いなる計画のうちに用いて下さる神様に、お祈りいたしましょう。

 

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 
わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」エレミヤ29:11-14

『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 使徒2:17-18
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」 へブライ12:11

 

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