説教原稿
2009年1月25日
「神のために祭壇を造りなさい」
創世記 34:30-35:15
「さあ、ベテルに上ろう。そしてそこに神様のために祭壇を造ろう。」
私たちが祝福の中へと赴くように、私たちの道が開けるように、ひたすら願い、導いていて下さる神様に感謝いたします。
ベテルの土地。神の家。ペヌエル。神の顔。神様は、顔と顔とを合わせて、ご自分の家の中に、私たちをかくまい、顔と顔とを合わせて、私たち神の子供たちを導いて下さいます。
ヤコブが心細く荒野の逃避行をしていた時。石の枕をして寝ていた時。神様が、その失意の土地を、神の栄光の現れる土地として下さいました。どん底の夜中に、心の暗さを象徴する夜更けに、神様は、美しい天へ上る梯子を見せて下さいました。御使いが、「上ったり、下ったり」していました。私たちのうちには、生ける神様の聖霊が住んでいて下さり、とりなしていて下さいます。
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」 ローマ8:26
あの、間もなく兄エサウとの会見、という時、神様は、がっぷりと相撲を取って下さり、ヤコブに向き合って下さいました。不安に向き合い、ヤコブの罪責感をくみ取って下さり、赦しと祝福を与えて下さいました。ペヌエル、神様が顔をあらわして下さったという土地です。
私たちの信仰生涯の中にも、神の家、ベテルがあり、神の顔、ペヌエルがあるのではないでしょうか。アブラハムがイサクをささげようとした時に、それを止められ、代わりの羊が備えられ、「主の山に備えあり」と言ったように、時にかなった助けを体験なさったことも多くおありだと思います。
今日またヤコブは、神の家、ベテルに呼ばれ、神様の懐に抱かれます。またヤコブとその一家の身に、大事件が起こりました。しかしそこでも神様は、その状況を、恵みと変えて下さいました。私たちにとっても、どのような苦境であっても、失敗であっても、神様のお取り計らいの中で、そこを復活と再生の土地としていただけるということを今日は聖書から学びたいと思います。
無事エサウと再会し、赦しを得たという聖書の個所を先週読みました。兄さん、私のようなものを、騙し奪った者を、温かく迎えて下さるとは、まさにあなたのその赦し、あなたの笑顔は、神様の御顔のようです。そうです。神様の御顔は、そのように、赦しに輝いています。御子イエス・キリストを私たちの罪の代価としてささげるまでに、私たちを赦して下さいました。
そうして意気揚揚と入ったカナンの地でした。そのカナンには色々な部族の先住民がいましたが、カナンにはいり、父イサクの待つ所に行くまでに、シケムという町のそばに宿営することになりました。ここを治めるハモルという人から土地を買い、祭壇を建てるヤコブでした。「イスラエルの神の神」。ヤコブは自分を守り導く神様をじっと見つめていました。しかし今日は、その子供たちが問題となります。
ヤコブの娘、ディナが土地の娘に会いに出かけていました。ここから騒動が始まります。先の土地の売り買いで知り合い、宿営していたシケムの土地、まだ先を歩く旅の途中でしたが、娘ディナは、その土地の娘たちに会おうと、出かけていきます。このことが騒動の発端となります。一人出て掛けて行ったのでしょうか。不用心な行動でした。
海外旅行などいたしますと、アメリカでの経験ですが、見知らぬ者が立ち入ってはならない区域と言いますか、建物と言いますか、時間帯と言いますか、そういうものがあるようですね。日本でも、夜の新宿何丁目あたりは危ないということさえあります。このシケムの土地にやって来て、羊などたくさんの動物と共にやって来て、土地を借りるではなく買って一時滞在するイスラエルと呼ばれる彼らを見て、この隊列でやってきたよそ者を前にして、彼らはうらやましくも思って見ていたに違いありません。
そこにやってきたそこの娘、奇麗な格好をして、興味ありげに無邪気な笑顔を見せ、こちらにやってくる。自分たちに関心があるのだろうか。この新入りたちは、自分たちの部族と共にここで暮らしていきたいと思っているのだろうか。一時の宿営を済ませて出発すべき土地でありましたのに、このディナの行動は、少し的外れだったかも知れません。見目美しく、違う雰囲気を持って入ってきたディナに一目ぼれしたのが、族長の息子でありました。彼はディナを見かけてとらえ、はずかしめてしまったのです。そしてディナにも、自分の父親にも、結婚させていただきたいと願い出ました。
やがて、シケムの族長ハモルとその息子がヤコブとその家族を尋ね、謝りかたがた正式に結婚を申し込みました。そして、この地に、ずっと住んで下さいと申し入れました。父ヤコブはどうしたものかと考えていましたが、怒り心頭なのがディナの兄たちでした。彼らは、父を差し置いて、割礼を受けなければ、あなたがたと私たち一族は一緒には なれませんと言いました。理屈が通ったような言い方ですが、ヤコブの息子たち、特にディナと同じ母レアから生まれたシメオンとレビは、妹が辱められたのが我慢できず、シケムの土地の人たちに復讐をしようとたくらんでいたのです。
話がうまく言ったと喜ぶ族長ハモルとその息子でした。彼らは町に帰って説得します。
町の男たちすべてが割礼を受けなければならないと聞き、町の人たちを説得しますが、その言い方たるや、こんな風です。「割礼なんて、お安いものさ。このことさえ、彼らの流儀に合わせてやれば、彼らと一緒になって、彼らのものは、みんな俺たちのものになるんだぜ。」
最初から財産目当てだったのか、そんな風にも思えるような、ディナへの接近でした。蜘蛛の糸に獲物が引っ掛かり、たちまち獲物ににじり寄る蜘蛛。約束の地を目指す一行にとって、危険が待ち構える旅路です。
シケルの町の男たちは、こぞって割礼を受けました。そして3日目、割礼の傷が痛む男たちに、シメオンとレビは、たった二人で剣をもって立ち向かい、男たちをことごとく殺してしまいました。彼らは妹ディナを取り戻して家に帰りました。
「困ったことをしてくれたものだ。」今日お読みいただきました聖書の個所の冒頭の言葉は、この状況から発せられた父ヤコブの言葉でした。
子どもたちの行動を制御できない父ヤコブの無力であります。
「わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」
父ヤコブが叱るも、シメオンとレビは、妹があんな扱いをされても黙っていろというのですかと、全く反省の色がありません。この兄たち。彼らが今度は弟ヨセフを殺しにかかるのです。父は一人なれど、母レアを持つ自分たちは結束し、妹ディナをここまでしてかばい、ラケルの子供ヨセフは殺してもいい。なんとも恐ろしいどろどろした家族関係であります。制御不可能なまでに暴走する子供たちでありました。
モーセが山で十戒の板を頂いて山から下りると、そこは金の子牛を頂いて、ギラギラとした祭が行われていたということでありますが、実に、信仰の継承というものは、難しいものだということが分かります。人にはできないことであります。どんなにヤコブが砕かれ、神様の前に教えられても、その足元から、自分の子供たちが崩していく。父として、族長として、やるせない思いだったことでしょう。自分が妻を幾人も持ったこと、いろんなことが今の制御できない状況を生みだしていることも確かでした。
こんな、糸が絡まった、にっちもさっちもいかない、人にとってどうにもこうにもならない状況の中で、神様は働いて下さいます。
「神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」
さあ、私が何度となくあなたに現れ、あなたを励ました土地、あなたの信仰の原点であるところに戻りなさい。私を神としてあがめ、祭壇を造りなさい。
自分の神を神とする。祭壇を造る。 この営みが、何度も何度も繰り返されなければならない私たちであります。のど元過ぎると熱さを忘れる。しかし神様は、あっ危ない、また危ないと、私たちを、ご自身の基準点へと戻して下さいます。ああそうか、それなら自由にどこへでも飛んで行ってしまえと、糸の切れた凧のようにはせず、折々に、ご自分のもとへと、神の家・ベテルへと、導き返して下さいます。
神のための祭壇を造りなさい。
神様は、この世界をお造りになった方ですから、どんなに大きく壮麗な神殿を造ったところで、神様の履物にすらなりません。神様はどこをご自分の神殿とされるかと言いましたら、心からへりくだって神様を求め、神様に心を開いている人の心の中に神様は住まいを求めておられます。 子どもの教育にせよ、職業にせよ、人間関係にせよ、まず第一に神を神とするという基準点を定めることが大切です。
「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。」 詩篇111:10
「わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」
にっちもさっちもいかない中に突き落とされるときも、神様は、私たちを包み、導き、諭して下さいます。ヤコブはまた、神様のもとに帰り、歩みを始めます。それで、いいのです。またそれを神様は、願っておられるのです。
「ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」
ハランの地での生活様式、ラバンの守り神を持ってきたラケルでありました。シケルの町の女性たちの生活様式を学びたいと考えたディナ。
しかし私たちはこの地に住もうとも、思いは神と共にあり。イスラエルといつもともにいて下さる、「神われらとともにいます神」とともにある我らである。一切の身に着く垢を落とせ。ただ生ける神様のことを心に刻め。こう命じるヤコブでありました。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」フィリピ3:20
「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」ルカ10:3
この地上は、神様の創造物であり、そこに住む人たちは、私たちの愛する同じ時代の同胞たちです。しかし、この世界は、神から離れ、神を拒絶し、神様の御国から隔たっています。不法がはびこっています。私たちは、「日本人クリスチャン」から、「クリスチャン日本人」となって、神の国に軸足を置き、出エジプトの出来事のように、頑強な悪魔のもとから、私たちの同胞である神様の造られた民を解放する務めをいただいております。「わが民を去らせよ。」神様からの使命を頂いて、神の民のひとりとして、神の国大使館のひとりとして、もろもろの出来事の中でも原点に導き返していただき、赦し導いていただき、神様の祝福のお約束の中、このクリスチャンの民が、この地で産めよ、増えよ、このお約束の通りとなりますようにと、この地をカナンの土地として救いを増し加えて下さい、約束の祝福の地にして下さいと、心から祈るものであります。
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