Warning: Undefined array key "HTTPS" in /home/tojokyokai/public_html/includes/head.html on line 16

説教原稿

2009年1月18日
「神の御顔のように見えます」
創世記 33:1-11

 今日も生ける神様は、私たちを祝福のオアシスへと招いて下さいました。一週間のはじめ、私たちは、恐れなく、主と共に歩ませていただきます(ルカ1:74,75)。
アブラハム、イサク、ヤコブに、ハガルに、イシュマエルに、サライに、その苦境の時、折々に現れ、励まして下さった神様。そして族長たち、神様から親しく友と呼ばれた一人ひとりは、私たちと同じ、欠けや失敗のある、等身大の人間だったということ。私たちは、創世記から、学んでまいりました。
しかしその弱い、過ちを犯す人間たちの間にあって、ぱっと光り輝くのが、愛を注いでくださる神様。神様の愛です。創世記が福音書と呼ばれると申し上げましたが、聖書は、始めから終りまで、「福音」すなわち、「良き知らせ」に充ち溢れています。
私たちも、この神様に取り扱っていただき、神の愛を隣人にあらわす働きができればと、願います。

 命を狙われて杖一本でエサウのもとから逃げ出したヤコブでした。先週お伝えしました通り、ラバンのもとで、辛酸をなめたヤコブの20年でした。折々の主なる神様のお慰めがなかったならば、彼はこの20年を耐えることはできなかったでしょう。

 ラバンのもとから逃れて、続いて今度は、エサウに再会する番です。こちらの方が、ヤコブにとっては、命がけの大勝負でありました。緊張するヤコブ、不安なヤコブに、主は現れて下さいました。ヤボクの渡し場で、神様は、ヤコブに現れました。不安な思い、自分の罪責感、どうにもこうにもならない将来への恐れ、心に渦巻く思いを神様はどっしりと受け止め、神様ががっぷりとヤコブと腕と腕を組んで、神様がご自分の胸を貸して下さり、ヤコブを受け止め、一時を過ごして下さいました。神様は、ヤコブのもものつがいを外されました。ヤコブは砕かれました。ただ神様の祝福をいただかなければ、自分の力では、何一つすることが出来ない、立って歩くこともできない、自分ではかりごとをするならば、なにもうまくいかない、この人生の難しさに直面させられていました。
神様は、手加減して、ヤコブを勝たせ、お前は神と闘って、勝った、お前は、イスラエルだと、持ち上げます。私たちも、ただ神様のお取り計らいにあってのみ、「勝利する」者となります。色んなこと、事あるごとに、祈り、主に期待して、信じて、歩んでまいりましょう。主は生きていらっしゃいます。

 ペヌエル、神様はご自分の御顔をあらわして下さった。その人生の節目を通って、いよいよヤコブと再会する、その日です。

 1節、「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。」400人のものと共に。全身毛深い、野山を駆け回って猟をするエサウ。そしてその一族。ヤコブの不安は、ピークに達します。ヤコブは、最も大切なラケルとヨセフとを守るため、彼らを一番最後にし、まず側女とその子たちとを先に行かせます。この序列に、はやヨセフ物語の一端、兄弟から妬まれてしまうヨセフの姿を垣間見る思いがします。

 ヨセフはずっと最後尾にいましたが、この時は、すうーっと、一番前に進み出ます。この中でエサウを知っているのはただ一人、ヤコブだけです。20年の月日です。同じ血を分けた兄弟が20年ぶりに再会します。兄のものを奪った弟が、怒った兄に命を狙われて逃げ出した弟が。20年経ったとはいえ、人の恨みのなんと恐ろしいことか。カナンの故郷を思い出すごとに、今日この日まで20年間、ヤコブは、一日たりともこのエサウの怒りを忘れたことはありませんでした。いつものどに刺さったとげのように、常に引っ掛かることとして、ヤコブを苦しめ続けました。

 カインがアベルを殺す。人の罪は、世の初めから連綿とつづられていました。アダムとエバが神様のお言葉を軽んじて以来からです。この罪により、仲が良かったはずの兄弟が殺され、仲が良かったはずの兄弟が切り裂かれ、人は互いに対立して、殺しあうようになりました。この罪によって、人は人を欺き、正しい人が馬鹿を見る、要領のいい人が「濡れ手にあわ」でかすめ取るような世の中になってしまいました。食品偽装、耐震偽装、「人のことは構うことはない」という、傍若無人の世の中になってしまいました。

 自分の罪に気が付いたとしても、できることならそれには目をつぶりたい、罪なんてないものにしたい、そう考えるのが、人間です。しかし神様は、恵みのもとにあって、人に、罪からの解放を経験させて下さいます。ラバンの所が住みやすかったなら、ヤコブはずっとそこに安住していたかもしれません。神様は、すべての状況をお用いになり、私たちにとっての最善をなして下さいます。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」 ローマ8:28
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 マタイ6:34

 ヤコブは、逃げませんでした。多くの財を築き、生きて行けたのに、どうしてわざわざエサウの前にすべての命の危険にさらされなければならなかったのでしょう。計算深い彼のことです、こう考えたところで不思議はありません。しかし彼は、ただ一点、神様が「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」31:3 こう言われた言葉に寄り頼んでいました。 「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」ヤコブ4:17 という言葉がありますが、人はとかく、「分かっちゃいるけどやめられない」ものです。しかし、ヤコブは、腹に決めたのです。光のある方向へ、神様が指し示す方向へ。彼は悔い改めの歩みへと歩み出したのです。

 7回もひれ伏しながら。ひれ伏してはまた立ちあがり、彼は兄エサウの方へ、進んでいきました。さあ、エサウはどうしたのでしょうか。
「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」

 エサウは走って来て、弟ヤコブを抱きしめて、首を抱えて口付けした。 あの放蕩息子のたとえ話と同じではありませんか。もう許していたのです。その悔い改めの姿に心打たれ、自分のもとに戻ってきたわが弟に会えるだけで、今までの因縁は雲と消え、ただただお前生きていたのか、無事だったのか。また会えてうれしいよと、涙を流して喜んでくれたのです。ヤコブも、お兄さんごめんなさいと言いたくても、こみ上げる涙とむせびで言うことが出来ません。いいからいいから、分かったから。兄と弟が結びあうその瞬間でした。
人と人とのなんと美しい姿でしょうか。そうです。人は、こうして、赦し、赦され、生きていくものだったのです。罪が人と人とを切り裂くなら、悔い改めと赦しは、人と人とをまた結び合わせます。神様に、不可能なことはありません。(ルカ1:37)

 エサウは、「一緒にいるこの人たちは誰なのか」と尋ねます。ヤコブは、「あなたのしもべである私に、神が恵んで下さった子供たちです。」と答えます。ヤコブは、神様に信頼して以来、一つ一つが守られていることを実感していました。あの荒野の逃避行。そして不思議と自分の親戚の土地へ導かれ、家族を得、自分の群れを得たこと。裸一貫。しかし神様はここまで導いて下さった。そしてエサウの心まで、動かして下さった。
「神にできないことは一つもない。」
彼は、砕かれ、神様がすべて与えて下さったと、告白します。

生意気な弟、自分を出し抜く弟だった。しかし今は、わがしもべと首を垂れ、家族一人一人が自分にひれ伏し挨拶している。こやつは苦労して、立派になったのだなと、感じるエサウだったことでしょう。
「今、わたしが出会ったあの多くの家畜は何のつもりか。」
ヤコブが、「御主人様の好意を得るためです」と答えると、
エサウは言った。「弟よ、わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい。」
何と淡白な、鷹揚なエサウの姿でありましょうか。誰でも物を受け取ることは嬉しいはずです。どんなにたくさん持っていたとしても、いや、たくさん持っている人に限って、ケチケチしていると言われたりもします。麻生総理が、高額所得者が、定額給付金をもらおうというのは、さもしいと言って、その後その言葉を撤回しましたが、誰でももらうものは大歓迎でしょう。しかし、エサウは、これから定住しようとする弟を気遣います。自分がもらう権利があるにもかかわらず。ここに、こだわりのない、いかにも父イサクが大好きな、エサウの横顔を垣間見ます。そしてこの姿は、ヤコブを苦しめたラバンとは、大違いです。

ああ自分の家に帰ったのだ、どうしてわたしはこの家にいられなくなるようなことをしてしまったのだろう。ヤコブは、やはり帰るべきは自分の家と、放蕩息子と同じ心境でいたのではないでしょうか。

10節、「ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。」

 ヤコブの目には、今までわが子のように励まして下さった神様の御顔と、ここにきて自分を赦し、励まし、負債をも無条件に許す兄の姿とを、重ね合わせて見ていたことが分かります。「このわたしを」、この罪びとの私を「温かく迎えて下さった。」ここに神様のお姿があります。ここにイエス・キリストの愛が見えます。

 ヤコブは恐る恐る、エサウのもとに許しを請いました。しかし私たちは、先に、私たちが悔い改める前から、イエス・キリストにある神様の赦しの愛の大きさを知っています。私たちは走り寄って、神様に抱きかかえられることが出来るのです。

 ヤコブはシケムに入り、かつて祖父アブラハムがカナン地方に入ってはじめ、聖所で主を拝み、「あなたにこの地を与える」と神様からのお言葉をいただいた(12:6-)その同じ地で、祭壇を建て、生ける神に感謝を捧げました。

エル・エロヘ・イスラエル。イスラエルの神である神。イスラエルのエルというのも神という意味ですから、三重に神様の名が覚えられています。この方こと私の神の神。私の歩みにどこまでも伴い、私を包み、導き、最善をなしたもう神。彼はまた、心に神様を刻んで、歩み出していきます。
この毎週日曜日の、私たちの礼拝が、生ける神様を覚え、心に刻む営みであればと、心から願っております。神様は赦し、あたたかく迎えて下さる神様です。この神様の御名を力いっぱい、感謝とともに叫び、今週も山谷を導かれたいと、願います。

一か所聖書を朗読させていただきます。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。 わたしの魂は主を待ち望みます 見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。
イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルをすべての罪から贖ってくださる。」 
詩篇130:3-8

新改訳
「しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2025 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.