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説教原稿

2009年1月11日
「祝福してくださるまでは離しません」
創世記 32:23-33

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
Ⅰコリント10:13

 世界的に経済の危機が訪れた2008年でした。今年は良い年になるかと期待すれば、年末から勃発しましたガザ紛争は、悪化の一途をたどっているように見えます。このような「出口の見えない」様々な状況の世界の中に私たちはいますが、先ほどお読みしましたみ言葉は、私たちに勇気を与えます。

 神様は試練の中、逃れる道を開いて下さる。私たちは創世記から、信仰の先輩ヤコブが、神様のどのようなお取り扱いの中、難局が切り開かれていくかを学びたいと思います。

 クリスマス前、ヤコブのストーリーを読み、だいぶ間があきましたが、ヤコブは、おじラバンの姑息な手段に耐えながら、働いていました。嫁をもらうために14年間、そしてその後、故郷に帰らせて下さいと頼むも、自分に富をもたらすヤコブをみすみす手放したくないラバンは、報酬を取らせるから留まれと引きとめます。自分のことしか考えず、自分の持ち物と子供たちを優遇して、ヤコブを決して信じないで、ただ上手に利用しようとするラバンを見て、ヤコブは一計を案じ、ぶちとまだらの羊を下さいと頼み、その後不思議な方法で自分のもとに強い羊が得られるようにと計画し、見事にそれを成功させました。

面白くないのはラバンと子供たちです。羊の生態に精通しているヤコブの巧妙なやり方に打つ手のない彼らは、ヤコブを泥棒扱いしてののしります。針のむしろと言いますか、それは親戚同士というよりも、敵同士という関係になってしまいました。
元はと言えばラバンの強欲から始まった出来事です。ヤコブは今までただ働きのようにラバンの一家のために働かされ、報酬をやるといってもカラ手形、誠意がまったく感じられないラバン一家を前にして、クタクタになろうとしていました。どうせ帰るところはないんだろう、兄エサウが怖かろう、そう足元を見ていたかどうかは分かりませんが、ラバンの態度は、明らかに以前とは異なり、冷酷なものでした。

 今世の中では立場の弱い「派遣社員」が平気で調整弁のように使われ、景気が悪くなれば切られるといった事態が起こっていますが、そのような存在ですから、きっと職場の中に働いていたとしても、弱い立場に置かれていることでしょう。正社員たちの慰めとして置かれていると言いますか、自分たちより下の身分だとか、大変なことはあいつらにやらせればいいとか、自分たちは仕事の手を休めて彼らに指示を出せばいいとか、みんながみんなそうではないと思いますが、そういった悲哀をなめることもあると思います。職場を辞める原因というのが、仕事自体というよりも、職場の人間関係にあるとよく聞きます。
ヤコブもまさに職場の人間関係に、クタクタでした。逃れの道はないのか。そして故郷の兄は自分を赦して受け入れてくれるだろうか。残るも地獄、帰るも地獄、この二つの超難局から、神様はどう導いて下さるのでしょうか。今日は31章と32章から、この双子の難局に逃れの道を与えて下さる神様を見上げたいと思います。

 31章3節、神様は、「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」こう優しく語りかけて下さいます。神様は、ラバンの仕打ちをつぶさにご覧になって、助けの手を伸ばして下さっている。ラバンは、斑のまだらの山羊と羊をやるといったら、さっそくぶちとまだらのものを隔離して、他の羊たちと自由に交配できないようにして、つまりそれ以上ぶちとまだらの羊が出来ないようにして、ヤコブに家畜を渡すまいと息子と一緒にせっせと工作したというわけです。こんな我利我利亡者のラバンのもとですからどんなにヤコブには心労があったことでしょう。しかしその仕打ちを神様はずって見ていたよと、おっしゃるのです。だからこそ、神様は不思議な方法で、その囲ってあったまだらとぶちの群れの外に、ぶちとまだらの群れを作りだして下さったのです。

 そしてついに時が来て、ヤコブが自分の群れをなした時に、神様は「故郷に帰りなさい」と、語りかけて下さるのです。一番いいタイミングで。今までよく頑張った。次には私の次なる計画がある。いつも私は最善の計画をあなたのために立てているよ。こう神様は、語りかけて下さるのです。
自分の妻たちを野原に呼び寄せて、秘密裏に、この土地を出る相談をするヤコブ。妻たちもまた、父ラバンの強欲ぶりには怒り心頭でした。

 この時の神様のお励ましの言葉にも目がとまります。
「わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。』」

 私はベテルの神。そうです。ヤコブが杖一本でエサウを逃れてやってきたとき、石を枕に寂しく眠っていた時、天にまで達する階段と、上り下りする神の御使いを示し、アブラハムに対して語られた祝福の契約を語り、あなたがどこに行っても私が守り、必ずカナンに連れ帰り、決して見捨てないと、約束して下さったこと。そしてヤコブは喜んで、ここは神の家、天の門だと言い、ベテル(神の家)と名付けたあの場所でした。ヤコブはここで誓願をたて、「神がともにいて下さり、旅路を守り、食べ物、着るものを与え、無事に父の家に帰らせて下さり、主が私の神となられるなら、記念碑を建てたこの石を神の家とし、捧げものをささげます」と言いました。
20年前に起こったこと。主はそれをしっかりと覚えていて下さいました。ヤコブを親戚のもとに送り、妻を取らせ、財を築かせ、そして最善の時に、約束の通り、必要なものに欠けるどころか、たくさんの財と共にヤコブを父の家に帰らせて下さる神様の真実さです。

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。    哀歌3:22-24

脱出を試みるヤコブたちでした。ラバンがちょうど出かける隙を狙い、追跡まで3日の猶予を得ます。しかし家畜と一族を伴う脱出に対し、駆けに駆けて追跡するラバンたち。7日の末、ギレアドの山地でついに追いつかれてしまいます。危うし。しかし神様は、またも手を打って下さいました。ラバンの夢の中、神様は、「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。」と語りかけて下さいました。

ラバンは怒りながらも、「わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。」と語ります。

自分が築いてきたものをラバンによってことごとく引きはがされるのではないか。この危険から救い出されたヤコブでした。
ラケルが父ラバンの「守り神」を盗んで騒然としますが、これもまた見つからずに決着します。どうやらこの守り神は、財産の相続と関係があるようです。最後まで財産でもめるお家事情でした。

またも知らぬことで難癖を付けられたと思ったヤコブは、ずっと蓄えていた怒りをここぞとばかりに吐き出します。
「この二十年間というもの、わたしはあなたのもとにいましたが、あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはありません。わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。しかも、わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました。」

20年の間煮え湯を飲まされたヤコブの心情がここにはっきりとあらわされています。こんな中、ヤコブは何を拠り所としていたのでしょうか。
42節、「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」

 こんな状況の中にあっても、神様は逃れの道を開いて下さる。今回の脱出劇でも、神様が語りかけ、先手を打って守り、導いて下さったこと、これがヤコブの神様を体験する機会となりました。ラバンは何も言い返すことができず、二人は互いに敵意を抱かないという契約をして、別れました。

 ひとつの難局は切り開かれました。次には兄エサウとの再会です。ヤコブは旅を続けていました。
すると、突然、神の御使いたちが現れました。次なる難局を前にして、あくまで「私はあなたとともにいる」ということを示して下さる神様です。たくさんの御使いたちを前に、ヤコブは、「ここは神の陣営だ」と語ります。多くの神様の軍勢が伴って下さる。力強い神様のお導きです。私たちを助けて下さる神様も、天の軍勢を率いる神様でいらっしゃいます。

聖歌471番
神の給う安けさは
川のごとく流れきて
この心を打ち浸(ひた)し
世にあること忘れしむ
主の手にあるたましいを
揺り動かすものあらじ

 ヤコブは主の守りの手の中にある自分を思い、兄エサウとの再会にあたり、最善の策を考えます。使いのものをやりますと、兄エサウは、400人のお伴と共に自分に会いに来る途中とのことでした。ヤコブは非常に恐れ、その400人とは、自分を打ち滅ぼすための兵ではないかと考えました。

この時、ヤコブは神様に祈りました。
「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。
わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。
あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」

 ヤコブは、神様に頼るしか他に手立てがありませんでした。折々に力づけて下さいました神様、私は今こんな状況におります。あなた様が故郷に帰りなさいとおっしゃった通りに進んでいます。しかしこんなことになりました。彼は身を低くして祈ります。しもべは神様の示されたすべてのいつくしみと誠を受け取るに足りないものです。ヤコブのたましいは、砕かれました。もはやこれまでという状況を何度となく通され、彼は自分の力がどこから来るのかを骨身にしみて理解するより他になかったのでした。
「かつて私は杖一本を頼りにこのヨルダン川を渡り、今は二組の陣営を持つまでになりました。」しかし「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。」私は無一物です。すべてはあなたのなせるわざです。「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」彼の率直な祈りです。策士、策におぼれる。彼は自分の器用さと知恵深さを武器としてこれまで歩んできました。しかし上には上がいてラバンに20年間苦しめられ、今度は自分が蒔いた種をエサウから借り取ろうとしている。ヤコブは、本当に自分のダメさ加減をほとほと知らされました。
「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。」「わたしは兄が恐ろしいのです。」彼は、ペチャンコになって、砕かれて、子供のようにただ神様に頼り、祈るものとされました。

 彼は、数多い供え物を小分けにして、使者と共に送り、その小分けの一つ一つの贈り物に使いのものを付け、「あなたのしもべヤコブからの贈り物でございます」と言わせました。そして自分と家族は一番最後に、怒りがさめた頃に入ろう、ただ赦していてもらいたい。彼は祈るごとに歩を進め、ついにヤボクの渡し場に着きました。

 自分のゆえに、罪もない自分の家族はもろとも打ち果たされてしまうのか。彼は一人川を渡ると、渡し場にとどまっていました。いよいよ明日は再会の日という時、日も暮れ、辺りを、ヤコブの心の不安を象徴するような暗闇が包みました。

 わんぱくっこを手なずけたい父親は、しばしばどのような方法をとるでしょうか。親子のきずなを深めるために二人で泥んこになるまで相撲を取る、そして手を抜いてそこそこ勝たせてあげる、そして自信をつけさせる、同時に鼻っぱしを折らせて、自分の限界をわきまえさせる、謙虚にさせる、こんな方法をとるかもしれません。この時、神様は、驚くべきことに、ヤコブと親しく、スキンシップを取って下さいました。お前が恐れているものは何か、それは神と比べてどっちが大きいか!私に答えて見よ、自分の力がどれだけ大きいか、答えて見よ、お前は自分で自分自身を助けることが出来るか、答えて見よ!そうおっしゃるがごとくに、闇夜の中、神様はヤコブと格闘の時を持たれました。ヤコブも決して引きません。私は神様に頼ります!私を祝福して下さい!それまでは離しません!あなたの祝福を勝ち取るまでは!
兄のかかとをつかんでこの世に生まれてくるほどの野心家でした。そしてかかとという意味のヤコブという名をつけられました。足を引っ張るものが足を引っ張られる苦しみを嘗めさせられました。そして神様の前に立つものとされました。彼は、神に戦い祝福を勝ち取るもの、イスラエルという名前を受けました。

私たちは自分の能力をつかみ、頼みとせず、人のかかとをつかむのではなく、神様と、がっぷり四つになって、神様から祝福を勝ち取るものであります。現実に対して不安と不満があり、出口が見えなくても、父なる神様に食らいついていくとき、現実を超えた、神様のお働きを見ることができます。

ヤコブは、また人生の中に、聖なる場所、神様との会見の宝の場所を頂きました。ペヌエル。神の顔という意味です。顔と顔を合わせて語り、導いて下さる、息が触れ、体がぶつかるほどの臨在の恵みをもって、神様は私たちをも、導いて下さいます。この方に感謝し、期待し、信頼して今週も、歩んでまいりましょう。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」 Ⅰコリント 13:12

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
1ペトロ1:8-9

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