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説教原稿

2009年1月4日
「主はわたしの羊飼い」
詩篇 23:1-6

新しい年を迎えました。「新しい革袋に新しいぶどう酒」というお話が聖書にあります。新しいこの2009年という革袋に、新しい一日一日という革袋に、神様は新しい恵みを新しいお導きを備えて下さいます。今日お読みいただきました個所にありますように、「私の杯をあふれさせて」下さいます。今年も、天地を作られたまことの神でいらっしゃる父、御子、御霊の神様に、心から期待して歩んでまいりましょう。

 あまりにも有名な、詩篇23編です。

 「主は羊飼い。私には何も欠けることがない。」
  「主はわたしの羊飼い。」

 この詩編の作者は、ダビデですが、彼もまた元々は羊飼いでした。
  彼はこんなことを言っています。
「しもべは、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。 そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。」

 勇敢な羊飼いです。自分の群れの羊を愛し、敵の口の中から羊を救い出す羊飼いの姿です。良い羊飼いにとって羊は自分の家族のような存在です。一頭一頭名前を付け、それぞれの羊の性格を理解しています。
  羊は大変臆病な動物だそうです。私は今回、『羊飼いが見た詩篇23編』という本を参考にいたしましたが、実際に羊飼いだった人が詩篇23編を講解する中で、羊に関するエピソードを数多く紹介しています。
  この人の所に町から友達が車で訪ねてきました。車のドアを開けるや、飼い犬の子犬がパッと車から飛び出しました。その様を見た羊たちがびっくりしてパニックになり走り出し、それを見た他の羊たちが何だか分からないまま走り出し、ついには群れ全体が訳も分からないまま一つの方向に走り出して大変な騒ぎになったとのことです。これは人の群衆心理を表しているようにも思います。
 
  ダビデが、羊飼いとして活躍し、やがて王となって国をも導くようになったこと。このことを私たちは知っています。優しさと勇敢さとをもって彼は国をも導いたことでしょう。しかしここで彼は、私はよき羊飼いと、王として権力者として詩を書くのではなく、「主は私の羊飼い」と書き始めます。
  開口一番に「主」と語り始めるダビデ。私たちも彼のその詩に学びたいのです。

 「主はわたしの羊飼い」
  天地を作られた神ご自身が私の羊飼いである。ダビデは自分を羊になぞらえています。優秀な羊飼い、ゴリアテさえ倒す勇敢な人、国を任せられた王でありながら、自分は羊にすぎないという告白です。目もよく見えず、足もおぼつかず、すぐに倒れてしまい、なかなか自分で起き上がれず、臆病でパニックになり、群れの羊飼いがいなければすぐに敵や病気の餌食になり、食べる者にも事欠き、窪みにたまった不衛生な水を飲み、寄生虫を体に入れてしまう、弱々しい動物だと彼は告白しています。
  しかしそんな弱々しい羊でも、主ご自身が私の羊飼いでいて下さるのなら、私には何も足りないことがない。安泰だ、心配がない。こう言い切っているのです。

 
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩篇121

 ダビデは羊飼いとして、弱い羊たちにとって、羊飼いがどれだけ重要な存在であるかということを心底から理解していました。「主が羊飼いでいて下さるのなら私には何も欠けることがない。」彼は自分の人生の中で何をもって欠けることがないと言っているのでしょうか。

3つのことが語られています。
まず第一に、青草の原に休ませて下さるということ、次に憩いの水のほとりに伴って下さるということ、次に魂を休ませて下さるということです。

 羊は、十分に食べて満足し、そして自分の周囲に危険がない時にのみ、身を横たえるのだそうです。そして横になって、静かに食べた者を反芻し、自分の栄養とします。イスラエルの地に、新しい青々とした草が豊富に備えられているということは、自然なことではなく、牧者の並々ならぬ配慮のたまものです。そして食べ飽きて、横になるまで、安全が確保され、牧者の目が行き届いているということ、この状態が語られています。羊は、自分のお決まりの道筋ばかり歩き、同じところからばかり草を食べるそうです。そうすると、草は根こそぎにされ、土地は荒れてしまうそうです。牧者は、いつも新しい土地に羊を導き、いつも青草に出会えるように配慮します。これが野放しのままであれば、すぐに荒れ放題になってしまうそうです。手をかけず、放ったらかしの牧者の羊は、災いです。
そして水のほとりですが、これもまた、非常に大切なことです。日本のように水に恵まれた土地とは違い、川と言っても、地下水脈を指すこともあるイスラエルの気候です。憩いの水のほとりと言いましても、並大抵でない配慮の賜物であります。ある羊飼いは、岩の洞窟を切り開き、涼しいところを作り、水脈から水をくみ出して、大汗をかいて羊のために飲み水を確保します。井戸からくみ出して水を与えることもあるかもしれません。自分の羊を養育するということ、羊が満足して休み草を食べ、水を飲めるという平凡な当たり前のことの背後に、牧者の配慮と労働が見えます。
  羊が衛生的な新鮮な水にありつけるということは大切なことです。そうでないと、羊たちは手近にある窪みにたまったような水を飲もうとします。しかしそれは、羊の尿が混じっていたりして、寄生虫や病気の原因となる菌がはびこっている危険なものです。配慮の行き届かない牧者の羊は、災いです。

 次にあります魂を生き返らせという意味は、後にあります、私を正しい道に導かれるということです。ある羊は、どんなに立派な牧草地を作っても、わざわざ冒険して、柵の外に出たがるのだそうです。外の草は貧相で、敵の危険も多いのに、わざわざ出掛けていく羊があるのだそうです。そして穴にはまって倒れると、じたばたして自分で起き上がれず、パニックになり、背中の皮は向け、体にガスがたまり、暑い時ではしばらくすると死んでしまうそうです。牧者は一頭がいないとみると、探しに出かけます。そしてあおむけになって倒れていて、しかしまだ命があるとみると、喜んで近づきます。羊を支え起こし、偏っていた体をさすり、ガスを循環させ、しばらくすると、羊は駆けて群れに戻っていくのだそうです。「もうこんなところに来てはだめだよ」愛と矯正とをもって、羊飼いは群れに羊を戻します。羊飼いはこの時神様のいつくしみを学ぶそうです。神様がどんなにか群れの羊を思い、さばきと思われるときも、それは羊を取り戻し、元の道に返す愛の働きであるということを学びます。

「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」 イザヤ53:6

 正しい道、それは、神様と共にある道です。自分勝手に思い思いの方向に迷い歩く羊のような私たちのために、神様は牧者を与えて下さいました。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネ10:11
  私たちの魂を生き返らせ、正しい道に引き返させ、共に歩んで下さる方が、私たちの主イエス・キリストです。そして私たちは導かれ、御名にふさわしく、主の前にふさわしく、主のご栄光のために、生きるようになるのです。
  「死の影の谷」。暗い暗いところです。死の力がうごめき、敵が私たちをくわえ噛み砕き、我が物としようと吠えたけっているところ。

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」 1ペテロ5:8

 羊飼いの目を盗み、実に巧妙に羊をとらえるクーガーという動物がいるそうです。後になって見て、内臓を食べられた羊を発見しても、決してその姿を見ることはないという、ハンターです。悪魔はそのようにして、巧妙に働き、食いつくそうと働きます。しかし私は災いを、悪の力を恐れない、あなたが私とともにいるから。
  羊は目に見えぬ敵を前に、おののき眠ることもできないほど衰弱します。羊が怖さで逃げ出すときには、身重の羊は子供を未熟児のまま産み落としてしまうのだそうです。しかし、羊飼いが、武装して立っていてくれる。私とともにいてくれる、そう思うと、羊でもそう思い、安心するのだそうです。

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ16:33 

 世にすでに勝たれた方、イエス様がその杖をもって鞭を持って、私たちを敵から守り、危うきから引き戻し、導いて下さる。この神様のご臨在と、お導きこそが、私を力づけ、慰める。どんな境遇にあっても、神様は導き返して下さる。これが様々な人生を歩き、山を歩き、谷を歩き、時に成功し、時に失敗したダビデの率直な感想でした。

 私を苦しめる者。ダビデは明確に、自分の人生の中で自分を苦しめ続けた存在について語ります。サウル王でしょうか、自分の弱さに付け込み、自分を破滅させようとする悪魔でしょうか。しかしその強い敵の目の前で、戦いの場で、主は私のために、私の目の前で食事のテーブルを用意して下さる。それが何ものでもないかのように、私のほうだけを見て、私の味方となり、私を勇気づけ、力づけて下さる。苦境のどん底で、孤立無援のその中でも、神様は食事を用意して下さる。
  私は、テレビを見ていましたら、とある自殺の多発する崖っぷちで、それらの方々に声をかけるボランティアをしている方のことを見ました。
思いつめて、青い顔をして、希望が全くない。そんなとき、まだ大丈夫。道はあるから。どうぞいらっしゃい。一緒にご飯を食べましょうと語りかけ、背中をさすって、大丈夫だよ、道は開けます、こう言って下さる、何という助けでしょうか。神様もまた、陥落寸前の多勢に無勢のような局面にやって来て下さり、「大丈夫だよ」といって、食卓を整え、何もなかったかのように、そこを喜びのうたげにして下さるのです。祝福の香油を注ぎ、充ち溢れるまで、恵みを注いでくださいます。

 羊飼いは、羊がハエや蚊によってさいなまれるのを防ぐために、また治療するために、油を鼻や頭に塗るのだそうです。さいなまれ、気が狂ったように走りまわりけがをしてしまうあわれな羊。私たちもまた、心を惑わすハエや蚊のように悪魔が魂に攻撃を仕掛けてくるのを感じるのではないでしょうか。「魔が差した」という言葉がありますが、世の中は、企業から個人まで、騙し、奪い、そして時には殺す、こんなことが日々行われています。そして私たちの心の中も、罪の誘惑は、ひとごとではありません。イエス様は、人に対して腹を立て、赦さず、馬鹿ものと心の中で思えばそれは人殺しと等しいと教えて下さいました。しかし神様は聖霊の油を注いで私たちの心に平安を注いでくださいます。正しい道にいつも引き戻して下さいます。私たちは主のものだからです。

 恵みといつくしみはわたしを追ってくる。なんと素晴らしいことでしょうか。災いと悲惨が私たちを追ってくる。こんな世の中です。しかし神様にあっては、良きものを惜しみなく与えて下さいます。神様はいつまでも、私たちの生きる限り、どこまでも私たちを追いかけ、あきらめずに、祝福を与え、回復させ、ご自分の群れの中に戻して下さいます。
  こんな羊飼いなる主のもとに住む羊たちは、なんと幸せなことでしょう。
私もまた、生涯、主の家に住みましょうと心から感謝して告白するものです。

[新共同訳] 詩編
100:1 【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
100:2 喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。
100:3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。
100:4 感謝の歌をうたって主の門に進み/賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。
100:5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。

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