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説教原稿

2008年12月28日
「あなたの御計らいは、いかに貴いことか」
詩篇 139篇1-18節、23-24

 一年の終わり、最後の礼拝の時を迎えております。この一年間は、皆様にとって、どのような年だったでしょうか。
  私たち家族にとりましても、今年一年は、転勤の年で、色々なことがございました。

 いろいろなことがと言えば、今日お読みいただきました、ダビデ王という人ほど、人生のうちに色々の経験をした人はいないといえるかもしれません。兄弟の末っ子、羊飼いが突然預言者により、神様のお選びの中、王とされることになったこと、信仰一つで巨人ゴリアテを倒したこと。サウル王からねたまれ、命からがら逃げ出したこと。追われに追われて、野宿したこと。他国にさえ逃げて行ったこと。ついに時が来て王になったこと。部下の妻を略奪し、部下を殺してしまったこと。自分の子供に反逆され、結局彼を失ってしまうこと。後に王国が分裂するということ。色々な経験をしました。

 私たちもまた、様々なことを経験する時、神様に祈りをいたします。私たちの人生の中に、祈りが織り込まれ、祈りの中に、生活が織り込まれていきます。クロワッサンを作る時、生地に、入念にバターを混ぜ込んでいくようにです。

 祈り始めている時、必ずしも平安がない時があります。爆発的な感謝と共に祈り始める時があります。祈りながら、エレベーターが上がっていくように、感謝へと引き上げられる時があります。いずれにしましても、祈りとは、生ける神様との交流です。

 今日、ご一緒に、ダビデの感謝の歌、感謝の祈りから、学んでまいりましょう。

 まずダビデは、1-6節において、神様がどんなに自分のことをわきまえ知っておられるかを語ります。

 主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

 私の心の計らいを悟って下さるということは、有難いことであると同時に、恐ろしいことでもあるのではないでしょうか。私の思い計らいが正しくない時、それを包み隠さずに神様がご存じとあれば、私たちはどれほど恥入らなければならないでしょうか。

 私はかつて、宣教師さんの開く、英会話と聖書研究のクラスに参加していたことがありましたが、ノンクリスチャンの方が、この聖書の個所を読んで、「何もかも知られていて、前から後ろから取り囲まれているなんて、困ったことです」とおっしゃっていたのが思い出されます。

私を極め、知っておられる方。座るのも立つのも、歩くのも伏すのも見分け、私の舌がまだ一言も語らぬ先に、すべてを知っておられる方、それが神様だというのです。

その驚くべき知恵は私を越え、あまりにも高くて到達できない。

7節、「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」
  こう言うに当たって、ダビデも実は、神様の圧倒的な見通すお力の前に、たじたじになっていたのではないかとさえ、思われます。神様と人とを比べれば、巨大なパルテノン神殿とあり一匹、いやそれよりも人は小さく、むなしく、ちっぽけな存在です。神にじっと見られている、すべてを悟られている、それ自体は、何か恐ろしいことでさえあります。

2節から4節まで、「私の計らい」「私の道」「私の一言」、これらのことをダビデは語っています。私たちもしばしば、「私」「私」と考えています。こんな状況では、私としては、こう考えるべきだ、私としては、こう言わなければならない、私としては、このチャンスを生かして、こう決断すべきだ。私としては、今現在、まあまあうまくいっているのではないか。いや、私としたことが、こんなことでどうするのか、こんなはずではないのではないか…。私たちは、こう考えます。ですから、神様が上から見ておられ、ああだ、こうだと言われますと、自分らしさが失われて、操縦されたロボットのようにされてしまうと、警戒いたします。「自分らしく生きたい」これがすべての人の望みであります。

 しかし人が幸いになるにも不幸になるにも、ひとえにその「自分」のゆえです。一生懸命に自分らしい人生を積み上げてきても、ふと振り返って、いったい何を自分は築き上げてきたのか、そして自分が絶えることのできないような心の動揺に見舞われた時、どうして自分は、自分以外の所に頼るべき避難場所を設けていなかったのだろうなどと、考えたりもするものです。

 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

 猛烈に、「自分、自分」と言って、自己実現してきたところで、自分はなしを成し遂げたのであろうか。ふと孤独を味わう時、そばにずっと向き合ってくれる家族がいれば、それは有難いことでしょう。しかし家族はてんでバラバラ、骨肉の争い。自分の人生、天国と地獄。自分はたった一人ぼっちなのだろうか。そう考えるも、そうだ、天に登ろうとも、よみに身を横たえようとも、神様がともにいて下さるのではないかと、思い当たるのです。「自分、自分」といって、誰からも離れ、孤独となってしまった自分。しかし神様は、よみの底まで伴って下さる。どんなどん底の時にも、見放さずにいて下さった、ただ一人の方。ダビデは、思い当たるのです。

 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

 「私」「私」から、「あなた」と見上げる契機ではないでしょうか。

 「私はともにいて、手ずからお前を導き、力強い右の手で、お前の手を握りしめていたではないか。」

 「私が、私が」と我を張り、頑張る私たちには、慰めの言葉ではないでしょうか。私たちは、頑張りながらも、自分だけ、人には指図されたいないと意気込みながら、どこかにか、自分を分かってもらいたい、理解してもらいたい、弁護してもらいたい、寄り添ってもらいたい、こう思っているのではないでしょうか。

 真っ暗やみの中で、暗い暗いトンネルの中で、方角さえ見失って、手探りで歩く、そんなときも人生、あるのではないでしょうか。

「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。

 そんな闇の中でも主は私を見ていて下さり、光を照らして下さる。主がともにいて下されば、闇も光と同じことだ。
  ダビデは、苦労も迫害も、罪も通り、自分の弱さを体験し、主こそわが力と、経験していたのでした。自分自分と言ったところで、自分とはいったい何者であろうか。主と張り合ったところで、自分とは何者であろうか。こう考えていました。

あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。

どんなに立派に成長しても、博士か大臣かと育っても、母親からすれば、あの鼻たれのわが子であります。しかし母親は、生まれてきたのを育てたのであって、自分で作り上げたわけではありません。神様が、母の胎内の中で、私を形作って下さった。私の知らない私のルーツ、私の内臓と骨組をご存じの方。私の今に至るまでの歩みをすべてご存じの方。

ここでダビデは感極まります。神は私の母の母、父の父、人類の造り主。養育者、保護者、弁護者。愛の方。私を超えて、偉大なる私の主。ダビデは悟ります。

あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。

私の計らいではなくて、「あなたの計らい」、これが私にとってこれが、いかに貴いことか。祈りのうちに、彼はここに行きあたるのです。神の計らいは、いかに数多いことか。いかに深いものか。尊い、貴重な、神様の私のためのご配慮、ご計画、御思い。それは私の思いよりはるかに貴重なもの。そしてそのご配慮の、いかに数多いことか。砂のように数えがたし。なんと愛の深い方。私の主。わたくしはただ、あなたのうちに、あなたのうちにある一本の葦にすぎません。「人間は考える葦である」という言葉が思い出されます。

 ダビデは感極まり、今一度、冒頭の祈りを繰り返します。頭だけの理解ではなく、自分の信仰告白として。彼は神様を求めます。6つの願いの言葉が語られます。
  探って下さい。たましいを知って下さい。試して下さい。思いを知って下さい。見て下さい。導いて下さい。

 もはや彼は、恐ろしげに上を向き、岩陰に隠れながら眉をひそめては神様を見上げません。彼は、両手を広げて草原に出、あなたの御計らいを待ち望みます、私をどうか探り、わたしの魂を知り、私を試し、私の思いを知り、私の痛ましい、悲しみの、誤れる道を見て、私をとこしえの道へと導き返して下さいと、叫ぶのです。

 神様は私たちを弁護して下さる方。私たちの養育者。私たちは、心のよろいを脱いで、この方に、子供のころの気持ちを思い出しつつ、両手を広げて飛び込んでいこうではありませんか。神様は、私たちを愛する子供として受け入れ、過ちを赦し、肩に担ってどこまでも、とこしえに、になってご一緒に、歩いて下さるのです。

「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」ヨハネ16:7 聖霊は、私たちの弁護者です。聖霊による心の痛み、良心の呵責は、私たちを守るためのものです。痛みがなければ病気のなり始めを知ることが出来ません。熱いと思わなければ手を引っ込めずに重いやけどをしてしまいます。キリスト者の心の呵責は、私たちが自分を責めるためのものではなく、私たちを弁護する、聖霊の力です。

「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」 1ヨハネ2:1-2

感謝の祈りをささげましょう。新しい年も、とこしえに、愛の主は、ともにいて下さいます。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 マタイ28:19-20

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