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説教原稿

2008年12月21日
「この目であなたの救いを見た」
ルカによる福音書 2章21-38節

クリスマス、おめでとうございます。

私たちは、聖書の中に、世界で初めてのクリスマスは、どのようにして迎えられたかを見ます。それは突然の知らせから始まりました。
マリアの親戚、ザカリヤの妻エリサベトは、高齢でしたが、子供を授かりました。父ザカリヤは、祭司でしたが、突然のことで信じられず、受け入れられず、不信仰な発言をして、口がきけなくなってしまいました。しかし後、御使いに言われた通り、子供をヨセフと名付け、話せるようになりました。そして開口一番、ザカリヤは、聖霊により神を賛美しました。

次にマリアに御使いが現れました。いいなずけのある身です。「おめでとう、恵まれた方。」と言われても、子供を授かるなんて、ちっともおめでたいことではありません。突然子を宿したら、不貞の罪で離縁、石打ちの憂き目にあうのです。しかし、マリアは、その生まれてくるこの特別な使命を悟り、親戚のエリサベトの身に起こった不思議な出来事を思い返し、信仰によって、「お言葉通り、この身になりますように」と、受け入れました。いいなずけのヨセフも、誰の子供かと、苦しみ抜きました。しかし天使が夢の中に現れ、「恐れずにマリアを迎え入れなさい。聖霊によって授かった。名前をイエスとつけなさい。この子は自分の民を罪から救うから。」と語ります。ヨセフはこれを信じました。
マリアはエリサベトを訪問しました。するとエリサベトのおなかの中で子供が喜んで踊りました。エリサベトは喜びに満たされます。するとすべてを悟ったマリアは、聖霊により神様をほめたたえました。

クリスマス、それは、素朴な、どこにでもいる人たちによって織りなされる、しかし力強い信仰告白の出来事の連続です。

博士たちが見つけたきらめく星。彼らは、じっくりと用意し、たくさんの犠牲を払い、長旅をして、高価な捧げものを携えて、星だけを頼りに、気の遠くなるような旅をして、王を拝みにやってきました。
羊飼いたち。夜中にきらめく光に照らし出され、救い主の訪れを聞きます。天の大群の賛美の歌声を聴き、ベツレヘムのどの家の乳飲み子か分からずに、でも心燃えて、赤ちゃんに会うために、出発しました。夜中、暗い中。疲れているでしょう。羊の群れを移動させながらだったでしょうか。彼らは飼い葉おけの中の赤ちゃんを探り出しました。「いいよ、いいよ、眠いから。」彼らはそう言わず、喜んで出かけていきました。

不思議な不思議な物語です。いろんな人たちに、神様が働きかけ、ストーリーが進んでいきます。クリスマス、それは神様のお働きを信じ、喜ぶ者たちの信仰によるお祝いです。
イエス様は、お生まれになりました。天地を作られた主ご自身です。
しかしそのお生まれは、王としてではなく、高価な産着を着てではなく、むしろその逆。貧しい家の子として、飼い葉おけの上で、お生まれになりました。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
  フィリピ2:6-8

生まれて8日経ってから、割礼の日を迎えました。その時は、名前をつける時です。父ヨセフは、御使いが語られた通り、名をイエスと付けました。これは、「主は救い」という意味です。

神の子キリストが、罪びとに定められた律法規定に従う必要はあったのでしょうか。そして、23節にありますが、聖別されるために捧げものを用意する必要があるでしょうか。すでにきよい方です。宮に子供を捧げるとは言え、天の宮から降りてこられた方、天の宮の主でいらっしゃいます。しかしイエス様は、これらのことを一つ一つ経験なさいました。そしてやがて後には、罪を洗いきよめる洗礼までお受けになりました。石をパンに変えたいほどの空腹も経験されました。
神の子が、何もできない赤ちゃんとして生まれてこられたというのも、不思議です。いきなり大きな、立派な大人として、颯爽と、上等な衣を着て、現れても良かったのに。その方が人々は尊敬したかもしれません。しかしそうではありません。神殿から飛び降りてみなさい。あなたは神の子だから、御使いが来て守るはずだ。こうサタンは誘惑しました。しかし、イエス様は、他の人と変わらぬ人としての道を歩かれました。ご自分の欲のためには御力を用いませんでした。しかし人をいやすこと、弟子たちの信仰を訓練するためには、様々の御業を行われました。

他の人と何ら変わりのない歩み。律法の規定の中に、イエス様は育てられました。特別扱いされず、人としての歩みをなさいました。
「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽。これは、子羊を用意できない貧しい家庭の捧げものでした。

しかし、ご覧ください。ここに、聖霊に満たされた、シメオンという人がいました。エルサレムにシメオンあり。神の都には、神様がお目を留められる、立派な信仰者がいました。正しく、信仰あつく、そして関心は、いつも神の民イスラエルの励まし、慰めでした。いつも心が神に向かっており、神様の御思いを自分の思いとしている人でした。聖霊がいつも彼と共にとどまっていました。

「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」 歴代誌 下 16:9

今日私たちが着目したいのは、この平凡の中に、全く人として謙遜に歩まれた主をその目で見た、二人の信仰者のことであります。シメオンとアンナ。極めて高齢の二人でした。肉体の眼は衰えていたでしょう。かすんでいたことでしょう。しかし霊の目は研ぎ澄まされ、救い主イエス様を判別し、イエス様の使命を見抜いて預言しました。

シメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを聖霊から受けていました。彼は、イスラエルが慰められるのを日々待ち望んでいました。彼の眼は、過去、現在に向かって開かれていました。イスラエル、神の民、現在でいえば教会ということになりますが、このために熱く祈り、その結果、神様が感じておられるところの、欠如感と言いますか、何かが足りない、何かが間違っている、そういう神様の痛みをひしひしと感じていました。神の民は慰められなければならない。励ましを受けなければならない。いのち短い彼は、この世界のために、祈り続けていました。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」 マルコ6:34

そして彼の神様への熱い祈りは、ついに天を動かしました。彼はある日、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを受けるのでした。彼の執念の祈りは、ついに聞き届けられ、長い長い中間時代、旧約聖書の預言者の後、神様の預言者が与えられなかったその暗黒の時代は終わることとなりました。足尾銅山の被害を憂い、一人戦った、田中正造という人を思わせるような人です。
シメオンは、彼が生きている間に、神様がイスラエルのために救いを与えるメシアを与えると、約束を頂きました。
ある日、その時はやってきました。シメオンは、霊の導きを受けて神殿に入っていきました。するとその時、ヨセフとマリアは、生まれて40日経ったイエス様を連れてやって来ました。
シメオンは、幼子を腕に抱き、神様に感謝して言いました。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

神殿に来る赤ちゃんは、何十人、何百人もいたはずです。しかしシメオンは、この赤ちゃんこそが自分の祈り続けた、待ち望んでいた主の救いだと、悟ったのです。この方を見るまでは、死んでも死にきれない。私を、希望ないまま、救いを見ることなく、死に至らせないでください。何という切実な、心を打つ祈りでしょうか。シメオンは、それほどに、イスラエルのために、祈っていました。立派な神殿もあり、祭司長、律法学者たちは活躍していました。しかし、彼はイスラエルの慰められることをあくまで祈り続けていました。そして彼には、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げがありました。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
今こそこの時。祈り、待ち続けていたシメオン。信じ、待ち続けていたシメオン。彼は、動物が、一瞬のチャンスを無駄にせず、獲物を我が物にするように、じっとその時を待ち続けていました。「お言葉通り」必ず救い主を与えて下さる。彼は何年の間、この信仰によって歩いていたのでしょう。私たちにはわかりません。しかし、彼は信じ続けていました。

彼はどんな救い主を心に描いていたのでしょうか。凱旋将軍のような力強い立派な人でしょうか。一世を風靡した預言者でしょうか。いえ、彼が救い主として迎えたのは、一人の赤ちゃんでした。
人として歩まれ、きよい方なのに罪人としての人の、経験すべきすべての苦しみの歩みを経験して下さったイエス様。そして人の罪をことごとく背負って、人の代表として罪を背負い、贖って下さったイエス様。
シメオンは、神にささげられる一人の赤ちゃんの、その捧げつくされた生涯を思い、このような人類のための贈り物ゆえに、生ける神様をほめたたえました。

「これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

万民のための救い。異邦人を照らす啓示の光。神の民イスラエルの誉れ。パウロがダマスコ途上で主の啓示の光を得て、異邦人伝道に赴く、その所まで見通すような預言です。シメオンは、過去、現在と、神の民の慰めを祈り続けました。そして神様から約束を受け、救い主を見抜き、そしてその眼は、未来にまで開かれます。

ヨセフとマリアは、今までに起こったことと併せて、びっくりしてこの様子を見ていました。

ここで、受難の告知です。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――」

生まれて40日の赤ちゃんです。その子について、ご覧なさい。と語りかけるシメオンでした。あまりにも不思議です。そうです。シメオンは、神殿に捧げられる子羊たちと、赤ちゃんイエス様を見比べていました。人が次々に携え、宥めの供え物としてきた何千、何万という捧げもの。しかしここに、神様から捧げられた人のためのメシア救い主、キリストがいらっしゃる。そして彼は十字架の贖いへと進まれる。反対を受けるしるしとなり、多くの人の心にある思いが表わされるため、祭司長、律法学者たちの敵意があらわになり、神不在の宗教が明らかになり、律法を守る人としての限界が明らかにされ、神のひとり子を信じる信仰によって人は義とされるというメッセージが、書き出されるのです。

またアンナという女性も、神殿を離れず、夜も昼も、神に仕え、祈っていました。彼女も、この幼子によってエルサレムの救いをもたらして下さる神様の良き業について、神様をあがめ、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々に、この幼子のことを話しました。

今日私たちは、クリスマスを迎える者の心のあり方を学びました。

マリアのように素直に、神様の介入を受け入れる心。み告げを受けて喜んですぐに歩きだす羊飼いたちの素朴な信仰。そして、御民と世界の慰められることをあくまで祈り続けるシメオンの熱心さ。エルサレムの救いを待ち望み、夜も昼も神殿を離れずに使えていたアンナ。クリスマスは、これらの人たちによって、祝われました。
クリスマスはすでに私たちの所に来ていますが、まだたくさんの人には届いていません。この信仰によるクリスマスによって、この世界が慰められ、赤ちゃんのイエス様、宥めの供え物として与えられた、世の罪を取り除く神の子羊を見よと、私たちも、祈っていきたいのです。世界の福音かを見るまでは、私は決してこの世を去ることが出来ませんと熱く祈りつつ。

この幼子を世の造り主、世の贖い主と知って、感謝の礼拝をささげるシメオンとアンナの皆様に、とこしえに限りなく、神様の祝福がありますように。

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