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説教原稿

2008年12月14日
「この方が神を示された」
ヨハネによる福音書 1章1-18節

いよいよクリスマスも、来週に、近づいてまいりました。

今日は、ヨハネによる福音書の書き始めの部分が開かれています。

ヨハネは、キリストに最も愛された弟子です。ヨハネの書いた手紙には、こう書いてあります。
[新共同訳] ヨハネの手紙一
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――

私たちはこの耳でじかに聞き、この目で見ました。よく見ました。手で触れさえしました。それがイエス様です。神様は、私たちの所に、確かに来て下さいました。イエス・キリストは、命の言葉ですと、ヨハネは語っています。

神様は私たちとともにいらっしゃる、インマヌエルの神。これがクリスマスのメッセージですが、神様がともにいらっしゃるということは、実はクリスマスに始まったことではありません。この世の中の初めから、神様は、人を愛し、世を作り、人を作って下さいました。

ヨハネ1章1節には、「はじめに言があった。」とあります。これは、創世記の書き出しを思い出させます。「始めに神は、天地を創造された。」この書き出しにまでさかのぼって、ヨハネは書き始めます。イエス・キリストが、受肉される前のことです。ヨハネは、イエス・キリストという方は、世の初めからおられた方であることを指し示しています。

それではヨハネは、なぜイエス様のことを意味深長に「ことば」と言い表すのでしょうか。イエス様と言われるのは確かにマリアから生まれて受肉なさってからのことです。それでは受肉前のイエス様は、どのようなお姿でいらっしゃったのか。神様であられるイエス・キリストが、父なる神様、聖霊なる神様と共に、どのようなお姿をしていらっしゃったのか。ヨハネは考えました。

創世記のはじめ、そこにおられたのは父なる神という点においては異論がないでしょう。ちなみに「神」というヘブライ語の言葉は、エロヒームと言いますが、これは、複数形の言葉です。ここに、三つにして一つなる神様のお姿が、現れています。神の霊が、水の上を動いていたとあります。この動作は、母鳥が卵に、雛に、新鮮な空気を送るために、翼により舞いかけている動作をあらわすともいわれます。聖霊の働きを思わせます。そこに神様の雷鳴のような声が轟きます。「光あれ。」こうして光があった。
ここにことばが登場します。ヘブライ語では、言葉のことをダーバールと言いますが、このダーバールという言葉は、文字通り「言葉」という意味とは別に、「事柄」という意味も持ちます。まさに天地創造のこの場所で、神の「ことば」を放った時、光と、作られたすべての世界という「事柄」に反映しているのを見ます。ですから、この神の「ことば」は、本質的に、私たちの言葉とは異なります。神様の言葉は、神様の御心を余すところなく実現する、神様の主体そのものなのです。ですから聖書は、言の葉と書かずに、言の一字をもって書き記しています。

福音書を記したヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ということにより、まさに天地創造の現場で働かれる三位一体の神様のこのお姿に、思いをはせているのです。そしてこのことは、聖書の著者である聖霊なる神ご自身が意図されたことでありました。

はじめに言葉があった。この言葉を、私たちは、初めに、受肉前のキリストがいらっしゃったと読むことができます。
ことば、すなわち受肉前のキリストは、神と共にあった。「共にあった」とは、そばにいたとも取れますし、もっと突っ込めば、互いに互いのために顔をと顔を合わせて向き合って存在しておられたと理解することもできます。この神様のハーモニーというものを私たちはイメージしたいと思います。
そして、ことば、すなわち受肉前のキリストは、神であったと記しています。侵されることのない、打ち破られることのない、神様の相働きつつお一人であるという三位一体のご性質が記されています。

このことばは初めに神と共にあった。初めから、父、御子、御霊の神は存在しておられた。父なる神だけが神であり、他はのちに創造されたもの、そのような当時の考え方に対する聖書の宣言がここにあります。イエス様は、創造の初めからおられ、神様と本質的に一つであり、不可分の存在であるということです。

そして、万物は言によってなった。すなわち、ことばなるキリストによってなったということです。三位一体の神様の不可分の働きですが、先ほどにも触れましたように、創世記において、神様のことば、ことばが一つ一つの被造物を作り上げたということで、ことばは、創造に対して、直接的な働きをなさったということが分かります。
「成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。」
キリストによってすべては作られ、まさに彼によってすべては創造されたと宣言されています。

 そして、このキリストのうちに命があった。命あるものだから命を作り出すことができます。この命は、与えることのできる命とも理解できるかもしれません。私たちもまた命をもっていると思いますが、この命は、私たちが作り出したものではありません。私たちは、内に命を頂いています。お預かりしているとも理解できるかもしれません。しかし、キリストは、命を作り、与え、無から創造するお方です。なぜなら、この方のうちに、誰にも作られない、初めからあった命が充ち溢れていたからです。そしてこの躍動する命こそが、私たちすべての人間の光であると、聖書は語っています。この命とは光。他に光はない。なぜなら始めのいのちは、神の命だけだったから。このことが9章に書いてあります、「まことの光」という意味でしょう。命は人間を照らす光。光は、可視光線と言いますが、私たちに見る力を与えます。一方暗闇は、私たちに見る力を与えません。光はいのちを育みます。暗闇はいのちを滅ぼします。私たちは神の光によって命を得ます。ただ神によって物事を判断する力、見る力を授かります。暗闇は、私たちを導くことが出来ません。

光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。もしくは、闇は光に打ち勝たなかった。太陽が昇れば、世界は光の国に一変します。もはや暗かったこともすっかり忘れ、世界は七色の世界になります。寒さに凍えていた縮こまっていた体を伸ばし、命を謳歌することができます。これが神様のなさることです。ここでは、暗闇の、サタンの諸勢力との戦いが暗示されています。光のキリストが、命のキリストが、暗闇の力を打ち破り、十字架の贖いによって、人を縛りつける死の効力から人を解放して自由にした。そのキリストが生まれたということ。光が現れたという喜び。これがクリスマスのキャンドルに意味されています。

ここに遣わされたバプテスマのヨハネが登場します。彼は、イエス様より先にエリサベツから生まれました。しかしキリストは、世界の初めからおられました。ヨハネは、このキリストの光を証しするために、イエス様に並んで生まれました。彼は、イエスがキリストであるということの、証し人です。世界の初めから御業をなしておられたことばなる神が、イエス・キリストとして来て下さった。だからイエス様をキリストとして信じて下さいと、彼は語りました。

中学・高校の歴史の教科書の中で、昔の偉人たちに並んで、人間イエス様も紹介されています。しかし、聖書は、そのイエスという方が、ことばなるキリストである、神そのものであると語っています。
イエス・キリストは光であって、まことの光だと書いてあります。光にまこととか、偽物とか、あるでしょうか。今日の太陽の光は燦々とあたたかいから本物だとか、今日は陰っているから偽物だとか、言うでしょうか。 この「まことの」という意味は、本物のという意味の他、「頼ることができる」という意味も持ちます。たとえばよく高級のブランドのバッグの話ですが、よく似せたまがいものがありますね。そっくりに似せていますが、しかし偽物です。良い皮を使っていませんし、縫製が雑です。本当に良い材料を使って手間暇かけて作った「本物」とは、似て非なるものです。偽物は、すぐに色あせたり、糸がほどけてくるかも知りません。バッグの場合には、たいてい買う方も織り込み済みで、いいわ安ければと買いますが、これが食品の偽装であったり、粉ミルクの偽装(メラミン入り)だったりすれば、命にかかわることです。本物は、信頼することができます。光にも、色々あるんだろうかと思います。人を導く光明、人を導く真理は、色々あります。しかし、本当の光はここにあります。世界の創造者のもとに光はあります。イエス・キリストのうちに命があり、このキリストのうちにある命こそが人の本当の光ですよと聖書は語ります。

ですから私たちは皆、十字架からキリストのいのちを受け取って光を受けるのですね。この方のうちにしか、人の光はない。人にとっての光明、真に頼れるものはないというのが聖書の教えです。

その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らす、そして今も、照らし続けています。世に来られたイエス・キリストの光です。

ことばは世にあった。世はことばなるキリストによってなったが、世はことばを、キリスト・イエスを認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなくというのは、いっさいの人間からの試みということでしょう。人が神様に受け入れられるためには、人の行いによってではなく、神によってである。神の子は、キリストを信じる信仰によって神によって生まれさせられるということです。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

父のひとり子としてのイエス・キリストは、私たちの間に宿り、住み、同じ空気を吸い、生活なさいました。このイエス・キリストにこそ、完全な、欠けるところのない恵みと真理があると、聖書は語っています。人の律法主義に比較して読みたいものです。
ただ十字架。その救い主、創造主なるキリストですと、イエス様を信じる時、私たちは、完全な、欠けるところのない恵みと真理を手に入れることができます。

バプテスマのヨハネは、イエス様のことを、彼は私より後に生まれたが、私より先におられる方であり、私にはるかにまさる方であると言いましたが、ヨハネは、イエス様のことをキリストと信じたのでした。

律法もまた神様の恵みでした。しかし、完全な、欠けるところのない恵みと真理は、イエス・キリストによってもたらされました。
17節になって初めて、イエス・キリストという名前が現れます。創造者の恵みは、唯一つ、このお名前によって、私たちにもたらされました。ほかの名前ではありません。

いまだかつて、誰も神様を見た者はいません。しかし、このイエス・キリストこそが本当の光として、私たちに神様のお姿を知らせて下さるために、2000年前に、赤ちゃんとして生まれ、30年にわたって、お姿をあらわし続けて下さったのです。この方こそ、まことの光、私たちのための光。この光は、イエスキリストのうちに輝く命そのものです。
私たちは、見失わないで、この光を追い続けて行こうではありませんか。当方の博士たちが一心に見つめてイエス様を見つけた光。羊飼いたちが見た光。彼らはイエス様のもとへと歩いていきました。まことの光は一つだけ。イエスキリストを指し示す命の光ひとつだけなのですから。この一本道をたどり、この一本道を伝えたい。証し人となりたい。そのように思うのです。

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