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説教原稿

2008年11月23日
「もう7年間、うちで働いてもらわねば」
創世記 29章13-28節

 新しい週のはじめ、礼拝の場に導かれ、感謝です。
  「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)とおっしゃった主イエス・キリストを見つめ歩く私たちです。
  私たちには、道であるイエス様がずっとともにいて下さいます。ですから私たちは道に迷い、疲れることがありません。父なる神のもとへ、神様の都に、ひたすら進むことができます。
  私たちには、真理であるイエス様がずっとともにいて下さいます。ですから私たちは、何が真実かと、人生の中で探し求める必要がありません。十字架についてまで私たちを愛して下さったイエスキリストにある神の愛。その贖い。これが神様の真理であり、ご真実です。
  私たちには、命であるイエス様がずっと伴って下さいます。ですから、私たちは、この地上の命が終わるときにも、永遠の命の中に、守られています。
  「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:26・新改訳)

 人生の道筋がはっきりと描かれ与えられ、真理、命がキリストにあって私たちに与えられています。私たちは、「キリスト馬鹿」になって、キリストが歩まれた神様への深い信仰と、自己犠牲の愛に生きたいと、願います。

 とはいえ、正しさはキリストにあり、私たちは義なるキリストを内に宿していますが、私たちはいまだ弱い罪の性質をもっています。時に罪を犯し、人間関係を混乱させることがあります。しかしそれでも神様は私たちを赦し、強め、立ちあがらせて下さいます。
  「七転び八起き」といいます。「仏の顔も三度まで」といいます。しかしキリストの愛は、神様の愛は、7を70倍するまで、すなわち無尽蔵に。この圧倒的な神の愛を前にして、私たちは、神様の愛に降参して、罪を悔い、私たちを養育して下さる方と共に、きよめの道のりを徐々に歩いていきます。

 母と結託して、父を、兄をだまし、家督を奪ったヤコブでした。家の中には殺意の風が吹き込みました。たまらないということで、ヤコブは遠い遠いメソポタミア、母リベカの故郷に、嫁取りで旅を始めました。

 途中、わびしく石の枕で寝るヤコブに、主は現れて下さいました。励まされ、神様と共に歩むヤコブでした。しかし彼の訓練は、まだまだ続きます。

 さあ、いよいよ到着です。ヤコブがふと見ると、野原に井戸がありました。その昔、アブラハムのしもべが井戸でリベカにあったように。その同じ町で。そして彼は後の妻、ラケルに出会います。

 その井戸は、石でふたがしてありました。水の少ない土地です。水は非常に貴重なもの。砂が入ったり、蒸発するのを防ぎ、また、自分の所有であり、許可なしには飲ませないという姿勢が井戸のふたの石から伺えます。

 ヤコブは、「皆さんはどちらの方ですか」と尋ねますと、彼らはハランのものですと、答えました。いよいよ長い旅路も目的地に。ヤコブはドキドキしながら、「ではナホルの息子ラバンを知っていますか」と尋ねますと、「元気です。もうすぐ、娘のラケルも羊の群れを連れてやってきます」というのです。

 ここでアブラハムのしもべなら、ひれ伏して感謝するところかもしれません。同じハランの井戸で。ヤコブは孤独な旅が報われたのと、今神様がお励ましの通り、自分の旅を成功させて下さり、目の前に親せきの女性がいて、がぜん元気が出るヤコブでした。
  彼は、男らしいところを見せようとして、井戸の石のふたを転がすと、ラケルの連れてきた羊たちに水をやり始めました。母リベカの子供ということでしょうか。こまめな男です。そうしながら、ヤコブはラケルのことがすっかり気に入ってしまったのか、挨拶の口づけをかわし、声を上げて泣いたと、あります。

 なんておかしな人だろうと、目を丸くするラケルの前で、やっとヤコブは、自分の母リベカのこと、そしてあなたの父はわたしの母のお兄さんであること、これらを話しました。ラケルは思わぬ親戚の訪問に、走って父ラバンのもとに行き、伝えました。

 おじラバンのもとに導かれ、ほっとしたのも手伝って、事の次第をすべて話すヤコブでありました。しかしこれが新たな苦労の始まりになるとは、ヤコブはつゆも予想しなかったことでしょう。
  ラバンは、「お前は、本当に私の骨肉のものだ」と言いました。血のつながったものとして受け入れ、嫁取りのことも、心配するな、まあとりあえずはすぐには帰りづらいだろう、嫁を取ったからと言ってエサウのことが心配だろう、しばらくここにいなさいということになったのでしょう、1か月、ヤコブはおじさんのところで働きながら過ごしました。
  働きも認められ、何か報酬を求めなさいというラバンに、ヤコブは、いよいよ、ラケルをめとらせて下さいと願います。ラケルには、姉がいて、レアといいました。レアは「優しい目をしていた」とありますが、弱い目とも理解でき、目の病気を持っていたと理解することが出来るかも知れません。ヤコブは、見目麗しい妹のラケルを希望しました。そして彼女をめとることが出来たら、7年間働きますと言いました。
  自分の気に入った一目ぼれのラケルのために、ヤコブは一生懸命働きました。ヤコブはラケルを本当に愛していましたので、7年の長さも、ほんの数日と思われたと書いてあります。

 さあ7年が過ぎました。祝宴をしました。7年の苦労も報われ大満足のヤコブでした。しかし・・・・、ラバンは夜になると、姉レアをヤコブの所に連れていき、共に寝かせたようです。
  朝になってみると、ラケルだと思っていた妻は、姉のレアでした。だまされた!あの愛したラケルのために7年も数日の思いで過ごしてきたのに。何というひどいことを。最初からだますつもりだったのか…ヤコブはラバンに食って掛かりました。
  「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」

 ラバンはどう答えたのでしょうか。
  「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」

 「うちでは姉より先に妹は嫁がせない。」うーん、上手です。それならそうと最初に言えばいいのに。これは完全ないいわけです。しかしラバンは、お前の大好きなラケルは与えるよ、婚礼の祝いが終わり、1週間後に結婚させてあげるからそのかわりもう7年働きなさいと言い出します。
  引くに引けないヤコブ。まんまと騙されるヤコブ。おじラバン、なかなかのしたたか者です。母リベカも差し金をしてヤコブに家督を取らせるあたり、兄と似たところありです。

 ああかわいそうなヤコブ。いえいえ、これこそが身から出たさびというものでしょう。おじラバンはすべてヤコブの弱みを握っています。ヤコブがだまして追われてここにいるというのも知っています。ラケルに惚れ込んでいるというのも、知っています。それならばおれの手助けをしてくれてもいいではないか。ヤコブは自分のすねにも傷がありますから何も言えません。騙し、騙される。どこか、イエス様のおっしゃった、「剣を取るものは剣によって滅びる(マタイ26:52)というお言葉を思い出します。

 そうです。こうして二人の妻を持つことになり、二人の妻は、特に望まれないで一緒になった姉レアは、ヤコブの気を引こうと、一生懸命に子を宿そうとします。そしてレアとラケル、それぞれの女奴隷も加わらせて、子作り競争のような様相を呈してまいります。何でこんなことになってしまうのか。ラケルかわいでレアを放っておいたヤコブでしたが、子供を産ませたのは姉レアによってでした。神様のご計画とは測りがたいものがあります。
  ラケルは自分に子供が生まれないのを見ると、女奴隷をつれてきます。そうこうしているうちに、レアも自分に生まれなくなり女奴隷を連れてきて・・、そうこうしているうちにまたレアに3人。そしてとうとうラケル本人も身ごもって…、ハランの地で、あれよあれよという間に11人も子供が生まれました。レアとの間に、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ディナ。ラケルの侍女ビルハからはダンとナフタリ。レアの侍女ジルパからはガドとアシェル。そしてラケルからはヨセフ。そして後にベニヤミンで12人。イスラエルの12部族の始まりです。そしてこの兄弟たちの中からヨセフをめぐるエジプト物語が進んでいきます。
  神様は、ヤコブの愛したラケルからダビデ、キリストに至る系図の人を選ばずに、姉レアから選ばれました。それがユダです。そしてレアの子からは、後に祭司職を受け持つレビも出ました。

 神様は、人の色々な思惑を超えて働かれるお方。超然としてご自身の義と愛の業をお進めになるお方です。聖書は、それらの出来事を一つ一つ描いています。

 だますもの、騙されるもの、騙したものがだまされる。こうした人の不完全さからくるごちゃごちゃしたところ。しかし神様は、ぐちゃぐちゃになってからんだ糸の玉のような状態からも、ご自身の正しい御業を押し進められます。

 30章に入っておりますが、ついにヤコブは、おじラバンのもとから独立し、自分の故郷カナンに帰りたいと言い出します。
  「わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです。」

 ラバンは自分がしていた占いで、ヤコブのおかげて主から祝福を頂いていることを知っていました。占いとは奇妙です。あとでまたこの占いの道具をめぐってひと騒ぎが起こります。

 それでは去り際に、何か報酬をあげようということになりました。しかしヤコブは、ラケルのことでだまされていることもあり、警戒しています。いいえ要りませんと言いますが、ヤコブは一つの提案をしました。それは、ぶちとまだらの羊、黒みのかかった羊、すなわちあまり出てこない全体の中でごく一部分の特徴的な見た目の羊を下さいと願いました。これは控えめな提案です。

 ラバンはよろしいと言いますが、ヤコブを信用せず、それらの羊を自分で念入りにとりわけて、ヤコブに渡すかと思えば、ラバンの息子たちがヤコブに代わって管理をすることとさせました。まかり間違ってごまかしたり、ちょろまかしたりできないようにとの周到な計画です。さらに、ラバンの羊の群れと、ヤコブの群れとの間に歩いて3日かかるほどの距離を持たせ、まかり間違ってもお互いの間を行き来しないように、ちょろまかしたり欺いたりされないようにと心がけました。さすが騙すものだけあって、慎重です。お互いの腹の探り合いが始まりました。ヤコブは今度は一計を案じ、当時考えられていた産み分けの方法を用いて、水おけの中に縞やぶちやまだらのものを羊たちに見せて、そのような模様の羊の子供を得ることを試みました。強い羊にはその模様を見せ、強いまだらの子を得て、弱い羊には模様を見せず、弱い、模様のない羊が生まれました。こうして、強い羊の子はヤコブのものとなり、弱い羊の子はラバンのものとなったと書かれています。

 まんまと今までの仕返しをしたヤコブでありました。
  しかしまだまだラバンとの確執は、続きます。

 だますものがだまされる。今度はラバンがしっぺ返しを食らうことになりました。思えば人の歩みは、騙し、騙され、奪い、奪われる歩みです。人の、自己中心の本性のなせるわざです。
  しかし神様は、与え、赦す神。私たちは、自分の価値基準を考える時に、古い自我生命の意図というものを常に感じながら、生きております。しかし常にキリストがわがうちに住まい、神の命に生かして下さいますように、道であり、真理であり、命であるイエス様につながらせていただき、実を実らせていただきたいと切に願います。

1ヨハネ
4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

 

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