説教原稿
2008年11月22日 (召天者記念礼拝)
「キリストを信じる意味」
ヨハネによる福音書 14章、ヨハネの黙示録 21章
本日は、○○さんの召天者記念礼拝です。
かつて教会付属の幼児園の子供たちのために、ご夫妻で手間暇かけて広い面積の畑を耕して、さつまいもを植えて下さり、毎年毎年大歓声のもと、ご自宅でいも掘りをさせていただいたこと、伺っております。
天に先に帰られました○○さんが、聞き続けられました聖書の福音、そしてお母様の○○さんが、今も大切にお聞きになっておられます、聖書の福音を、今日はひと時お時間をいただきまして、語らせていただきたいと願っております。
神戸の方で地震が起こりまして、13年が経ち、もうすぐ1月で14年を迎えようとしております。関東でも大地震が起こるのではないかと言われ続けておりますが、昨今、兵庫県の知事の方がチャンスとかおっしゃり、物議をかもしたり、ということがありました。
地震のような災害といいますと、予報技術の進んだ現在とは言え、起こる数秒前にならないと、全く分からないほど、突然やってくるものであります。都会では、交通網が寸断された時のために、オフィスから歩いてどうやって家に帰るのか道筋の検討をということが言われております。家族がそれぞれに違う所で活動しております。子どもは学校へ。お父さんとお母さんはそれぞれ違う職場か、お母さんは家の中に、おじいちゃんとおばあちゃんは、お友達の家に碁を指しに行ったり、デイ・サービスにいったりと、様々です。
そんなとき、ぐらっときたら。そしてもしも家が崩壊してしまった、周辺が一帯火事になり、携帯電話もつながらない…、こんなとき、日頃から、「緊急時にはどこどこの避難所で、落ち合おう」と、話し合っておくことが肝心ですね。そうでないと、家族がお互いに出先で別れ別れになって、互いにあちらこちらと探していましたら、大変な労力がいることになりますし、安否を確認するのに時間がかかり、それはもう大変に心配することになるわけです。「あーやっと見つかった、本当に心配したんだよ、生きているやら本当に心配だった」と、ヘタヘタと座り込んでしまう羽目になります。
私たちは、二人の子供たちが保育所ですし、妻も時々保育所でお手伝いをしておりますので、これらの3人は、はぐれることはないかと思います。私が保育所のグラウンドまでたどり着けるかどうかという所です。
不測の事態に備えて、別れ別れにならないように、突如の災害のため、私たちはあれこれと、対策を練ります。それでも大地震というようなものは、たいていの人はまあ、経験せずに過ぎることが出来るのではないでしょうか。それでもまあ、「備えあれば憂いなし」です。しかし今日、私は、聖書から、「死」に対して必要な備えというものを語らせていただきたいのです。縁起でもないと思われましたらお許しいただきたいのですが、このような折でございます。必ず訪れるもの、何人たりとも例外なく訪れる、招かれざる客であります。
しかし教会には、「死」に対する特効薬があります。「死」を解毒するための備えがあります。それが「福音」、聖書の良き知らせです。
地震の時、家族がバラバラにならないように、避難場所を申し合わせるというお話をいたしました。今日は、同じように、「死」という出来事が起こってもなお、ご家族が集まることができる場所、「天国」へのガイドマップをご紹介したいと願っております。○○さんがいまおられ、そしていも畑を耕し、さあおかえりと、皆様のお越しを近からずゆっくりといずれの日にか待っておられる、そのうららかな天国のお話をさせていただきたいと、願っております。
プログラムに聖書の個所を印刷させていただきました。まず目に飛び込んできますのが、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」とあります。「私をも信じなさい。」この「私」とは、イエス様のことです。死の床にあっても、心騒がせるな。つまり、心を騒がせなくてもよい。心たいらでありなさいとおっしゃるイエス様です。死の床で平静であるということ。今を元気に生き抜く私たちには、どうも縁のないようなことと思われます。そのような時のことを今心配しても仕方のないことのように、思われます。これもまた、「備えあれば憂いなし」の類として読み進めましょう。
「心騒がせず、神を信じ、キリストを信じなさい。」
信じるということは、そのような死の床のさ中にあっても、神様は、イエス様は、助け出して下さるということでしょう。そういう自信がなければ、死の床にあるものも、救い出す力がなければ、カラ約束で、そういう状況にある人に対して語りかけるような、いい加減な方では、イエス様はありません。
それではなぜ、死の床にあっても、信頼できるというのでしょうか。それは次の節、2節から4節に書いてあります。
「私の父の家には住むところがたくさんある」3節「行ってあなたがたのために場所を(すなわち住まいを)用意するから」「用意して、迎えに来てあげるから」そして、4節「道筋」について語られる…というわけです。
思えば、死の床にある不安といいますのは、何が不安かといいましたら、次にどこに行くかが分からない不安であると言えましょう。何事も、私たちは、新しい、見知らぬ所に行くという時には、不安に駆られるものです。見ず知らずの人、言葉の通わぬ人、それも一人ぼっちで。これは不安です。そこがいい所か、悪いところか。親切な人がいるか、自分を攻撃する人がいるか。本当に手探りの旅のようなものです。しかし地上のどこへ行くというよりも、死の旅路というものは、はるかに未知のものであります。ですから、私たちは、人を死に送り出すとき、悲しみでいっぱいになるのです。また会えるかどうか分からない。どこで逢ったらいいか、分からない、分からないことだらけです。
イエス様は、このような人の不確かさの中に、もやのかかった死後の事柄の中に、明確に実線を書きこまれました。太い太い、しっかりとした、目に見える架け橋(道筋)と、天の都(用意された場所・住まい)を見せて下さいました。
イエス様は先に行ってその場所を用意して、帰ってきて、迎え入れて下さると約束して下さいました。
しかし弟子たちは、イエス様が出かけて行って用意して戻ってくると言われても、余りに見当のつかないお話でしたので、いったいどういうことなのか、天の住まいにといっても、どういう風に行ったらよろしいのですかとその道案内をイエス様に尋ねるのでした。
その後の言葉が6節の有名なこの言葉です。
「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
道といいますと、人が進む平らにされた地面、それがまさしく道でありますが、イエス様は、「私が道である」とおっしゃいました。そしてそれに付け加えて「私が真理であり命である」ともおっしゃいました。つまり、イエス様を知り、イエス様という方をとらえ、信頼する時に、天の道が開かれる、真理も命も、自分のものとなるという意味であります。
そしてイエス・キリストこそ、天の父、すなわち神のもとに至る道であるというのです。
どうしてイエス・キリストという人は、そこまで自信を持って自分を「道・真理・命」とまで言い切ることが出来るのでしょうか。
間もなくクリスマスがやってまいります。キリストは、処女マリヤから生まれた、神がかりの、神の子、神ご自身と聖書は語っています。人の間に住まわれた神ご自身、神が人として、人の世界に生まれてこられたと、聖書は語ります。それでは何のために父なる神様は、そのひとり子イエスさまをこの人間の世界に送られたのでしょうか。それが、天と地との間に道を築くため、だったのです。イエス様は、世界で一番最初の、神様からのクリスマスプレゼントでした。それは、父なる神が、私たちとの間に、道を築くためでありました。
しかしその道はどのように築かれたかといいましたら、イエス・キリストの生涯の一番最後を見る必要があります。それはすなわち、十字架です。罪汚れなき、神様のもとから送られた神のひとり子が、死刑の手段である十字架にかからなければならなかったのは、なぜでしょうか。ここに、神様からのクリスマス・プレゼントであるゆえんがあります。
イエス様は、天と地との間に道を築くため、そもそもどうして天と地との間にあった道が壊されてしまったのかという問題を解決する必要がありました。
分厚い聖書の書き出しは、創世記というところですが、これは「天地創造」から始まっています。世界の初めは、神様と人が平和に暮らすひとつの世界でした。ですからそこには分裂がなく、死もなく、神と人とを互いを結ぶ道などまったく必要のない一つの世界でした。しかし、人は、神様の言いつけを破り、いわゆる「禁断の木の実」を食べてしまいます。それ以来、人の生きる世界は神様から遠ざかり、神様のお心を探りながら神様のお声を聞きながら歩くというよりも、人間は、自分の意思に従って生きるものとなりました。人は自分から神様の「エデンの園」にいられないようになり、園から追い出されてしまいました。こうして人の間にいさかいが起こり、戦い・争いがおこりました。「エデンの園」には「いのちの木」という木があり、その実を食べれば生き続けることができたのですが、園から追放されましたので、生き続けることが出来なくなり、結局「死」が人間の世界に入り込みました。
この人間の不従順の罪を贖うために、イエス様が十字架について下さったのです。イエス様がご自分のいのちを進んで罪びとである人類のために捧げて下さり、墓に入り、そして3日目に聖書にありますように復活なさいましたので、文字通り、イエス様が天国への「道」となられ、「真理であり命」となられたのです。
お手元の聖書の個所には、神が人とともに住み、共にいて、私たちの目の悲しみの涙をすっかりぬぐい取って下さることが、書いてあります。もはや死もなく、悲しみもなく、嘆きもなく、労苦もない。そんな安息の地、天国に至る道となって下さったのが、イエス様ご自身なのです。
神の天の都は、このイエス・キリストの愛と恵みの光がさんさんと輝くところです。もはや夜の暗さが消え果て、水晶のように輝く川が流れ、その豊かにたたえる水のほとりにはいのちの木があり、私たちは、命の実を食べ、いつまでも幸せに暮らすことが許されるのです。
いま、○○さんは、その都にいらっしゃいます。そして、ご家族の皆様がすべて、その麗しい都を目指して、やがて集まられるのを楽しみに待っておられます。そのための道筋は、神様からのクリスマス・プレゼントであるイエス・キリストをお受け取りになること、ただそれだけです。心の中にプレゼントであるイエス・キリストを、ありがとうございますと、お受けになるだけでよいのです。
皆様のご人生が、とこしえに末広がり祝福をお受けになりますようにと、ひとこと、お祈りさせていただきます。
「天の神様。私たちを天の都に招くため、クリスマスにプレゼントを下さったのですね。ありがとうございます。心の中で、感謝しつつ、そのプレゼントであるイエス様をお受けいたします。私のために、十字架にかかって下さり、ありがとうございました。これからとこしえに、私の道となり、命となり、真理となり、私を導いて下さい。イエス様のお名前によってお祈りいたします。 アーメン」
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