説教原稿
2008年11月16日
「ここは神の家、天の門」
創世記 28章11-12節
主のよみがえりの朝を迎えております。
主の十字架の御業のゆえに、心からハレルヤ、主の御名をあがめます。
今日は、私たちがクリスチャンであるということの意味を考えていきたいと思います。クリスチャンであるとはどういうことなのでしょうか。
第一に、クリスチャンであるということは、完璧な、誤りのない人間であるということではありません。
ヤコブは、父を騙し、兄を騙し、家督を盗み取るも、今は逃亡の身でした。母リベカは兄エサウの復讐を恐れて、ヤコブを遠くハランの地まで送ることにしました。嫁取りだけであれば、わざわざヤコブを送らなくとも、イサクと自分が出会った時のように、しもべを遣わしてできたことでしょう。しかしヤコブは過ちを犯し、怒りを買い、逃亡しなければなりませんでした。
ここに、私たち人間の大前提が描かれています。
すなわち、自分の犯した罪のため、祝福の所、神様の用意されたところにいられなくなり、泣く泣く寂しいところへ行かねばならないということです。
クリスチャンもまた、罪を犯します。神の民であっても、救いの契約の中に入れられているものでも、完璧な人は一人もいません。落ちぶれてしまう時があります。しかし人は、それだけの存在でしかありません。
ベエル・シェバからハランに近いパダン・アラムまで。600キロメートル以上の旅路です。
ベエル・シェバという地名は、「誓いの井戸」という意味がありますが、そこは、祖父アブラハムと、父イサクが、敵との井戸をめぐる戦いの中で、不思議と神様が導いてくださり、強い敵が自らここにやってきて、停戦を求めてきたという、神様が生きて働かれる場所、いわば信仰の一里塚のような場所でした。その聖なる所、神の守りの場所を離れ、家族から離れ、荒れ野を150里600キロメートル歩くヤコブは、どんな心境だったでしょうか。楽園を追われるアダムとエバのようだったでしょうか。
100キロほど進みました。もう幾日歩いたでしょうか。とあるところにつき、日も沈み、ヤコブは今日はここで休もうと、決めました。枕になるものを探そうと、あたりを見渡すと、ちょうどいい大きさの石が見つかりました。
夏目漱石という人がいましたが、石に枕し、流れに口すすぐという漢文から来ているそうですね。もっとも石で口をすすぐことはできないわけですから、言い間違ったのですが、野宿の旅の中で、人はしばしば石を枕にしたというのでしょうか。いえ、石しか枕にできないほどに、その旅は大変だったということを感じるのですね。ごつごつして、冷たくて、後ろ頭が痛くなってよく眠れたなぁと思います。しかしヤコブは旅の疲れもあって、ぐうぐうと寝てしまいました。お付きの人たちはいなかったのだろうか、取るものも取らずに出かけてきたのだろうかと、ふと思います。
野獣がオオーンと、叫ぶ中、火を焚いて寝ていたのでしょうか。寂しい、心細い旅です。
兄エサウが追いかけてくるかもしれない。不安な旅です。
するとヤコブは夢を見ていました。それが有名な「ヤコブの梯子」です。
「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」
不安な思いが天に届き、神様が自分を引き上げて下さったというのでしょうか。この階段に注目しますと、「天にまで達する階段が、地に向かって伸びており」とあります。地に向かって、天から階段は差しのばされていました。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説を思い出すようです。
不安にさいなまれる人のため、天から階段がのばされる。まさに神様のお姿です。人が罪を犯し、落ちぶれて、さまよい倒れる時、そこにあくまで手をさしのばして下さる神様のお姿。これがクリスチャンの生活です。
「先端が天に届く」バベルの塔を人は作ることが出来ませんでした。しかし神様のほうから、人の救いのため、地に向かって階段は伸ばされているのです。そうして、「神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」とあります。
面白いのは、今度は下から上に、「上ったり、下ったり」していたとあることです。
上から下へ、かけ橋がおろされると、今度は御使いたちが下から上へと、上りゆき、上から下へと下り降りていました。
これは私たちの祈りの姿ではないでしょうか。私たちの思いを汲み取り、願いを聞き入れ、そうして恵みを垂れて下さる神様のお姿ではないでしょうか。
神様は、荒野の中で思い悩み、どん底の生活をしているヤコブを見出し、天からの階段を打ち立て、願いを汲み取り、恵みを垂れて下さる。この恵みの神様は、今日も生きておられます。
イエス様の誕生の時、羊飼いたちが輝く光の中、天の軍勢の賛美を聞きました。羊飼いたちは野にまみれ汚れていて、手も洗えずパンを食べ、羊の番のせいで礼拝生活もままならず、見下されている存在でした。しかし神様は、それらの人たちに現れて下さった。寒い乏しい状況にあった彼らに光と賛美の歌声を届けて下さった。ここに、クリスマスの、イエス様にある神様の祝福があります。心が充ち溢れます。
ヤコブがそんな光り輝く光景をうっとりと夢の中で眺めていました。せめて夢の中だけでもずっと余韻に浸り、あたたかい、まばゆい、この幸せな雰囲気に身を置いていたい、そう思ったことでしょう。
すると主ご自身がヤコブの傍らに立っておっしゃいました。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。」
石の枕。この暗く、寂しく、トボトボと歩む荒涼としたこの場所。石の枕をして横たわるこの場所を私と私の子孫に与えて下さるとは。私の祖父、父をずっと導かれた主ご自身が私にお会い下さるとは。
ヨブ記の最後の所で語られたあの言葉が思い出されます。
ヨブ記
42:5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
祖父の信仰でなく、父の信仰でなく、私の信仰として。神様が私自身と直接お会いして下さった。
神の臨在の信仰に導かれたヤコブでした。
神様のお約束は続きます。
「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
確かに、アブラハムに、イサクに約束して下さった神様のお言葉です。それを、この私にも、人の祝福をかすめ取るような私にも語って下さる。とがめの言葉ではなくて、祝福の言葉をこの石の枕に寝る私に与えて下さる。
これが神様です。涙するところを祝福の所と変えて下さる神様です。
神様は過ぎ去っていかれました。ヤコブは夜半、眠りから覚め、言いました。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
こんなさびしい所、罪ゆえに落ちぶれたこの者にも。神様はこの時、この状況のうちに、ご自身をあらわして下さった。自分は一人ぼっちではなかった。まことに主がこの場所におられた。しかし私はそれに気付かなかった。彼はそう語りました。
「フットプリント」という詩を思い出します。
あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
神様は私を見捨てない、どんなときも私とともにいて下さる。アブラハム、ヤコブに与えた約束を今もなお、覚えていて下さる。これはヤコブにとって大きな気付きでした。
ヤコブは続けて言いました。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
私たちクリスチャンの生涯は、どこにいてもそこは主の家、そこは天につながる天の門です。
「イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。
その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
ヨハネ10:7,9
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
10:11
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、
羊もわたしを知っている。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。
わたしは羊のために命を捨てる。」
10:14-15
新約聖書では、イエス様が門となり、入口となり、祝福の緑の牧場へ導いて下さると語られています。そしてイエス様自身が、天から降られ、天の父のもとへと私たちを導く、「道であり、命であり、真理」であるお方であります。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14:6 とある通りです。
翌朝、ヤコブは起きて、枕にしていた石をとり、それを神様が現れて下さった喜びの記念碑としました。神様が現れて自分の信仰の一里塚を与えて下さった。これは彼の信仰生涯の中では光り輝く出来事でした。
涙でぬらした固い固い冷たい石の枕が、神様の恵みを覚えて喜びの記念の石となる。
まさに詩篇がこう語るように、ヤコブの出来事は、私たちにも、与えられます。
わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。
主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 詩篇30:3-6
私たちはどこに行くにも、そこは神の家、天の門です。「神の国は、あなたがたのただ中にある」というお言葉をいただき、私たちは恵みを取り次ぐ「神の国大使館」の一員として、今週も喜び、神様のお守りを信じ、祝福を取り次ぐために歩んでいきたい、そう願うのです。
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