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説教原稿

2008年11月2日
「あなたの子孫によって祝福を得る」
創世記 26章1-5、15-31節

11月に入り、新しい週のはじめの日を迎えました。
あと4週間しますと、アドベントが始まります。そしてろうそくの灯が2本、3本、4本と増えると、待ちに待ったクリスマスです。
聖書の民の姿からいつも教わっております。しかし、いくら偉いアブラハム、イサク、ヤコブであろうと、やはり私たちと同じ一人の人間である、失敗の連続だと、学ぶのではないでしょうか。
聖書のはじめ、創世記からすでに、人の失敗の積み重ねと、人に対する神様の真実さ、誠実さが際立っています。
その神様を信じ続けていくこと。様々な迷いから吹っ切れて、失敗して転んでもまた立ちあがって、神様と共に歩きなおすこと、神様の方へ、方向転換し続けていくこと、これが聖書のメッセージです。

イエス様が私たちの所へ来て下さった。この神様のご姿勢は、聖書全巻に見られ、そして今日も神様はそのようにして私たちを待っていて下さるということができるのです。

先週は、イサクとリベカが二人の子エサウとヤコブをそれぞれに偏愛して、どうもおかしなことになってきたというお話でした。
祝福をそれまでに求める弟ヤコブの姿というのは、ひょっとしましたら学ぶべきところがあるかもしれません。それに引き換え、目の前の煮物に心取られて祝福を逃してしまう野人エサウの姿がありました。

アブラハムの家系、すなわち神の民の歩みでした。アブラハムも数々の失敗をしましたが、イサクを捧げる辺りでは、すっかり、神様に信頼することを学んでいました。

26章では、井戸を掘るイサクの姿が記されています。

その前に、父アブラハムの時代に起こったように、イサクの時にも、飢饉がおこりました。エジプトに逃れようか…そう思ったのでしょうか、神様からお声が掛かりました。
「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。
あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」

「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」、何度となく語られる神様の祝福のお約束です。
その都度その都度、これが約束だからしっかりしなさいと、語り続けて下さる神様のお声です。
創世記12章、知らない地へ出ていくアブラハムに語られた言葉でした。そこから始まってその子イサクにも。神様のこのお約束は、子々孫々語り継がれます。

そして私たちに至るまで、神様のお約束は、変わりません。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」1ペテロ2:9

私はクラシック音楽を時々聞きますが、聖書全巻を1曲の音楽にするならば、天地創造できらびやかに始まり、人の罪によって暗い曲が流れ、しかし神様はいつもご自分の民、アブラハムの末裔を用いてこの主題ともいえる音楽を奏でて下さるのです。
「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」

そしてイエス・キリストの誕生と共にもう一度高らかな調べが訪れます。一時の苦しみによって曲は暗くなります。十字架の死が訪れます。しかしよみがえり。暗き国の力は完全に打ち砕かれました。ペンテコステで聖霊が注がれ、教会は破竹の勢いで世界に広がり続けます。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」

教会と共に働かれる神様のお働きのすばらしさ。地上の諸国民は、文字通り、アブラハムの末裔によって祝福に入れられています。最終楽章のクライマックス、そしてフィナーレへ。それが今、私たちが置かれている場所なのではないでしょうか。

イサクはまた、父アブラハムのように、美しい妻リベカを妹と偽ります。それも父と同じゲラルの国においてです。
繰り返す人の弱さ。私たちにもそれがあります。しかし神様は、私たちをご自身の聖書神学校の中で鍛えて下さいます。

「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」、ゲラルの地、ペリシテ人の王アビメレクから、守りのお墨付きをもらいました。

こうしてイサクたちはこの地に住み、耕しました。すると、その年のうちに、百倍もの収穫を得ました。イサクは、主の祝福を受け、豊かになり、ますます富み栄えたと聖書は記しています。

人生七転び八起き。妻を妹と偽って、怒られて、守られて。種をまいて、豊かになって、家畜が増えて…、そうしてどうなったのでしょうか。「妬まれて」です。

「ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。 アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。」

砂漠の土地にあって井戸は、命の源です。多勢に無勢、土地の支配者ににらまれて。エジプトの中のユダヤ人を連想しますが、そうです。神の民は祝福を受けるのです。
イサクはどうしたか…、言われるがままに、ゲラルの谷間に居を移します。

「そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。」

言われるがままに谷に居を移せば、先回りしてそこにある井戸もまた、塞いであった。
何と手回しのいいことでしょうか。もう死んでしまえと言わんがばかりです。

島倉千代子、おちよさんの、「人生いろいろ」という歌が思い起こされます。
妬まれ、飛ばされ、いじめられ。さてさて、我らがイサクはどうするのでしょうか。

「イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。」
憤って戦いを吹っかけてもしかるべきでしょう。彼らの井戸を埋めてやってもしかるべきでしょう。しかしイサクは、黙々と、つぶされた井戸を、掘りなおします。そしてもう井戸と呼べなくなっていた井戸「跡」をよみがえらせて、父アブラハムがつけた井戸の名前をもう一度付けました。

黙々と、静かに。壊された壺に向き合って一枚一枚かけらをつなぎ合わせるように。悔しさもあったでしょう。意地もあったでしょう。生きていかねばとも思ったでしょう。イサクは、地道な人でした。寡黙でも、芯の強い人だったことでしょう。怒りに身を任せず、その時になすべきことをこつこつとやる人でした。

私が最近教えられますのが、聖書にもありますが、「人の怒りは神の義を実現しない」(ヤコブ1:20)ということです。正しい方はただお一人。そのお方に物事の判断は委ねるという姿勢ですね。自分がカッカして、感情に任せて行動しても、良くなることが少ないものです。むしろその時は飲み込んで、私はどうすればいいでしょうかと神様に祈り、その時出来ることをこつこつとするということが大切なのだと教えられます。

しかしイサクの困難は続きます。
「イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、
ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。」

 ゲラルの谷間で。新しいところで必死に生活の基盤を建てるイサクたち。苦労して掘りあてた井戸は、神様からの贈り物でした。しかし彼らが井戸を掘り当てるや、またまた無頼のゲラルの人たちがやってきて、「これは俺たちのものだ」と、分捕ります。
  それでは次をと、一生懸命掘ると、また人がやってきて、よこせという。粉をこねて、パンを焼いて、やっと食べようかと思うと、人に横取りされるような。いえ、井戸を掘るとは、それよりもはるかに大変なことです。
争いという名の井戸の次には「敵意」という井戸。まじめに一生懸命に生きようとしていても、争いに巻き込まれ、敵意の針のむしろに置かれる。こんなことが時として起こるものです。

さあ、イサクはどうしたでしょうか。堪忍袋の緒が切れるのでしょうか。
「イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。」

故のない言い争い、敵意の目と争いに引き込まれるとき、相手にしないのが一番いいようです。イサクはそこから移り、また一から井戸を掘ります。何という忍耐強い人でしょう。戦いを好まない平和主義者でしょう。しかし彼は、神様のお守りを得て、またそこにも新しい水脈、命の水を掘り当てます。敵も、もう口をあんぐりで、意地悪をする気も失せたようです。

キリスト者の平和主義を教えられます。自分が世界を支配するというような鼻息の荒さもなく、ただひたすら身をかわして祝福を得る。自分のプライドも意地も捨てて一つのことにこだわらず、次への導きに期待する。柔軟です。軽やかです。しかしその奥底には、神様への信頼と期待があったのです。

「イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。」

いつも目の前に主を置いていたイサクです。やっと小康を得た時、そこに神様を見出し、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」、神様がここに導いて下さったと感謝するイサクでした。

彼は続いて、父アブラハムが同じくこの土地の王アビメレクと井戸騒動になったときに和解の宣言をした(創世記21:22-34)ベエル・シェバに移りました。父アブラハムの亡き今、自分が族長となって自分の民を率いています。そして在りし日、父が掘って、敵ゲラルのアビメレクが和解を望んでやってきたこの井戸の前に、彼は来たのでしょうか。この変わらない井戸の前に立ち、彼はどんな心境だったのでしょうか。

時は過ぎ、状況は変わり、苦境に立たされても、いつまでも変わらないのは、天地創造の神のいつくしみ。

その夜、主は現れて彼に言いました。
24節「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす わが僕アブラハムのゆえに。」

私はあなたの父アブラハムの神。お父さんのことを思い起こせ。いつもすがり頼み、私は勝利を得させた。そして私、アブラハムの神は、変わらず今、イサクよ、お前とともにいるではないか。あなたを祝福し、祝福する。子孫を増やす。アブラハムのために。彼との約束のゆえに。

ここでまたあの繰り返される神様の主題的な調べが響いてきました。いつもいつも。変わらない神様の主題的な調べです。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす わが僕アブラハムのゆえに。」

今日、私たちにも、語られています。

「イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。」
感極まって。神様はともにいて下さる。私とともにいて下さる。父を守り父祖たちを守って下さった聖書の神、天地創造の神は、今も私たちとともにいて下さいます。

私たちの信仰生活の中にも、神様のこのような語りかけを感じる時があるのではないでしょうか。そして思わず「神様は生きていらっしゃる」と、膝をかがめて感謝の祈りをする時が、あるのではないでしょうか。

神様はここまで確かに導いて下さいます。ですから、心あせらず、憤らず、心煩わせず、先のことを思わず、静かに、日々なすことをこつこつと続けていればいいのではないでしょうか。

さて、ベエル・シェバ、この地に、父アブラハムに起こったことが、再現されました。敵の王アビメレクが、参謀、軍隊の長と共に、やってきました。

「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」

敵自ら、イサクを守って下さる神様の存在を認め、和解を願ってくるのです。自分の望む結果が、自ら転がり込んでくる。神様の御業です。
今まで散々いじめたくせに、どの顔下げて。こうは言わずに、やってきた彼らのため、祝宴を開きもてなし、共に食すイサクでありました。

「次の朝早く、互いに誓いを交わした後、イサクは彼らを送り出し、彼らは安らかに去って行った。 その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。 そこで、イサクはその井戸をシブア(誓い)と名付けた。そこで、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている。」

神の領分は神の領分、自分の領分は自分の領分。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ2:19

「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」マタイ6:34
今週も、生きて守って下さるアブラハム、イサクの神を信じて、愛と平和と信仰に行きたいと、心より願います。

明日はどんな日か 私は知らない
雨か嵐かくもりになるか
だけど私は心配しない
イエスがわたしをまもられるから
あすはどんな日か、わからないけど
あすを守られる イエスがおられる

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