説教原稿
2008年10月26日
「エサウは長子の権利を軽んじた」
創世記 25章19-34節
主のよみがえりの朝を迎えました。
クリスマスも近づいてまいりました。
世界中の教会で祝う二つのお祭り、それは、主のご降誕と、主のよみがえりです。
私たちは、いつも主イエスキリストに目を向けて、歩んでまいりましょう。
西暦2008年。2008年前に、何があって暦が紀元前、紀元に分かれているのでしょう。それは、イエス様のご降誕です。世界の暦は、イエス様が来られる前と、来られた後で、分かれています。
十字架上で、イエス様は、ご自分の命を差し出し、そして、私たち罪人のためにとりなし、赦す祈りを捧げて下さいました。
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカによる福音書23:34
私たちだったら、自分をなぶりものにして、命を奪う謀略をして、ついに死に至るという時、その敵のために祈ることができるでしょうか。赦すことができるでしょうか。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイ5:38-44
ああイエス様。罪に死んだ私たち人間のために来て下さった神の子のお姿をじっと見る者は、幸いです。
罪に窒息しそうな人類に。新鮮ないのちの風を送って下さる御子です。
自分の思いのまま。しかしそれが真実、真理であるとは限りません。しかしイエス様を見る時。私たちは真理を知ります。
こんなこともありました。
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」マタイによる福音書18:1-5
こんなこともありました。
「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」マタイ20:25-28
イエス様はいつも、立場の弱い者、罪を悔い改める罪びと、か弱い子供、人から見下されている人、これらの人々を見ていて下さいます。イエス様はいつも与え、励まし、愛して下さいます。
しかし、生まれつきの人間の性質というものは、そうではありません。愛するよりも愛されること、与えることよりも受けること、これらを願うのです。
聖書には、こう書いてあります。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」 ヤコブの手紙4:1 -3
私は、どうして世の中に悪や戦争がはびこるのか、19歳の時、若い義憤心で世の中を見まわしていました。しかし聖書は、あなたの心の中をまず点検してみなさいと私に迫りました。自分の心の中に、隣人を押しのけ、自己中心、傍若無人な態度がありませんか、そういう心が戦い、争い、殺人を生むのですよと聖書は私に教えました。
だからと言ってどうやって私は悟りを開けばいいのか。無私無欲な存在に生まれ変わることができるのか。「赤信号、みんなで渡るしかないではないか」そう思いつつも、私は、イエス様という方、神様ご自身に出会うことができたのです。
私の歩みは常に発展途上で、浮いたり沈んだりですが、今は、私を愛して下さるイエス様をじっと見つめ、イエス様も私の手を引いて歩いて下さいますから、私は、感謝の気持ちでいっぱいです。
今日は創世記25章が開かれています。
人が人を押しのける。奪う、反目する。こんな人間絵図が描かれているこの25章です。
アブラハムは、妻サラを失った後、後添えのケトラをめとり、新たに6人の子を授かります。まさに彼は多くの国民の父となりました。
多くの子を持ったアブラハムでしたが、彼はその全財産を、契約の息子イサクに与えました。ケトラとの子供たちには贈り物を与え、アブラハムは自分がまだ生きている間に、ケトラとの子供たちを東の方、ケデム地方に移住させ、息子イサクから離したとあります。財産をめぐって、骨肉の争いにならないように、彼は生きている時から警戒し、策を練っていました。人間の姿がここに表れています。
こうしてアブラハムは175年の生涯の幕を閉じます。
ここで感動的なのは、追い出されたイシュマエルがイサクと共に仲良くサラと同じ墓に父アブラハムを葬っていることです。
そして聖書は、そのイシュマエルの系図に目を向けます。彼もまた137年の生涯を閉じますが、その子孫について、気になる一節があります。
「イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。」18節
12人の息子たち。それぞれ12の部族の首長となりました。イサクの子ヤコブの子たちを思わせる12人の子たちですが、その子たちは、たがいに敵対しつつ生活していたとのことです。
近親ほど、関係が難しいということでしょうか。人間の姿を見るような思いです。
第三に、イサクとリベカの子供のことです。
イサクはなかなか妻に子供が与えられず、神様に祈ります。そして妻リベカのおなかの中に双子が与えられました。しかしこの双子もまた、おなかの中にいる時から押し合いへしあい、折り合いが良くなかったようです。私は経験がありませんから、折り合いのいい双子がいるかどうかは分かりません。ふつうは一人で入っているところに二人も入っていたら窮屈とは思います。しかしそれ以上に、神様からの預言的な言葉がリベカに与えられました。彼女はあまりにおなかの中で押し合いへしあいがあるので、神様に祈っていました。すると、23節、「主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」
またも身内の騒動。思えばこのおなかの中の子ヤコブの12人の子たちも、ヨハネをめぐって大波乱、そんなことを思い出したりいたします。
「二つの民があなたの腹の中で分かれ争っている。」
何もおなかの中にいる時から争っていなくてもいいのに。
しかしこれも、人間の姿でしょうか。
先に生まれ出れば兄。家督を相続するわけですから。そんなことを知る由もないはずの二人が争っている。なんとも象徴的な、いわゆる人間の業(ごう)というようなものを象徴しているように思います。
先に出てきたのは、全身毛むくじゃらのエサウでした。その後で、弟として出てきたのはヤコブ。なぜなら、おれより先に出るなとばかり、エサウのかかとをつかんでいたからです。
イサクはリベカと結婚した時が40歳、子供が生まれたのはその20年後でした。
こんな二人の子は、成長し、それぞれの個性を伸ばしていきました。
エサウは野の人。毛の衣を着ているような毛深い野性児です。野を駆け巡り、動物を追いかけ、真っ黒になって帰ってきます。重たい獲物を肩に背負って、ただいまー、すると、父イサクは満面の笑顔。おお、またいい肉付きじゃ。私の好物をよくまた取ってきてくれた。さあさあこっちへ。兄イサクは、父のお気に入り。
弟ヤコブは穏やかな人で、家の中を好む性格でした。後にあるように、レンズ豆の煮物をコトコト煮ている、兄と比べたら女性的な人と形容できるでしょうか。ヤコブは母のお気に入りでした。
「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。」
「しかし、」リベカはヤコブを愛した。この「しかし」という言葉が実に気にかかります。
二人の間に隙間風が吹いていたのでしょうか。二人がそれぞれ二人の子供を愛すればいいのに…。しかし互いに生まれてきた時からライバルのような子供たちです。ついついそれをかばうようにそれぞれの親も片方ずつをひいき目に見るようになって…、そういうことが家族の混乱をもたらすことになっていきます。
弟かわいいの母リベカの差し金であったかどうかは分かりません。しかし読みようによっては実に計画的な、家督争いの出来事が起こります。
ヤコブはコトコトと煮物を作っていました。そこに、兄エサウが疲れきって狩りから帰って来ました。もう腹ぺこで、そこにおいしそうな匂いのする豆の煮物が湯気を立てています。
「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」
いかにも食欲をそそりそうなあたたかいものを食べさせておくれ。はい兄さん。さっとあげればいいものを…
ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
なんと恐ろしい。家族の中なのに。おなかがすいた兄に、ただで一杯の煮物を与えられないとは。穏やかな人というよりも、用意周到な打算家ではないでしょうか。一杯の煮物で家督を奪う。何というあさましさでしょうか。この行動の背後には母リベカの姿が見え隠れしているのでしょうか。
弟はずっと長子の権利を狙っていたのでしょう。しかし兄はそれには無頓着でした。
「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、
ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。
目の前の一杯の煮物。それで空腹をしのげたら。なんとも単純明快な男でしょうか。こだわりがないというか、無防備というか。思えばこんな豪放磊落、竹を割ったようなエサウのことが、父は好きだったのでしょう。それに比べヤコブは、虎視眈々と、自分の狙ったものを奪う狙撃手のような男でした。
しかし長子の権利とは、当然一杯の煮物のようなものによって軽んじられるようなものではありませんでした。このことを、後にエサウは父の死の床で知らされ、今更ながらに後悔するのです。
長子とは、神の前に聖別され、家長に継ぐ立場として責任ある存在でした。アブラハムから続く祝福の約束と、祝福を取り次ぐ責任ある務め、これらの自覚が足りなかったと言わなければなりません。しかしそれを奪うヤコブもまた悪い。こうして家族の中の不穏な空気は増し加わっていきます。
「キリストにはかえられません」という美しい聖歌があります。その歌詞をご紹介して終わりたいと思います。
キリストにはかえられません 世の宝もまた富も
このお方が私にかわって死んだ ゆえです
世の楽しみよ去れ 世の誉れよ行け
キリストにはかえられません 世の何ものも
聖歌521
私たちが見つめるべき唯一つのものを見つめて、この新しい週も、固い岩の上に築かれた家のように、世の中の風から守られ、歩んでいきたいと祈ります。
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