説教原稿
2008年10月5日
「独り子である息子すら」
創世記 22章1-18節
「主の山に備えあり。」
今までに、この御言葉によって、どれだけ多くの人が慰めを得たことでしょう。
折々に、主が最善の備えをしていて下さる。
「主の山に、備えあり。」この言葉はそのまま信頼するに足る言葉です。問題は、私たちがいつもその方にどれだけ信頼しているか、です。
私の祖父は、今から6年前の朝早く、床の中で亡くなっているのが分かり、調べたところ、心不全だったようです。
皆様、AEDという機械をご存じでしょうか。「自動体外式除細動器」という名前のようですが、心臓がけいれんし、血液を流す機能を失った状態のとき、電気ショックを与え、心臓が正常なリズムを取り戻すための医療機器とのことです。
もしも、私の祖父の意識が薄れていく中、この機械があったら救命できたかもしれない。そんなことを後になって考えたりしておりました。
しかし、心臓マッサージや、人工呼吸、そしてAEDといった、万全の態勢があったとしても、おろおろして手をこまねいて、自信がないからできないとか、そうしてしまいますと、せっかく助かったかもしれない命が助からないということもあり得ます。
「主の山に備えあり。」主はことごとく良いものを、用意して下さっています。いつもよりすがるなら、神様の手の内には、何百、何千、何万、数え切れないほどのご計画があります。その神様を、緊急事態にあいても、平常時であっても、おすがりしないというのは、AEDという高価な機械を眠らせておくよりもはるかにもったいないことだと思います。神様は、私たちに必要なものを備え、私たちの命を守って下さいます。感謝です。
今日のお話は、アブラハムへの神様の試練ということです。私たちも、人生の試練と言いますか、激しい坂道を通らなければならない時があるかもしれません。どうして? 悪夢のようなこと、全く理解できないこと、神様どうして?と思うこと。アブラハムはどうやって乗り越えるのか、ご一緒に読み進めてまいりましょう。
いろいろなことがありました。
住み慣れた地を出て、未だ知らされていない地に出て行くということ。異邦人の土地に住み、甥ロトを守り、イシュマエルが与えられ、ついに妻サラとの間にイサクが与えられたということ。そしてイシュマエルは、子供可愛いのサラの逆鱗に触れ、親子共々追い出されてしまいました。
いろいろなことがありました。
ついに長い長い時を経て、サラとの間にイサクが与えられたということ、このことによって高齢のアブラハムは、主の約束の成就を知って、もう人生の目的を果たしたと思うほどであったのではないでしょうか。
自分の命よりも勝って尊いイサク。何よりも尊いイサク。世の中でイサクほど尊いものはなかったと思います。
そんなアブラハムに、神様は、試験問題を与えました。
神様が「アブラハムよ」と呼びかけました。イシュマエルを追い出した時、あれはイサクがまだようやく歩き始めたころ。今イサクは、10代後半ぐらいでしょうか。15年ほどの歳月が流れました。いよいよアブラハムは高齢になっていましたが、彼はサムエルの師匠、祭司エリのように、神様の前に耳鈍るものではなく、神様の前に「はい」と答えました。
この「はい」とは、「ここにいます、どうぞ見て下さい」という意味合いがあります。
神様は命じられました。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」愛する独り子。そこまで分かっていらっしゃいながらどうして焼き尽くす捧げものなどと。あなたのお約束ではなかったのですか?年老いた私を喜ばせなさったというのに、今となってお取り上げになられるとは、あなたは何のために私たちのために与え、また奪われるというのですか?それなら初めから与えなかった方が、私たちのためでした。今頃になって、なんと残酷なことを。
私たちならそのように思うことではないでしょうか。
不可解、残酷、神様というお方が心底分からなくなる衝撃の瞬間です。神様とは、そんなに血も涙もない恐ろしい方だったのか。
アブラハムは、子の命を守るため、神様に抗議をしたでしょうか。いえ、何も書かれてはいません。
「あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
私が命じる山の一つに上り・・アブラハムはまたも、どこに行くか分からずに、新しい地に出ていきなさい。そして愛する独り子をささげなさいと命じられるのです。
年を重ねてもなお降りかかる人生の試練。人生は、「もうこれで試練は十分」とは言ってくれないのか。ましてや年老いた子を取り上げられ、イシュマエルもいない。この後どうしたらいいのか?彼は悩み抜いたのでしょうか。
否、彼は次の朝早く、命じられたことを実行に移します。
夜の幻だったのでしょうか。神様が語られ、彼は朝起きると、朝早くから、ろばの準備をし、わが子に火をくべるためのまきを割り、従者とイサクだけを連れ、神の命じられたモリヤの地へと出発しました。モリヤの地とは、エルサレムの神殿が建った場所のあたりとのことです。
妻サラには相談したのでしょうか。否、相談はしなかったでしょう。アブラハムにとって神様は、彼のすべてでした。新約聖書ヘブライ人への手紙11:19には、こう書いてあります。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」
何という信仰でしょうか。神が捧げよと仰せならば、子の命をささげようとも、神様はその命を生き返らせても、神様の契約を果たして下さる。アブラハムは、神様が命を捧げよと命じられるならばその後神様がその命に対して責任を取って下さると、堅く信じていたのです。
私たちは、容易に自分の頭でシナリオを組み立てます。そして、そのシナリオは大抵、神様を信じて平安と確信を得させるシナリオではなくて、最悪最悪を思い描く不信仰のシナリオであります。
私が前任地の埼玉の教会におりました時、教会に女性から相談の電話がかかってきました。私が電話に初めに出ますと、「女性の方はいらっしゃいますか」とのことでしたので、私は妻に代わりました。土曜日の昼だったでしょうか。子供たちも一緒に家におりました。甘えん坊たちですので、時々、お母さんが電話に出るだけで、構ってもらえなくなり不機嫌になり、「ママー、ママー、電話なんてダメ」と、不機嫌になります。
その時も、長電話でした。でも教会にかかってきた相談の電話ですから仕方ありません。「ママはね、大事な電話に出ているからね」と、私は必死になだめましたが、子供たちは騒ぐ一方です。妻は、電話の声が聞こえないと言って、ついにはトイレに入ってかぎを掛けて話を続行しました。
「ママー、ママー」、「さあ、アンパンマンでも見よう」、私も必死に子供たちの注意をそらそうと努力しました。
息子も娘も部屋の戸をあけてトイレの方へ走って行こうとしましたので、私は無我夢中で二人の子供の腕を片腕ずつ、引っ張りながら行くのを阻止しました。
息子の方が力が強く、娘の方は少し力が弱かったですが、私の引っ張る力は一緒です。引っ張っていたら、娘の腕のほうが少し「ポキッ」と言いました。私は変だなぁと思いました。
やっと電話が終わりました。やれやれクタクタだ。で、どんな相談だったの?と聞きますと、やれ体のどの部分を触って下さい、さあどんな気分でしたかなどといういたずら電話だったとか。何だそれはと言いながら、何で早く切らなかったのかなどと話していました。「いや、思いつめているような感じで色々な相談事なども話していたから切れなくて・・・」そんな話でした。
さてお昼ご飯、ふと娘を見ると、普段は右利きなのに、左手でスプーンをもっています。「右手はどうしたの」と聞きました。右手を上げてごらんと言いますと、上げられない様子。私はハッと、さっきの「ポキリ」を思い出しました。
こ私は青い顔をして、インターネットを調べ始めました。れはまさか脱臼か、骨折か、はたまた筋断裂か。色々な恐ろしい予感が頭をめぐります。女の子なのに、障害が残ったらどうなるんだとか、色々と考えました。なんで相談のようないたずらな電話をしてくるんだ、なんでいつまでも電話を受けていて切らなかったのか、なんで自分が一緒にいるのに「ママ、ママ」と騒ぐのか、私は自分が強く引っ張った責任をよそに、周りにいるすべての人を責めていました。
じゃあ、お祈りしようよと、妻が言い出し、子供たちも一緒になって三人で祈り始めました。私はインターネットで原因を突き止めるので忙しく、「何を祈りなどと悠長な」というようなイライラした気持ちでいました。
土曜日で、昼も回っていましたから今受診できるところも限られます。私は懸命に探し、少しでも評判のいい所を探そうと、インターネットを駆使して探し、見つけ出し、車を運転し、病院につきました。
お医者さんは首をかしげ、さて、レントゲンを撮りましょうということになりました。私はどの骨が折れているか、さて大変なことになったと、この状況を呪いたくなるような気持ちでした。
「ギャー」娘は痛さと怖さで暴れてレントゲンがうまく撮れません。「さあ、お父さんも一緒に横になって御嬢さんを押さえて下さい。」一緒に横になり、娘をしっかりと押さえました。また「ギャー」と言って、娘は腕を上に動かしました。
「ポキッ」あれ?お医者さんが言いました。
はまりましたよ。ほら、動いてます。
私はあっけに取られて呆然としていました。
キツネにつままれたように、病院を出ました。
私は車に乗るや、感謝のお祈りをしようと言って、自分がまず神様に向き合わずに取り乱していたことを神様の前に告白して懺悔の祈りをしました。
アブラハムは、子供のいのちを差し出したら、すべてが水の泡であることを知りながら、それでも神様はその後もしっかりと導いて下さるからと信じて進みました。
今語り、イサクとともに歩くモリヤへの道。帰りは一人ぼっちになってしまうかもしれない。それでも神様に従い通す。彼はかわいいイサクの顔を見ながら、神様に従い通す、神様を信じぬく決意をしていました。
若い従者も、ここまでと止め、子を捧げる時に引き留められるかもしれない危険をなくして、彼は正真正銘、本当に、子を捧げる決意で、進んでいきました。
子イサクが背負っているまきは、イサクよ、お前自身を火にくべる薪。
イサクは不思議に思ったのか、父に尋ねました。
「わたしのお父さん」
「ここにいる。私の子よ。」
最初に神様に答えた時のあの言葉。「はい、ここにいます、私を見て下さい。」です。神様のご命令の通り、つき進むアブラハムの姿です。
イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」
子どもに無用の心配をさせまいとする父の姿、そして、子の命をささげようとも、神様がきっとその後もよみがえらせ、守って下さるという信仰の姿です。
二人は一緒に歩いていきました。
神様が命じられた場所に着きました。
アブラハムは祭壇を築き、まきを並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしていよいよ。手を延ばして刃物を取り、愛する独り子、息子イサクを屠るために手を伸ばしました。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。」
アブラハムと呼びかける御使い。「はい」ここにおります、私を見て下さいと答えるアブラハム。彼には神様に信じ従う信仰の姿がありました。
「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
信仰のテストに合格しました。取り換えのきかない大切な、愛する独り子さえ惜しまなかった。
アブラハムは彼が信じたとおり、神様は契約の子を取り去り給わない方であることを体験しました。仮に自分の愛する独り子をささげようとも、神様は必ず新しい伏線を用意していて下さるに違いない。神様は常に守り契約を守って下さる。彼の信仰は、その通り成就しました。彼の信仰は力強くされました。
感謝の気持ちとともに、彼はいけにえをささげようとして見回すと、一匹の雄羊が、木の茂みに角を取られているのが分かりました。
アブラハムは、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす捧げものとしてささげました。
「主の山に備えあり」です。
1節、11節、16節に「愛する独り子」とあります。薪を担いで歩いたイサクに、十字架を自ら負って歩かれたイエス様を見ます。いばらのかむりをかぶって息子イサクの代わりに焼き尽くす捧げものとなった雄羊にイエス様の姿を見ます。
「主の山に備えあり」
私たちも、この主に、全力ですがり、期待して信頼して、歩んでいきたいと願うのです。
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