Warning: Undefined array key "HTTPS" in /home/tojokyokai/public_html/includes/head.html on line 16

説教原稿

2008年9月 (召天者記念礼拝)
「イエスは涙を流された」
ヨハネによる福音書 11章

 朝晩がだいぶ涼しくなってまいりました。今日は、突き抜けるような秋晴れの日、神様のもとにお帰りになりました○○さん、○○さん、○○さんを愛するご遺族の方々が一同にお集まりになり、故人をしのび、一時を教会でお過ごしになられますこの時、神様からの豊かな豊かな祝福を、お祈りしております。

 先に天に召された方々の魂を、神様がしっかりと握って、お守り下さることを私たちは固く信じて、わたくしたちは「いつくしみふかい」神様を讃美歌をもってほめたたえました。永遠に、限りなく、神様の園で、悩み、悲しみもなく、目からすべての涙を神様にぬぐい取っていただいて、幸せに過ごすことができると聖書には書いてあります。ですから、私たちは、感謝をもって天を仰ぎ、先に行かれた皆様のことを神様にお委ねすることができます。

 そして今日は、少しく、短い時間ではございますが、残された皆様お一人お一人に、天から、皆様のことを案じて祈っていらっしゃる、先に天に昇られた方々にかわって、お三人がきっと皆さまに伝えたいと思っていらっしゃることを私が皆様に、お伝えしたいと思います。

 神石高原からこの教会まで、寒い冬も、歩いて通われた○○さまをここに向かわせていたもの、それは、神様の愛といつくしみです。

 今日は、ラザロの復活の出来事について、また、死というのは決して人間にとって自然なものではないこと、そして私たちにとってこのよみがえりの記事はいったい何を意味するのかをお話しさせていただきます。

 マルタとマリアそしてラザロという仲睦まじい3人兄弟がおりました。○○さん、○○さん、○○さんもお三人兄弟でしょうか、もっと多くのご兄弟がいらっしゃるでしょうか。きっと仲睦まじいご兄弟だったと思います。私の妻も3人の真ん中でございまして、女、女、男ですが、マルタ、マリア、ラザロも、仲睦まじい兄弟でした。

 しかし弟ラザロは、ある日病気にかかってしまいました。マルタとマリアはイエス様の所に人をやって、どうかうちの弟を助けて下さいと願いました。

 イエス様は、人の絆を無情にも引き裂いていく病気というもの、ひいては死というものを、暴力ととらえていました。決して許されざる、受け入れざる者として、見ていらっしゃいました。
  私たちはテレビをつけますと、痛ましい知らせを目にします。メラミン入りミルクで、罪もない5万人の赤ちゃんが、小さな赤ちゃんが、お母さんがすくすく育ってねと願って飲ませていたミルクで、体を壊してしまっていたこと。千葉の東金では、突然わが愛する子が変わり果てた姿で見つかってしまうこと。

 戦いと死が隣り合わせのようなこの世界です。神様はこの世界をどうご覧になっていらっしゃるのでしょうか。

 分厚い聖書の1ページ目、そこには、神様が、この世界を作られたことが書いてあります。「光あれ」神様がそうお声を発せられると、光があった。神様のお声に呼応して、この世界は作られました。この「光」から始まって、美しいこの世界は次々と作られ、そして人間がつくられました。

 人は、額に汗をしなくても、たわわに実る食物が用意されていました。女性の産みの苦しみも、初めには、ありませんでした。なにも着なくても、身につけなくても、気候は温暖で、何一つ不自由をすることはありませんでした。そして、死も、そこにはありませんでした。「命の木」がそこにはあり、命の木の実を食べれば、人は生き続けることが出来ました。ですから、この世界の初めは、苦しみも、悩みも、痛みも、死も、ない世界でした。人は、ただ作り主なる神様に頼って、すべてを任せて、安心して過ごすことが出来ました。しかし、人は、そんな守られているだけの生活よりも、自分で切り開く、独立の生活を歩んではどうか、あなたも神のように、善悪を判断して歩んではどうか、子供のようにではなく、大人のように判断して、神様のようになってみないかと、悪魔の誘いを受け、禁断の木の実を食べてしまいました。

 神様に頼って歩む生活、死も悩みもなかったのに、人は自分から、神に頼らず、自分で切り開く道を選んでしまったがゆえに、自らいばらの道を歩むようになってしまいました。こうして神様のもとから離れて歩むうち、人は楽園から離れ、死ぬべき定めとなってしまいました。

 しかし神様は、離れて行った人間をそのままにしておかれる方ではありません。人間を再び神様の園に呼び戻すために、かけ橋であるイエス様を遣わして下さいました。

 私たちにとって、死や苦しみ、悲しみは、当然受けるべきものではなく、仕方のないものではなく、神様がこの世界を作られた時には、全くそぐわない、異常なものであったことを、皆様にはお心に留めていただきたいのです。

 イエス様はラザロの病気は重く、助からないことを知っておられました。そしてラザロはなくなりました。ラザロがなくなる前に、せっかくイエス様のお耳に入れたのに。なんでイエス様は助けて下さらなかったのか。死は異常なこと、人間にとって受け入れることのできないものと言ったって、イエス様だって死の力を防ぐことはできないではないか。手をこまねいて、二日間も助けに出向いて下さらなかった(6節)のはなぜ?
  いろいろな疑問が浮かんでくることです。

 この世の中に神様がいらっしゃるのなら、どうして悲しみや悲惨、戦いがあるの?これも同じ問いであることが分かります。神様の沈黙。これは何を意味するのでしょうか。

 イエス様は、おっしゃいました。
  「この病気は、死で終わるものではない。」

 病気は、人の体をむしばみ続け、命を奪い、人が死に至れば、病気も共に死んでしまいます。病気は人を死に至らせ、死をもってその活動を終えるものです。
  しかしイエス様は、この病気は死では終わらないと言いました。それではこれから何につながるというのでしょうか。

 意味深長なことをおっしゃると、イエス様はラザロのもとに出発されました。
  そこには悲しむ者の集まりがありました。

 「どうしてもっと早く来て下さらなかったのですか」
  「そうすれば私たちの愛するラザロは、助かったのに。」

 口々に言う姉、マルタとマリアでした。

 そこでおっしゃったことば、イエス様の言葉はキリスト教の葬儀で必ず語られるこの言葉です。
  「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 わたしは復活であり命である。 私を信じる者は、死んでも生きる。

 死んでも生きる。そうです。死は終わりではありません。

 病気を、人の悪の心になぞらえましょう。悪の心は人間の心を占領し、むしばみ、人の世の中を混乱させ、戦いを産みました。人は悪の心に蝕まれ、病気が体に蔓延するように、遂に死ななければなりません。しかし死ねば、病気ももろとも死んでしまう。ですから死んだ人の体の中には、病気は、罪の心は、生き続けることができないのです。

 イエス様は、このことを実践して下さいました。すなわち、イエス様は、人のすべての罪とがを、ご自分の身に引き受けて下さり、そうして十字架にかかって、死なれました。そしてご自分もろとも、人の罪を滅ぼして下さったのです。そして3日目に、イエス様は墓からよみがえり、弟子たちに現れたと、聖書に書いてあります。

 聖書の教え、それは、断じて人の死を当然のものとは受け入れません。イエス様が代わりに死んで下さるのです。そして、私たちも、死によって終わる命ではなくて、死によって始まる命に生かしていただけるのです。

 わたしは復活であり命である。 私を信じる者は、死んでも生きる。
  生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。

 死ぬべき私たちの命を取り戻すために、代わって死んで下さり、そして墓からよみがえられた方のことを、お心に留めていただきたいと思います。

 ラザロのお墓の前にイエス様がやってこられました。皆泣いています。「どうしてもっと早く来て下さらなかったのか」と悔し泣きする人たち。

その悲しみ、悼む人たちのただ中で、イエス様も共に涙を流されました。

 生木を裂くような、人の絆を無残に切り離す死というものは、決して自然なものではありません。神様は、人間をそのような定めには、お造りになりませんでした。

 人の辛い辛い悲しみの現場で、神様はどう思っていらっしゃるのでしょうか。
  神様も心傷ついて、悲しみ、涙を流して下さっているのです。
  それほどに、生きて歩いていた一人の人が死によって取り去られるのを我慢できないと、手を伸ばして取り戻そうとして、かけがいのない一人の人のために涙を流して下さっているのです。

 どうか今日お集まりの皆様、神様も涙を流し悲しんでおられることをお心に留めて下さいますように。

しかし、いくらあなたでも、亡くなる直前の人は助けられっこなかったんだろう、だから雲隠れしていたんだ」という人もありました。

 イエス様は、威厳のある声で、「その石を取り除けなさい」とおっしゃいました。
  墓をふさぐ重い重い石です。
  人が乗り越えることのできない深い深い死の断絶です。彼岸から此岸までは乗り越えられない断絶です。

 「その石を取り除けなさい」 聞いた人たちはたじろぎました。何をご無体を。マルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」といいました。
  もう死体は腐りかけております。生ける物の赴くところではございません。そこは、死の世界です。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 私を信じなさい。イエス様を信じるということ。これが神様を信じるということです。善悪の木の実を食べて独り立ちしたようでも散々のハンドルさばきで世の中は混乱の世となってしまいました。しかし、イエス様を信じる時。自分の無理だ、そんなことあるもんか、という思いを脇に置いて、イエス様を信じる時、私たちは、神様のもとに帰ることができます。

 人々はイエス様の言葉に従って、重い墓石を転がしました。
  イエス様は天を仰いで、祈りました。

 あなたが私を遣わして下さったということを、ここにいる人々が信じることができるように。

 こう言ってから、イエス様は、さらに威厳のある声で、こうおっしゃいました。

 「ラザロ、出てきなさい。」

 このイエス様の声は、天地を創造された時の、神様のお声です。

 神の声に従って、死んでいたラザロは、出てきました。

 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 「この病気は、死で終わるものではない。」

 確かに、この病気は、死では終わりませんでした。
  死の向こうに、命がある。そしてラザロの死によって、彼の死を悼み悲しんでいたすべての人が、よみがえりの喜びに沸き上がり、そしてイエス様に出会ったのです。

 しかしラザロは、年を重ねてまた死ぬ時が来たことでしょう。ラザロのよみがえり見ていた遺族の人たちも、やがてみんな死んでいったでしょう。それでは、このよみがえりの聖書の記事は、いったい何を意味しているのでしょうか。

 それは、私たちがイエス様を、神様のもとから遣わされた神ご自身であることを信じるためです。
  それは、神様が、人の死を、当たり前で仕方のないものだとは考えずに、イエス様をお遣わし下さり、人の間から死を取り除こうとされたということです。

わたしは復活であり命である。 私を信じる者は、死んでも生きる。
  生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。

 イエス様が神様から遣わされた方であることを信じ、このイエス様は、私が死んだ後も、力強い御手で私を引き上げて下さると信じる時、私たちは、永遠に神様の園で幸せに過ごすことができるのです。

 「ラザロ、出てきなさい。」

 威厳のあるお声で語って下さったそのお声は、今日、あなたにも掛けられています。あなたが永遠の命をもつために。そしてまた天で、皆さんお待ち合わせして再び会うことができるように。 一言お祈りさせていただきます。

祈り
「私を信じる者は、死んでも生きる。」イエス様、どうかいつまでも、ともにいて、導いて下さい。死の力を超えて強いイエス様の御腕に信頼して、イエス・キリストの御名によって、お祈りします。 アーメン。

 

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2025 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.