説教原稿
2008年9月28日
「神は子供の泣き声を聞かれ」
創世記 21章1-20節
私たちは新しい週のはじめ、敬愛いたします兄弟姉妹とともに、また神様の前に、礼拝の場に召されております。
この世界と人類は、創造のはじめ、ことごとく神様の前からその歩みを始めました。そして今に至るまで、神様は、この世界とともに歩んで下さいます。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」マタイ5:45
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」テモテへの手紙一 2:4
神様は、この世界を作られた主です。神様のご契約はゆるぎなく、憐れみは深く、生けるものを導いて下さいます。
今日もそんな神様のお姿から学ばせていただき、神様のご性質にあずかるものとしていただきたいと、切に願います。
「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し/変わることなく慈しみを注ぐ。」エレミヤ31:3
今日お読みいただきました創世記21章では、ついにアブラハムの妻サラに、男の子イサクが生まれます。待ちに待った出来事です。神様は初めから約束しておられました。その約束は成就しました。どんなに困難であろうとも、不可能なように思えても。神様は、お約束を果たして下さいます。これが、私たちが心に留めるべき第一点です。
しかし、アブラハムとサラは、しびれを切らしてしまいました。なかなか生まれない。神様の約束の成就は、遅い。とうとうしびれを切らして、彼らは自分の知恵に頼り、エジプトから来た女奴隷ハガルを連れてきて、アブラハムとの間に子供を設けました。
神様は必ずことをなして下さると信じて、信頼して、ひたすら待ち望むことはなんと大変なことでしょうか。自分の不安が増し加わってきて、目に見える保証がないと、いつまでも待ってはいられない。すぐに祈った答えが聞かれないといらいらする。これが私たち人間の姿です。
私は中学生の時、友達から年賀状が届いたのですが、その年賀状は裏面が真っ白だったのですね。もちろん住所と差出人は書いてあるのですが、肝心の「あけましておめでとう」という所が真っ白だったのです。あぶるのか、鉛筆でこするのか。どうにも分からずに、冬休みが終わってその友達に尋ねました。その友達とはとんち比べと言いますか、質問をして答えたり、答えられなかったり、お互いに張り合っていた友達でしたので、絶対に種明かしをしてくれませんでした。私はとうとう腹にすえかねて、最後にどうしたか、皆様は私がどうしたかおわかりですか? 私は自分でその白い年賀状に「あけましておめでとう、今年もよろしく」と書きこんでしまいました。
神様は、こんな意地悪なとんち比べをする方ではありませんが、私たちのためにいつも最善を計画して下さる方です。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマ8:28
しかし私たちは、しびれを切らしてそっぽを向いてしまっては、もったいないのです。温泉を掘り掘り、掘って掘って、あーもう駄目だと投げ出してしまいました。あと10メートル掘れば出たのにやれやれと、神様は思っていらっしゃるかも知れません。
私たちにも今日、なかなか叶えられないことがあるでしょうか。ずっと祈っているのになぜということがあるでしょうか。祈り続けましょう。神様は、最上の計画をもっていらっしゃいます。信じましょう。
約束通り行われる神様です。イサクが生まれました。最初はそんなバカなと言って笑ったアブラハムとサラでした。しかし神様はご真実な方、神様は可能な方。サラは、喜びの笑い声をあげて、喜びました。御使いが来て、1年後には子供が生まれているでしょうと言いましたが、ピタリその通りでした。
2年か3年かして、イサクは乳離れの時を迎えました。医療水準の低い昔のことですから、ここまで育て上げればまずは一安心ということでしょう。アブラハムは、盛大なお祝いをしました。
イサクが生まれた時、アブラハムは100歳、サラは90歳、ハガルとの子イシュマエルは14歳でした。イシュマエルは、アブラハムが86歳の時の子でした。
アブラハムとサラは、イサクが生まれるまで、イシュマエルを跡取りとして育てていました。大事に大事に愛情を注ぎました。しかしそこに本命の跡取りが生まれました。手のひらを返すようなことが起こったのではないでしょうか。
かつてハガルが横柄な態度を取って追い出されたこともありました。今さらに子供が生まれ、乳離れの盛大な祝いもし、いよいよ疎んじられつつあるハガル親子だったのではないでしょうか。
神様は、とこしえに変わることのない愛で愛して下さいますが、人の愛は変わります。いつも、どんなときでも、人が見ていなくても、自分にとって利害関係のない人、むしろ自分に害をもたらすような人を愛し続けるということは、非常に難しいものです。
イシュマエルは、そんな手のひらを返したような雰囲気が嫌でいじけてしまったのか、トコトコ歩いたり走ったりしている弟をからかい始めました。愛情を求める裏返しでしょうか。イサクがうらやましかったのでしょう。
年の差14歳。サラはその姿を見て、頭に血が上ってしまいました。そして、この後、跡取りを決める段になって、私のかわいいイサクの身に何かあったら大変と思い始めました。
サラはまた、アブラハムに言いました。
「あの女とあの子を追い出して下さい。」
「あの女とあの子」、名前さえも忘れてしまったかの冷たい言葉です。
イシュマエルも、神様のご計画にはありませんでしたが、アブラハムとサラに望まれて生まれてきた子でした。自分が待っていればいいものの、待ち切れずにもうけた子でした。ほかならぬサラが提案した計画でした。それなのに、気に食わないから追い出す。それも、もう二度目です。人間とは、そういうものです。私とは、そういう存在だと、読んでいきたいと思います。
これを聞いたアブラハムは、非常に苦しみました。アブラハムにとっては血のつながった子供です。
かつてのアブラハムでしたら即座に追い出していたかもしれません。しかし今彼は、苦しみ抜いて、考えています。
そこに神様が語りかけて下さいました。
「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。
しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
苦しまないでもいい、サラの言う通りにしなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられていくのだから。しかし、イシュマエルも守ろう、彼もあなたの子だからだ。
苦しんでいたアブラハムに助け舟、アブラハムとサラの待ち切れなかった責任に対して、神様が助け舟を出し、尻拭いをして下さる。これが今日の神様のご性質を知る第二の点です。変わらず愛し、契約を守り、失敗を尻拭いして下さるお方です。
元々は意図しないことを勝手にしたのはアブラハムとサラ、神様は関わりのないことです。しかしそこまで神様は配慮し、導いて下さるのです。
アブラハムは、「次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。」とあります。
「ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。」とあります。
結局は自分たちは余計者、厄介者だったんだ、トボトボと歩む失意の旅でした。どこに行くのか、あてもなく、親子は荒れ野をさまよいました。
熱い熱い砂漠の土地。革袋の水は、すぐになくなってしまいました。水のほとりも見つからず、のどもからからになり、母ハガルは子供に最後の水を飲ませ、死を悟りました。
低い木、いくらか木陰の取れるところを見つけ、ハガルはわが息子を横たわらせました。
「子どもが死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、しかし子供をじっと見守っていました。遠くに離れると、それまで子供の前だからと言ってこらえていた心の中の思いが、せきを切ったようにあふれ出してきました。涙が次から次から、そしてああいたわしい、わが子、ここであんな若さで死んでいかなければならない。涙は嗚咽となり、彼女は地面をたたいて泣きに泣いたのでしょうか。
イシュマエルはそんな母の姿を知り、何の助けもないみじめな身の上を思って声を上げて泣きました。
イシュマエルという名前、それは「神様は聞いていらっしゃる」という意味でした。
神様はずっとこの光景を見、その泣き声を聞いておられました。
私たちの神様はイシュマエルの神です。聞いていて下さる。分かっていて下さる。この神様のご性質を胸に留めましょう。
神様は、天から御使いを遣わして、おっしゃいました。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
「どうしたのか、恐れることはない。」 神様の御手の中で、恐れはなくなります。神様がついて下されば、私たちは、何の恐れもありません。私たちの、命さえ、よみがえらせて下さるお方です。
「恐れるな」こう神様が語って下さっていることを、心に留めましょう。
「必ずあの子を大きな国民とする。」
神様はこの子と、その子孫を守って下さる。神様のお約束でした。神様は、尻拭いして下さるお方です。人は、無責任で、自分のしたことの責任を取れずに放棄してしまうような存在です。しかし神様がイシュマエルの身柄をしっかりと守って下さったのです。
「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。」
目をやると、そこには井戸。今まで気付かなかったこと。しかし神様が目を開いて下さると、そこには命と恵みの泉がわき上がっていました。
神様のご配剤であることは言うまでもありません。
神様は、困難のただ中に、死のただ中に、命の水をわきあがらせるお方です。
孤立無援、ただ死を待つのみというような状況の中で、「どうした、恐れないでもいいんだよ」と語りかけ、命の水に飽き足らせて下さるのです。
シカルの井戸で、サマリアの女性とイエス様が語られた出来事を、思い出します。彼女はうまくいかないことの連続で、離婚と再婚を繰り返していました。水を汲みに行くにも井戸端会議にさらされたくないので、人が出歩かない暑いまっただ中に井戸に水を汲みに来ていました。そしてイエス様と出会いました。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ4:5
イエス様に出会い、贖われ、聖霊の頂いて歩む生活。渇きを知らず、永遠の命に生きる。このサマリアの女性は、喜びを抑えることができずに、人を避けていた人が、人々に喜びを伝えて歩く人となりました。
約束をいつまでも覚えて果たして下さる方、尻拭いして下さる方、いつも聞いていて下さる方。そして、命の水を示して下さる方。命を与えて下さる方。
こんなところに泉があるだろうかといぶかるとき。砂漠のただ中をトボトボ歩くとき。涙がとめどなくあふれる時、一人ぼっちで不安なとき。神様がともにいて、私たちに「恐れるな」と語りかけ、私たちのうつむいていた目を開いて、神様の祝福に喜ばせて下さいます。
祝福の泉の源を見つけて、私たちはまた一週間を歩むことができます。あせらず、神様のお約束が果たされるのが遅すぎるとイライラせず、自分の犯した失敗による結果がどのようなものかと恐れず、私たちの声を聞き、悩みを聞き、祝福といのちのの泉を備えて下さる方にすがって、今週も歩んでまいりましょう。
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