説教原稿
2008年9月21日
「さすらいの旅のただ中で」
創世記 20章1-15節
今日も、御言葉から、心探っていただき、神様の恵みに気付かせていただき、ただ神様に頼って今週も歩いていくことができるように、備えの時をいただきたいと願っております。
人の一生の歩みとは、どのようなものでしょうか。いつもいつも、順調とは限りません。失敗の時、挫折の時、病気の時、ままならない時があります。
アブラハムも、そうでした。
彼は、神の友と呼ばれ、信仰による義人と呼ばれています。しかし彼もまた、私たちと同じ、一人の人間でした。
一人の人間にすぎない人が、ただ神様によって守られ、祝福の人生を閉じて行くからこそ、私たちは彼の生きざまから、学ぶことができます。彼がもし、非の打ちどころのない、スーパーマンのような人でしたら、私たちは、なんにも参考にすることができないのではないでしょうか。
ソドムの町に、主の裁きが行われました。ロトたちは、助かりました。このことと関係があるかないかは分かりませんが、アブラハムは、ずっと住んでいたへブロンのマムレの樫の木の所を離れ、エジプトに下る途中にあるネゲブ地方へと移りました。
移り住むということ、これは大変なことです。アブラハムが遠くウルの地を離れた時が75歳、どこに行くかが分からないうちに出発しました。神様の祝福のお約束とそのお言葉にのみ、すがって歩いたアブラハムでした。
私たちも、神様の祝福をひたすら信じて、天国を目指して歩む旅人です。アブラハムの歩みから学びたいと思います。
エジプトに下った時、アブラハムは、妻サラを妹と言い、そのことによってサラを召し入れたエジプトの王パロは、大変な苦しみに会いました。アブラハムは、危機から救い出されて後、天幕を築いた地に立ち戻り、初心を思い起こしました。そののち、勇敢なロト解放劇がありました。
世継ぎの問題などで、女奴隷ハガルのことなど、色々とありましたが、神様は、あくまでアブラハムの妻サラに子供を与えるとお約束なさいました。
成功あり、失敗あり、かなえられないことあり、目覚ましい勝利あり、一進一退と言いますか、一歩一歩の歩みでした。
今日の個所20章では、またアブラハムの新しい歩みを私たちは見ます。喜んで移り住んだのか、強いられて移ったのか、私たちにはわかりません。しかし、新しい所、ネゲブ地方のゲラルで、アブラハムは、また試練に遭遇します。
行くところ行くところ。アブラハムの妻サラは、「王女」という名前のように、人々の視線の的でした。エジプトの時が70歳の手前、そしてこのゲラルは90歳。それでもサラは、人々の視線の的でした。ですから、もう年だとおっしゃらないでください女性の皆様、まだまだこれからです。サラが出産したのは、90歳の時です。
少々今よりも寿命が長かった時です。そして、出産ということで、若々しくされていたのかもしれません。エジプトの時同様に、またサラは、ここゲラルの王の目に留まりました。
さあ危うきは、夫アブラハムです。異教の地では、正義も道徳もあったものではない、妻は略奪され、自分は殺されるかもしれない。彼は悪い記憶がよみがえりました。妹と偽って、自分の身は助かったものの、そのせいでエジプトはしっちゃかめっちゃかな騒ぎになってしまいました。
結局神様が助けて下さったから良かったようなものの、後味の悪い最後でした。義人が計略をめぐらし、エジプトの王が被害者のようになったのですから。
今回はいったいどう振舞うのか。一回目はいいとしても、二回目には、学習の結果というものを表わさなければなりません。
しかし、彼の取った行動は、再び、「これは私の妹」でした。
同じ轍を踏む。間違いを繰り返す。「猿でも学習するよ」と言われたことが私もあったような…。性格は変わらないというか、彼も一人の人間でした。
ここで即座に働いて下さるのが、神様です。
3節、「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」
一方的な守りです。ご自身の子供を無条件に守るような、母親の愛のような。えこひいきと言われても構わない。だってこれはわたしの子供だから。そういった神様の愛情です。しかしこれは、召し入れたゲラルの王、アビメレクの身のためでもあります。
しかし納得いかないのがアビメレクです。彼はこう、反論します。そしてその反論は正しいのです。
「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。
彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。
そうです。悪いのはすべてアブラハムです。神様は、こうおっしゃいます。
「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。 直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」
そうだ、あなたが潔白なのを知っている。だから他人の妻を召し入れて、自分の身に災いを招き入れないように、私が今、警告しているのだ、ということですね。ここまではよく分かります。
しかしその次、「彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」
おやおや、どうも変です。迷惑をかけた張本人はアブラハムなのに、彼はいつの間にか預言者に収まっていて、その彼から祈ってもらって、命を救ってもらいなさい…というのです。うーむ、どうも釈然としないお話です。謝って赦してもらうべきは、当のアブラハム本人ではないかと思うのに。神様は、えこひいきだ!そんな声が聞こえてきそうです。
しかし、そんな彼でも預言者なのです。唯一、神様と、地上のすべての士族をつなぐ、神様の恵みの経路なのです。失敗も犯します。何度も同じ失敗を繰り返します。証しになりません。それでも彼は、預言者なのです。ここに、私たちは神様の憐れみ深さを学ぶのではないでしょうか。
それでもクリスチャンなのです。それでもクリスチャンと呼ばれていいのです。それでも私たちは、地上のすべての国民に、恵みを取り次ぐための神様の選びの民なのです。
神様の忍耐強さと、恵み深さに、感謝したいと、思います。
分かりましたと神様に申し上げるアビメレクでした。眠りから覚めると、さあ大変とばかりに、彼は、走りまわります。
しかしアブラハムに対してはやはり納得がいかない!と思うのが自然の感情でしょう。アブラハムに頼んで祈ってもらい、命を救ってもらいなさいと言われても、まずはじめに彼を責める言葉が出てきます。
「あなたは我々に何ということをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。」
私があなたにどんな罪を犯したというのに、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。
頭から湯気が上るような剣幕です。「何てことしてくれたんだ!」分かります。多いに、分かります。
これだけ言ってもいい足りず、アビメレクは続けてこういいました。
「どういうつもりで、こんなことをしたのか。」
自分たちに恨みがあってこんなことを仕組んだのか、俺たちを滅ぼす策略を持って近づいてきたのか?お前は俺たちの敵なのか?アビメレクは完全に、被害者でした。青天のへきれき、どうして自分が加害者のように扱われなければならないのか。彼は意外と道徳的な真面目な王だったのでしょうか。
アブラハムは矢継ぎ早に問われて、重い口を開きます。
「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。」
神を畏れない人たちのことだから、自分の身が危ないと思ったというのです。しかし、アブラハム自身、どれだけ神様のことを畏れていたというのでしょうか。エジプトのことを思い出し、こう言っても結局守られると思ってのことでしょうか。しかしそれは、罪もない多くの人を巻き添えにする方法でした。ここでアブラハムは、他人への責任転嫁をしているように思います。自分が信仰に立って、しっかりと神様を期待すれば、他のやりようがあったのではないか、不安にさいなまれず、いつも決して揺り動かされない平安を彼は自分のものとしていたのではないか、人のせいではなく、自分の信仰の問題であると、思うのです。
私たちは自分の信仰の問題を、人のせいにしたり、状況のせいにすることはできません。人がどうであろうと、どんなに絶対的な状況になったとしても、私たちの神様は、力強いお方です。私たちはどんなことがあっても、この神様にひたすら期待すれば、解決できない問題はないということを心にとどめておきたいと思います。
次にアブラハムはこう語ります。
「かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」
かつて神が私を父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、神様が私を住み慣れた父の家から離してはるばる遠く、異邦人のごった返す色々な土地に導き、さすらいの旅に出されたので、私は妻を妹と呼ぶようにしたのですとのいいわけです。
今度は彼は神様のせいだからと、言い訳をします。神様が自分をさすらいの旅人、流浪人のようにしたから、自分は苦労して、つきたくもないウソも付いてしまうのですと。これも勘違いです。神様は、私たちの幸せと祝福を思って旅に出されるのです。まさに「かわいい子には旅をさせよ」です。
しかしアブラハムはその神様のお心をつゆ知らず、「さすらいの旅に出された」と不満げに言うのです。
神様の御心は、人の思いを超えてはるかに高い(イザヤ55:9)のです。私たちは、自分の考えの秤を持って、神様の御心を推し量ってはいけません。私たちは自分の秤を用いることによって、容易に落胆し、希望を失いますが、神様の思いは、私たちの思いをはるかに超えているのです。
私たちの人生は、「さすらいの旅」でしょうか。いえいえ、私たちの歩みは、祝福と平安の一本道です。どんな所を歩こうとも、神様がともにいらっしゃる祝福の一本道なのです。ですから、私たちは、くじけず、不平を洩らさず、導いて下さる方に感謝をもって歩んでいきたいと願います。
アブラハムは、アビメレクのために祈りました。そうすると、彼らはいやされました。預言者の持つ力です。
私たちも、十字架による赦しの福音を持っています。罪からの解放です。永遠の命の祝福です。イエス様の、身代わりの死によるいのちです。ひたすらに、私たちを愛し、自分の身を捧げて愛しぬいて下さった方の命によって心燃やされ、人のせいにせず、神のせいにせず、さすらい一人旅と嘆かず、神様のお守りと恵みをどんなときにも力いっぱいに信じて、与えられた使命に従って隣人愛に、キリストの愛の心によって生かしていただきたいと願うものです。
マタイによる福音書
16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
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