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説教原稿

2008年9月14日
「ロトを破滅のただ中から救い出された」
創世記 19章15-29節

 今日も、御言葉から、神様のご真実と、恵み深さを知りたいと思います。神様をこころから礼拝したいと思います。同時に見えてきますのが、人の罪深さ、人の心の不確かさです。
  神様を見上げ、神様の御思いに、わが心を修正していただき、新しい週も、守られて、歩んでいきたいと、願うのです。

 先週は、アブラハムの所に主と、二人の御使いが現れ、アブラハムの妻サラにイサクが生まれることが知らされ、サラは前の章のアブラハム同様、クスリと笑い、そんなバカなと思ってしまいました。しかし神様には不可能なことはない。こう信じることを学びました。
  また神様は、アブラハムにソドムの滅亡をあらかじめ示されました。そこで、アブラハムは、甥ロトのいる町のために、またかつて行きがかり上自分が守った町のために、とりなしをしました。5人の正しい人もいない町、それがソドムでした。

 二人の御使いは、アブラハムの住むへブロンから50キロ、死海の南端の、ソドムの町へと歩いていきました。その町は、訴えの通りのひどい町かどうかを見極めるためでした。思えば神様は、わざわざ出向かなくても、その町が退廃しているかどうか、すぐに、誤りなく知ることのできる方です。
  しかしもしかしたら、出向いて行ったら悔い改めの姿を見ることができるかも知れない…。これが神様のご真実です。神様は悔い改めのために猶予を与え、機会を与えて下さいます。預言者を送り、実にひとり子キリストを与えるまでに。神様は、罪の世を救おうと、願っていらっしゃるのです。これが神様のご真実です。

 ロトは、ソドム流の生活に染まっていたとはいえ、まだ根っからソドムの人のようではなかったと思われます。「ロトはソドムの門の所に座っていた。」町の門とは、人が集まり、話をし、訴訟ごとがあったら解決する、集会所のようなところです。
  夕刻、二人の旅人、御使いがやってきました。長老はじめ、町の人たちは、フンとばかりに旅人を気にも留めなかったでしょうか。しかしロトは、「立ちあがって迎え、地にひれ伏して」、言いました。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」

 アブラハムと同じ、旅人をもてなすあたたかい心です。
  二人の御使いは、この退廃した町の中に泊まることを嫌ってか、町の様子をじっくりと眺めたいと思ってか、「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」と語ります。
  しかしロトは、ぜひにと進めましたので、御使いは、彼の家に入りました。ロトは、急ぎパンを焼いて食事を供し、もてなしをしました。
  彼もまた、気付かずに、主の使いをもてなしました。彼は立派な信仰の人だったか、読み進めてまいりましょう。

 夜がやってきました。さてこれから床に就こうかという時間です。ロトの家が不気味な雰囲気に包まれます。若者から、お年寄りまで、男性という男性が、ぞろぞろと光に集まってくる虫たちのように、ロトの家をめがけて集まってきます。家の玄関、家の両脇、家の裏、ぞろぞろ、ぞろぞろ。集まるを集まるわ。とうとう彼らはロトの家をぐるりと取り囲むほどになりました。

 ドンドン、ドンドン、戸をたたく音。窓からは、出て来い、出て来い、夜なのに、騒がしく、お祭りのみこし担ぎの真ん中にいるような、何事かというような出来事です。

 人々はわめきたて、言いました。
「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」

 町の人たちは、無関心を装いながら、じっと旅人がロトの家に入るのを見守っていたのでした。そして夜。何かに取りつかれたように、彼らは、暗闇の中、うごめき始めたのです。なんと恐ろしい、人間の心の闇でしょうか。「ここに連れて来い。なぶりものにしてやる。」
  他を寄せ付けない、ジャングルの奥の首狩り族だというのでしょうか。この町は、よそ者を歓迎せず、身ぐるみはいでしまうような暴力の町だったのでしょうか。

 いえいえ、なぶりものにするとはすなわち、直訳では「彼らを知りたいのだ」、知るとは、「アダムはその妻エバを知った」そして男の子を産んだと、創世記4:25にありますように、性的な関係を指します。ですから、ソドムの町の人たちは、若者から年寄りまで、ホモセクシャルの人たちがたむろする町なのでした。夜になり、さあその時だ、ロトだけ独り占めにはさせんぞ。ハイエナの群れが、分捕った獲物をめぐって我先にと群がっているような、そんな目を血走らせた光景です。なんとおそろしや。町の男たちみんながみんな、集まってきて、輝く容姿の御使いたちをなぶりものにしてやるから今すぐ出せと大合唱しています。

 ロトは、旅人を守る一心で、狂乱状態の群衆の前に姿をあらわし、こう言いました。
「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。
実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」

 娘をいけにえに。なんと恐ろしい。これを聞いた二人の娘たちは、どう思ったことでしょう。嫁入りが決まっている二人の娘でした。いっそ、自分が代わりにと言えばいいようなものです。しかしそう言わずに娘たちをと言ってしまいました。もっとも同性愛の人たちですから、女性には興味がないと思ったのかもしれません。しかし父親として失格です。親というのは、自分の身をたてにしても、わが子を守るものではないでしょうか。ここに逆説的に、神様のご真実が見えてきます。ひとり子イエス・キリストを十字架にかけてもなお、私たち人類を救おうという神の愛です。父なる神様は、ご自身の体の一部分を捧げるように、ご自身を捧げるように、キリストを捧げて下さいました。父・御子・御霊、三つにして一人の神です。キリストは、弟子たちを最後までかばい、守り、そうして一人十字架への道を歩まれました。

 この父親にしてあの娘ありです。後の個所ですが、娘たちは、婿たちと離れ離れになり、近親相姦という方法で子供を産もうとします。ソドム的な考え方です。こうして生まれたモアブとベン・アミ。ベン・アミからアンモン人。彼らは、後に、わが子供をいけにえにしてお備えにするというモロク宗教を作りだします。オカルトです。しかし、それらの混乱の原点は、ロトがアブラハムのもとを離れて、退廃の町、ソドムにいついたことが原因でした。

 自分の命でも差し出して、贖いの愛を示して下さるのが、神様のご真実、一方、トカゲのしっぽ切りのように、自分の立場が危うくなれば、裏切り、切り捨ても当たり前で、しぶとく自分だけは生き残る。これが人間の真実です。

 娘を差し出すというのは誤りながら、一生懸命に旅人を守ろうとしたロトでした。ソドムの人々は、抵抗するロトに怒りを燃やし、「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」と、詰め寄ります。
  ロト、危うし。

 しかし二人の御使いは、さっと戸をあけロトを中に戻し、戸口の前に半狂乱になって集まる男たちに目つぶしを食わせ、男たちは目がちかちかして見えなくなり、戸口が探せないようになってしまいました。

 御使いたちは、いよいよこの町は滅ぼされる定めと確信し、ロトに、家族を連れて逃げなさい、自分たちはこの町を滅ぼすために遣わされた主の使いですと話します。
  ロトは、結婚が決まっていた二人の婿の所に行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促しましたが、彼らは冗談だと思って受け付けませんでした。
  何ですか、こんな夜遅くに。この町が滅ぼされる?お義父さん、いったいどうしたって言うんですか。しっかりして下さい。頭がおかしくなったんじゃないですか。そんな裁きなんて、あるわけないじゃないですか。
  人間が絶対、神の裁きなんて、滅びなんて、あるはずがない。こう考えるのが、人間の考えです。神などいない。こう思って、見つからなければ良いと、悪事に励む人々。明るみに出る悪事はきっと、氷山の一角でしょう。しかしだからと言ってまんまとやり過ごしたというわけではありません。

「大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」
  悪い人によって苦しめられた人の叫び声は天にまで届きます。嬉しいことがあれば、天に喜びが広がります。

ルカ15:7 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

天は、私たちが思うよりもずっと身近なところです。
  ですから、この世界が神様を恐れず、好き勝手に悪事を行う時に、その叫びは主のもとに届き、主は悲しまれるのです。そして最終的には主は裁きを下されるのです。

 ソドムにとってはそれが今実現しようとしていました。ソドムに生まれ育った二人の婿は、罪の意識も、神の存在も、信じられませんでした。さあ、ソドムならぬ、今の日本はどうでしょうか。神の裁き、冗談でしょう。私たちが何か悪いことをしている?それはどこの町の人も一緒でしょう。どうして私たちだけが裁きに遭わなければならないのでしょう。」危険です。いつの時代も、どこの人でも、神様を恐れて歩まなければなりません。
  神様のご真実、それは、トカゲのしっぽ切りのようにして都合の悪いものを切り捨てることではありません。ご自身の身を切り取ってでさえ、身代わりのいけにえを捧げてさえ、私たち人類を救おうとしていらっしゃるのです。

 その神様のご真実、憐れみ深さが、この後も続けて記されています。
  夜が明けるころ、御使いたちは、ロトをせきたてていました。
「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」・・・しかしロトは、ためらっていました。自分の家、財産、住み慣れた場所、肥沃な土地。自分がおじさんアブラハムよりも先に選んだ豊かな土地。彼を引きとめる物は、目に見える物質、手に取れる富でした。

聖書は、こう語っています。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」 マタイ16:26

 ロトもまた、目に見えるものに心奪われ、ソドムの価値観に縛られ、本当の命が何か、
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」ということがぼやけていました。これもまた、神様のご真実です。私たちはただ神様を求める歩みをしていれば、ふたを開ければ、すべてのものが与えられるのです。

 ためらうロトのために、主なる神様は、憐れみを示して下さいました。神様は、二人の御使いに、ロト、妻、二人の娘の手を取らせて、強制的な恵みにより、避難させて下さいました。

 神様の教えに触れ、ためらいながら迷う私のため、主は手ずから導いて下さる。このような御業がなければ、人はだれも救われるということがないのではないかと、思います。
 
「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」
  これもまた、聖書の教える真理です。命がけで逃れよ。この世のいざなう手を振り切って、振りほどいて命がけで逃れよ。世の力は、あの手、この手で、自分の所にたましいを留め置こうとしてきます。しかし命がけで、取るものも取らずに走り、逃れる。ここに私たちの信仰生活の秘訣を学ぶ思いがします。「低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」、イエス様も、さばきの預言の時に、山に逃げなさいとおっしゃいました。果たして紀元70年、ローマの軍隊がエルサレムになだれ込み、神殿は打ち砕かれ、都は陥落しました。中途半端に逃げずに、徹底的に、山の上まで逃げなさい。低い所にとどまってはならない。この言葉は、現実的なアドバイスでした。

 徹底的に逃げる。このことからも私たちは学ぶ思いです。世の中の怪しい誘い、いざない、これらから徹底的に逃げ、神様の懐に飛び込むこと。教えられます。

 しかしロトは言います。
「主よ、できません。 あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。 御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」

 神様のお守りが確かかどうかを疑う姿勢です。山までと言ったって、その間にやられてしまうではないですか。怖くて逃げられません。もっと近い所に避難所を用意して下さい。

 さっきまでは、ここは滅びると言われても、躊躇していたのに。いちいち、神様のおっしゃることに難癖をつけ、これはだめ、あれはだめと、駄々をこねるロトでした。私たちも、ここに自分の姿を見るのではないでしょうか。
  きっぱりと悔い改めをし切れずに、ああ理屈をつけ、こう理屈をつけ、悔い改めきれないで過去の習慣を残している。こんなことが、ないでしょうか。

 しかし、ここでも神様は、ご真実をあらわして下さいました。
主は言われた。「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。 急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」

 ロトのような、煮え切らない、緊張感に欠ける者をも救い出して下さる神様の憐れみ。主のご命令を差し引き、自分に有利なように交渉するような者をも忍耐して導いて下さる方、それが神様です。しかし、やっぱりソドムの町を離れたくなかったわと、後ろ髪を引かれて振り返ったロトの妻は、塩の柱になってしまいました。

 救われて、滅びの中から助けられてもなお、滅びいく生き方に憧れ、振り向いてしまう人間の心。人間の、罪に向かう心というのはどうしてこんなにも強いのでしょうか。

山の上に逃げよと言われても、低い町がいいと言ったロトでしたが、住みついてみるとその町ツォアルに住み続けることを恐れ、また山の上に向かうロト親子でした。神様の命じられることは最善であることを結果的に知らされる彼らでした。

「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」

 破滅の只中から救われたといえども、山の洞穴の中で暮らす3人。娘たちは父によって子種を得ると言い、酒に酔って近親相姦をさせられるロト。そしてこのあとイスラエルを悩ませる二つの民族が生まれます。そしてロトは旧約聖書から姿を消します。

 最後にイエス様がロトを例えに出して語られた御言葉をお読みいたします。

「ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、
ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。
人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。
ロトの妻のことを思い出しなさい。
自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」

私たちは、神様のご真実にただすがり、教会のお交わりにあずからせていただき、ひたすらに神様の道に生かされたいと願うのです。アブラハムとロト、彼らを分けた者はなんだったのでしょうか。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」この御言葉を心に刻みたいものです。

 

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