Warning: Undefined array key "HTTPS" in /home/tojokyokai/public_html/includes/head.html on line 16

説教原稿

2008年9月7日
「主の道を守り、主に従って正義を行う」
創世記 18章9-19節

 9月に入りました。

 この所、暑さがぶり返しました。少し前、急に涼しくなりました。秋の訪れを感じ、何かさびしい感じがいたしましたが、暑くなり、やっぱり涼しい方がいいと思いました。

 冬になれば氷点下、夏になれば40℃近くまでと、幅広く気温は変動しますが、人間の体温は、36度台の実にたった1度の中を行ったり来たりしています。それがさらに1度2度上がれば、熱で苦しくなりますし、1度2度下がれば、命に危険が及びます。人間の体って、本当に精巧に出来ているなぁと、思いました。

 いろんなこと、変動や、思いもかけないことが私たちを襲います。しかし、神様が私たちをご自身の作品として、傑作として、一人一人を作って下さいました。お母さんのおなかの中にいる時から、神様が最善に導いて下さっています。変動にめげないで、神様を見上げていきたいと、思います。

 神の使いがやってきておもてなしをする、そして驚くべきソドムとゴモラへの審判のご計画を耳にする。そして彼らのためにとりなすアブラハム。息子イサクの預言再び。サラは苦笑い。こんなところが今日の舞台、創世記18章の絵巻物です。

 今日もみ言葉から、私たちは、神様に取り扱っていただきたいと願います。

 「マムレの樫の木の所」、ロトは肥沃な所へ低地へ、アブラハムは反対の方へ。そうして住み着いたのが、アモリ人マムレという人の樫の木の傍らの地でした。主への祭壇を築いて住み着いたアブラハムは当初新入りのような身分だったでしょう。しかし、北からユーフラテス連合軍が攻めてきたとき、アブラハムは、マムレ達と連合軍を作り、北からの大軍を追撃し、大勝利し、その低地一帯から分捕られた者をすべて取り戻しました。アブラハムは時の人、英雄となり、ソドムの王はアブラハムを出迎えました。

 甥ロトのことがきっかけでしたが、アブラハムの取った行動により、周囲の人たちは大喜びしました。まさに「大いなる国民となり、祝福の源となる」大活躍でした。

 私たちクリスチャンも、お寺と神社の町の中にあって、主への礼拝一つ携えてこの世界にお邪魔しているようですが、私たちの真骨頂が発揮されるときが、必ずやってきます。私たちは、私たち自身に受けた恵みをきっとおすそわけ、分かち合う時が来るのです。

 私たちは、違う考えの方々、宗教、風土を持つ方々とともに生活し、触れ合い、そして時が至って、主の御名により、大活躍する時が来るのです。私たちは、キリストが仕えて下さったように、喜んで仕えます。キリストはおっしゃいました。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 マタイ20:25-28

 キリストは世界を作られた主ご自身ですが、進んで奴隷の役割を担って下さいました。イエス様は、たらいと手ぬぐいをもってこられ、弟子たちの汚れた足を洗って下さいました。砂漠地帯で、粗末な履物を履き、歩く人たちの足は砂だらけ、土だらけ、家に入るときに足を洗うのはもてなしでしたが、洗うのは、奴隷の仕事でした。キリストは、弟子たちの汚れた足を洗い、そして、世界に住むすべての人たち、私たちのために、最も汚い自己中心的な私たちの罪の心をきよめるために、十字架にかかって下さいました。

 さて、アブラハムの出来事に戻りましょう。

 主は、マムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。

 旧約聖書の中のイエス様です。

 熱い真昼でした。ゆらゆらと地面から熱気が昇っていくのが見えるような暑い日でした。彼は暑さにうなだれて、天幕の入口に座っていました。ボーっとしていたのでしょうか、ハッと気づいて目をあげると、三人の人が彼にむかって立っていました。

 三人の人と言いかえられています。読者には初めに「主」と種明かしされていますが、アブラハムがはっとして見上げた時には、「三人の人」と表現されています。これは、主キリストと、二人の御使いです。

 この当時、宿屋もなく、旅行をする際には、その地方の人がもてなすこととなっていました。持ちつ持たれつ。今度は自分が旅した時にはその土地の人々に迎えていただく。事情があるときには御断りもできますが、何とも素朴です。旅人は、自分が見聞きしたことを、迎えてくれた家で話しし、迎えた方も、見聞が広まるというものです。

 アブラハムはすぐに走り出て迎え、地にひれ伏し歓迎し、お客様、よろしければ、どうか、しもべのもとを通り過ぎないでください。水を持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞ一休みなさってください。何か召しあがるものを整えますので、疲れをいやしてから、お出かけ下さい。・・」

 彼は実に丁寧に、旅人を迎え、いたわりました。なにせ、暑い暑い日でした。アブラハムは、自分がしてもらいたいように、隣人に施すということを知っていました。

 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」ヘブライ13:2

 まさにこの御言葉のように、アブラハムは気付かずに、主と御使いをもてなしました。

 美しい出来事です。何か「日本昔話」に出てくるような話です。心優しいおじいさんとおばあさんはどうぞどうぞと客人をあたたかくもてなし、お礼といっても小さいつづらしか受け取らない。あとで開くと小判がざっくざく。強欲なおじいさんは、初めはダメダメと言って迎えもしませんが、小判をもらったおじいさんの話を聞くと血相を変えて客人を呼んで来て泊らせ、大きなつづらをもらうと中からはひどいものが出てきた…。

 おかしなたとえでしたが、私たちはふだん、どんな気持ちで歩んでいるか、問われるような出来事です。隣人の幸いを願ってそれを信条としているか…。
  昨日も、ニュースを見てびっくりしましたのは、あの毒入りギョーザのメタミドホスが入ったお米が出回っていたという話です。カビの生えたお米も洗って流通していたとか。問題ないと言われても、そのようなことを黙ってやる人を信用することは出来ません。
  昨日、東城支所で社会福祉協議会主催の「福祉のつどい」というのがありまして、行ってきましたが、そこでもやっぱり、騙されないように!という寸劇がありまして、お年寄りの方が、言葉巧みにカニやら健康食品やらを高い値段で買わされていました。

 本当に油断のならない世の中になってしまいました。人を見たら疑えというような世の中になってしまいました。

 そんな中だからこそ、自分にしてもらいたいように隣人に施すということは、値打のあることなのではないでしょうか。

 「アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。」

 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」ルカ6:38

 「情けは人のためならず」という言葉があります。情けある行動といいますのは、回り回って自分の所に帰ってきます。

 イエス様は、こうおっしゃいました。
  「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」マタイ25:34-40

 いつ私があなたを見舞いましたか? 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
  主の兄弟とは誰でしょうか。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」 ルカ4:18-19

 困窮し、助けのない方々。病の方々、立場の弱い方々。彼らを、イエス様は、私の兄弟と呼ばれるのではないでしょうか。そして、それらの方々に、良い行いをさせていただく時、それは「わたしにしてくれたこと」とイエス様は、おっしゃいます。イエス様は、目を行き巡らせ、困っている方々に目をやり、血を分けた兄弟のようにいとおしみ、それらの方々がいい目に合えば、自分自身がいやされたように喜ばれるのです。

 神様がこれほどに私たち人間の世界に注意していて下さる。困窮している一人一人を助けようとしていて下さる。これはなんと有難いことでしょうか。

 今日の個所の20節に飛びますが、こう書いてあります。
  「主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」

 弱いものが虐げられている。不条理がまかり通っている。蹂躙された人の叫び声…。それらは主の耳に届いています。

 それと知らずに人を傷つけるということもよくありますが、欠けのある私たちです。悔い改めつつ、それと知らずに主イエス様を喜ばせるような愛の歩みをしたいものです。

 さて、アブラハムから御馳走をたくさんもらって、主は切り出します。

 「あなたの妻サラはどこにいますか。」

 びっくりです。どうして妻の名を知っているのでしょうか。
  「はい、天幕の中におります」と答えました。すると、
「彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。」

 「どうして子供が与えられるというお話をされるのだろう。それはまさに私たちが願っても与えられないことだった。」
  アブラハムは、17章にありましたように、イサク誕生のことを神様から聞いていましたので、今ここにおられるのは主ご自身だということが分かったでしょう。しかしサラは、天幕の中でひそかに聞いていました。

 「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」

 サラもおそらくアブラハムから神様のお告げを聞いていたことでしょう。しかし、サラは、何度そのようなことを聞かされても、つい吹き出してしまうのでした。隠れたところにいたことも手伝って、サラは、そんなバカなそんなバカな!と心の中で繰り返していました。
  アブラハムも17章で、神様の御前でこの話を聞いたとき、ひれ伏して、顔が見えないところで笑って、ひそかに「百歳の男に子供が生まれるだろうか、九十歳のさらに子供が産めるだろうか」と思いました。
  アブラハムもサラも、「ひそかに」笑い、そして不可能と思いました。「ひそかに」とは、「心の奥底で」という意味です。はい、ありがとうございますと、元気に感謝しても、心の奥底で、どうもまだらに信じきれない心がある、そういう気持ちは、私たちもよく理解できます。新改訳聖書では二つのころと書いて「二心」という言葉がありますが、こういう心分かれる心情を意味するのではないでしょうか。

 13節、「主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」

 隠れたところにいて、こっそり笑ったのに。心の奥底でつぶやいたのに。主にはすべてがお見通しでした。
  「主に不可能なことがあろうか。」これは重く、力強い言葉です。イエス・キリストの母マリアにも、同じ言葉が語られました。「神にできないことは何一つない。」

 私たちもこの言葉を宝として、力強い、不可能なことはない神様によりすがってまいりましょう。

 アブラハムは、出かける主ご一行を見送って歩いていきました。すると、主はこうおっしゃいました。
  17節「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
  主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するため。

 主の道を守り、主に従って正義を行う。それは、神様を心から深し信じて、いつも私たちの前に主を置いて生きる歩みです。今の私たちであれば、いつもキリストにあって生かされるということです。み言葉に親しみ、キリストの生き方に生かされること。この生き方をして、自分を差し出し、キリストの御心に歩む時、主がアブラハムに約束なさった契約、アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入るという契約は成就します。

 滅びゆくソドムの町のためにとりなし祈るアブラハム。人類を愛する主のお心を頂いて、いよいよ世界の祝福のために歩む彼の人生でした。

 私たちも、世界を贖った主キリストの愛の心にいつも満たしていただき、この人生を確かな、意味あるものとしていただきたいと、心から祈るものです。

 

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2025 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.