説教原稿
2008年8月31日
「あなたの体に記されて永遠の契約となる」
創世記 17章4-13節
今日も、人とともに歩まれる神様のお姿から学びたいと思います。
前回は、エジプトの女奴隷ハガルとともにおられ、じっと見つめておられ、悩みを聞き、顧みを与えて下さる神様のお姿を学びました。
この出来事から13年。イシュマエルはすくすくと大きくなりました。
人の計画と神の計画。アブラムとサライは、自分たちの世継ぎがこのイシュマエルだと思って、力を注いでこの子を育てたことでしょう。しかし神様にはご自身の計画がありました。
アブラムが99歳の時、主は彼に現われて言われました。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。
わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
久しぶりの神様の語りかけでした。
主は全能の神。私たちはもちろん全能ではありません。欠けがあり、限界があり、失敗し、何かがあるとすぐにおろおろする人間です。ですから、私たちは、生ける神様に従って、歩む時、全き者となります。
冬と夏では、鉄道のレールは伸び縮みして、長さが異なるそうです。あんなにどっしりとしたものさえ、伸び縮みします。どんなに正確な時計でも、少しずつ、狂ってきます。ですから、電波時計というものがありまして、一日に何回か、「標準時」と呼ばれる時計を受信して、自分を正確に保ちます。
私たち人間の正しさというものも、どんなに自信をもっていたとしても、神様になぞらえていつも、修正していなければ、すぐにその尺度がまちまちになってしまいます。そして正しい者同士が自分の尺度でぶつかると、戦争になってしまいます。
聖書の初めから、この世界の初めから、生ける神として登場される神様。この全能の神様に従って歩むことこそ、人として、十全に生き続ける道です。
この神様の登場と、おっしゃることを聞いて、アブラムは、とっさに、神様の前に、ひれ伏しました。自分の語りたいこと、弁明したいこと、これらを一切放棄して、身を投げ出して神様の前にへりくだり、礼拝する態度です。さすがはアブラムです。私にも一言物申させて下さいという態度はとりません。
女奴隷、ハガルにとった態度も、妻に押し切られてのことだったとはいえ、本当にむごいことをしてしまた。神様の前に、非難されなくても自己内省をしながらの歩みでした。
いびり出されて泣く泣く泉のほとりに座っていたハガルを、神様が助けて下さって、いさかいの間を取り持って下さったのですから、間の悪い気持ちでいたことでしょう。
神様はさらに続けて、おっしゃいました。
「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」
もはやアブラムではなく、アブラハム。あなたを多くの国民の父とする。
「アブラム」とは、高貴なる父という意味でしたが、これが「多くの国民の父」となりました。
創世記12章では、地上の氏族はすべてアブラムによって祝福に入るとありましたから、多くの国民の父という意味合いはすでに含まれていました。
ここで神様は、多くの国民の父という名前をお付けになり、その最初の契約を一段と推し進めようと思っていらっしゃるように思われます。
しかし、名前が変えられる、ということは大きな出来事です。神様と格闘してイスラエルという名前を付けられたヤコブ、「岩」という名前を授かったシモン・ペテロ。
バプテスマのヨハネも、イエス様も、神様が直接命名なさったお名前でした。そしてイシュマエルもしかりでした。
名前は、その人そのものを物語ります。黙示録2:17には、白い小石のことが書かれています。神様の国に帰る者、勝利を得る者はこの白い石をもっていて、そこには、神様がつけて下さる新しい名前が書いてあると言うのです。非常に興味深いことです。私たちは、どのような名前をいただくのでしょうか。
アブラムが新しい名前をいただく、このことは、神様が彼に新しい生涯を用意していらっしゃるということを感じさせます。神様の祝福と恵みの計画を余すところなくあらわし、周囲を祝福し、「多くの国民の父」となることができるように。
そのために必要なことは、「全能の神に従って歩み、」そうして「全き者」とされることです。
同様に、神様が、私たちをお召しになり、導き、用いて下さるということは、周囲の多くの方々の祝福の土台となるためです。
心揺らぎ、神様のご計画の通りに歩まず、神様のご計画の通りに歩めず、ホースが詰まったような状態に陥ることもあります。しかし神様は、新しい名前を与え、期待をかけ、私たちを通して、「多くの国民」に祝福を与えたいと願っておられるのです。
私たちに与えられた新しい名前、それは、「クリスチャン」であります。これは素晴らしい名前です。「キリストに似る者」という意味です。
私たちの個性はどうあれ、十把ひとからげにクリスチャンと呼ばれるのでしょうか。いえ、一人ひとりの個性に従って、イエス様が高めて下さるのです。イエス様の12弟子も、様々の性格の集まりでした。しかし、イエス様に触れられて、彼らは一人一人、変えられていきました。
主を信じない、サマリアの人たちのために火が下るようにと願った(ルカ9:54)、「ボアネルゲ」(雷の子)と呼ばれたヨハネは、のちに愛の人となり、ヨハネの手紙は、「愛」という字にあふれています。ペテロも、情の深い人でしたが、時々とんちんかんな事をしました。十字架の意味が分からずに、主よ、とんでもないと言い、下がれサタンと言われてしまいました。主の十字架の前夜、最後まで主の近くについていきましたが、3度主を知らないと言ってしまいました。しかし彼も、再び主と出会い、今度は他の人が彼に帯をして、殉教の死を遂げるまで、果敢に主の道を歩む者とされました。
高貴な父から、多くの国民の父へ。思えば、神様にとらえられた人というのは、その人生は、「自分の人生」から引き出され、「人々のための人生」に変えられています。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 ヨハネ12:24-26
自分の人生が、自分のものであり、自分のためだけにあると思いがちです。しかしそれではわびしい人生です。しかし、自分を明け渡して、損をしてもいい、自分のメンツが失われてもいい、自分が捨て石になっても構わない、こう考える人は、自分という麦を地にまき、地の中で死んで、後になって多くの実りを刈り取る人です。
種イモをまき、豊かに実ります。種イモは、皮だけで無残な、カスカスになった姿をしています。しかし種イモは、多くの収穫を導いて、満足します。一方、収穫の少ない株を引っ張ると、種イモはしっかりとしていて、固い実を残しています。しかし、収穫をもたらさず、種イモも半分腐って食べることが出来ません。
高貴な父から、「多くの国民の父」とされたアブラハム。神様からそんな期待を受けていたのではないでしょうか。
「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。6 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。
7 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。
8 わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」
9節、神様はまた、アブラハムにおっしゃいました。
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。10 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。11 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。12 いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。
13 あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。」
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。」
今まで神様は、契約の時、一方的な契約、一方的な恵みの契約を与えておられました。しかしここでは、「あなたも、私の契約を守りなさい」とおっしゃいました。
それが、割礼の契約です。
男子の陰部の包皮を切り取る。これには、どんな意味があるのでしょうか。
部族・種族の記号としてか、衛生上のことか。割礼は、パレスチナ、エジプト、エチオピアの民族的な風習でした。神様は、人に分かるそのような方法を用いて、ご自身の契約を目に見える形でも、霊的な形でも、教えようとなさいました。
包皮を切り取るということは、自分の身の一部を切り取るということです。痛み、血が流れます。そのような痛みとともに、自分自身を神にささげる、そのような意味があるのではないでしょうか。
家で生まれた奴隷、外国から買い取った奴隷も等しく割礼を受けるということは、神様の契約に、奴隷も、異邦人も加えられることであり、救いがすべての人に開かれていることを示しています。
男性がこの契約を負うということは、神様が、男性に責任を負わせ、女性に罪の責任転嫁をしないようにと諭しているようにも考えられます。
そして13節、「わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」とあります。移ろいやすい人間も、自分の身に、痛みの経験とともに、ずっと身から離れずに、神様の契約を覚えることができます。
そしてこの割礼は、新約聖書において洗礼に形を変えていきますが、そのためにイエス様が身を投げ出して下さったのは、言うまでもありません。
自分の体の一部を捧げて血や痛みを伴う割礼でしたが、イエス様は、体といのちのすべてを捧げて下さいました。
男性だけでなく女性でも、イエス様による新しい契約を信じるだけで、救いの契約をいただくことができ、世界中のどんな人でも、信じるだけでこの契約にあずかれるようにしてくたさいました。
男性といえども責任を果たすことができず、罪の中に座り込んでいましたので、神様が男の子を人の世界に送り、救いの契約のしるしとして下さいました。神われらとともにまします「インマヌエル」のしるし、イエス様は、人の歴史の中に刻まれ、輝き続けます。
15節、アブラハムの妻サライもまた、新しい名前を受けました。サライとは、「私の王女」という意味でしたが、新しい名前「サラ」は、「私の」という言葉が取れて「王女」という意味に取れます。アブラハムの王女から、多くの人たちの王女になるという意味でしょうか。
「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」
アブラハムを諸国民の父として、サラを諸国民の母とするという神様のご計画は、アブラハムとサラとの子供によって実現されるという神様のご計画です。
アブラハムはひれ伏し、神様のご計画に従う態度を示しましたが、しかしその信じがたい現実に、思わず失笑してしまいます。彼はひそかに、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」
神様は不思議な御業をなさいます。不思議とは、思いもつかないという意味ですが、それがワンダフル、思いもよらずに素晴らしいことなのです。
高齢のエリサベツに赤ちゃんが宿った。そして、処女マリヤに御使いが現れてご計画が示された。いつも神様のなさることは不思議で、素晴らしいことです。
大嵐に向かって、「黙れ静まれ」と言葉をかけ、自然を従わせる方。五つのパンと二匹の魚から何千人を養う方。死からよみがえられた方。全てがワンダフル、不思議なことです。
イザヤ9:5「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」
驚くべき指導者とは、英語でいえば「ワンダフル・カウンセラー」です。事柄を不思議と不思議と、最善に導かれる方です。私たちは、先のことが分からなくても、神秘をつかさどられる方に信頼していれば、ことは不思議に解決へと導かれるのです。
思わず笑ってしまうような神秘の御業。そしてそれがかなえられて本当に感謝の笑いに帰られる。やがて与えられる子供イサクという名前は、「彼は笑う」というものでした。
私たちも信じられないような、神様の不思議なご計画にあずかることができます。そのために、私たちは、冒頭の神様のお言葉をしっかりと心に刻みましょう。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」
アブラハムは、神様に言われた通りに、自分から始まって、すべて家にいる男子を集めて、割礼を施しました。
今私たちのためには、ワンダフル・カウンセラーであるイエス様が、釘打たれた両手を伸ばして、おっしゃっています。
「私はあなたがたのために苦しみ、身を捧げて、罪の代償を支払った。だから私を受け取りなさい。そして、私から学びなさい。私についてきなさい。私が、あなた方を、実り多い人生に、導いてあげよう。」
どんなときも、私たちの悩みを聞き、顧みて下さるイエス様を信じて、この方とともに、歩んでいく幸いを手に入れようではありませんか。
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