説教原稿
2008年8月24日
「主があなたの悩みをお聞きになられた」
創世記 16章6-14節
私たちは、創世記を読み進めてまいりました。
今日は第16章です。創世記は全部で50章ですから、ここで全体の約3分の1が終わります。
もう一度創世記を少し振り返ってみましょう。
最初の5章では天地創造、そして人間の罪が描かれ、そして次の5章では、洪水から、ノアの箱舟と、世界の再創造が語られていました。
しかし11章では再びバベルの塔のような、罪の出来事が記されます。
そして12章、アブラムが登場します。
それ以来、ずっとアブラムのことが、記されています。「わたしはあなたを大いなる国民にし、祝福の源とし、地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」とのお約束、祭壇を築き礼拝、しかしエジプトに入り、妻を妹と偽った話。しかし再び礼拝し、力強く甥ロトを助けるアブラム。そして先週はまた、神様の励ましの言葉です。アブラムの目の前でいけにえの間を臨在をもって歩かれる主。
神様は、いつも離れずに、アブラムとともにいて下さいました。
そしてアブラハムが175年の生涯を閉じるまで、創世記の25章に至るまで、彼の生涯は、この書にずっと記されています。13章にわたって。アブラハムが登場するまでの人間の不確かな歩みを見て、神様がぐぐっと、本腰を入れて人と向き合われたということでしょうか。否、神様は、世界の初めから、それはそれは大変良いものを作り、人と熱心に向き合ってこられました。
神様は、アブラムを、私たちに至る信仰者の父として備えられ、人類のかしら石のように、信仰義認のモデルとして、据えられましたが、彼も、それでも完璧な人ではなかったようです。
エジプトでの失敗から立ち直り、ロトを勇敢に助け、これでご立派と思っても、また失敗を犯してしまいます。今日の女性の間の騒動もそうですし、20章ではまた妻を妹と偽ります。甥のロトも、ソドム、自分の住んでいるところが滅ぼされると言われているのに、そこにとどまりたいような雰囲気で、神の御使いに手を引かれてやっと脱出しました。
今日を生きる私たちが、何を学ぶべきか、読み進めてまいりましょう。
「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。」
神様から13章、15章と、二度にわたって子孫の約束をいただいたアブラムでしたが、カナンの地にやって来て10年、未だその約束は果たされていませんでした。
アブラムは85歳、妻サライは75歳です。
私たちは約束されていることがなかなか実現しない時、どのように思うでしょうか。その約束が本物なのか、ちゃんと実現するのか疑わしくなってくるのではないでしょうか。
聖書には、こう書いてあります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
へブライ書11:1
ある日、サライは夫アブラムに言いました。
「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」
「主はわたしに子供を授けてくれません。」
とうとうサライは、しびれを切らしてしまいました。アブラムに子孫を与えるという神様のお約束。しかし産むのは自分だとは明言されてはいない。習わしに従って、自分たちの奴隷から子供を産んでもらい、その子を世継ぎとすればいいではないか。
それは当時の習わしとして、なされた方法でした。しかし、「主はわたしに子供を授けてくれません。」と決めつけてしまうのはいかがなものでしょうか。
しかし、この妻の申し出に、アブラムは同意しました。ちょうど食べてはならない木の実を妻から渡されて食べたアダムのようにです。
妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れてきました。
ハガイはアブラムの子供を宿しました。「ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。」何という変わり身でしょうか。
ハガイは、よく気の付く、サライのお気に入りの奴隷だったのではないでしょうか。気に入らない反抗的なしもべにわざわざ大役を任せるようにも思われません。エジプト出身ということですから、あのかつてのエジプト滞在中からのしもべかもしれません。帰るところもなし、よく仕えていたことでしょう。
しかし子供を得るや態度が一変、さあどうだ、私は世継ぎの母だ、アブラムにとって本当に必要なのはわたしであって、あなたではない、こんなことになったのでしょうか。
ハガイはすべての人の前で尊大になったというよりも、ここで「女主人を軽んじた」とありますから、妻サライとの確執が始まったことが分かります。
サライはかんかんになって、アブラムに言います。
「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」
「あなたのせいです」とすごむサライでした。自分のアイディアで、自分で連れてきたハガイだったのに、あなたのせいですとは、どういうことでしょうか。
「わたしが不当な目に遭っている」ということ、それは、自分の「立場が」不当に脅かされているということでしょうか。
やはり聖書は、一夫多妻を説いてはいません。ヤコブの12人の子のこと、とりわけヨセフが愛されいじめられたことと、一夫多妻も関係があるように思います。
「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」
あなたが余りに子供嬉しい嬉しいで、ハガルをちやほやするからこんなことになるんだわ。主が私とあなたとの間を裁いて下さいますように、主まで引き合いに出したけんか騒ぎになりました。
アブラムはほとほと手を焼いて、「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」と言いました。
神様の御心と思いわざわざ設けた側女であり、子供だったのではないでしょうか。しかし、このアブラムの好きなようにするがいいという言葉により、サライはハガイにつらく当たり、とうとういびり出してしまいました。
ハガイにとっては半分は身から出たさびではありますが、アブラムとサライにしても、あまりにも自己中心的、まさしく自己中心的であります。今回の計画が、神様から出たものではなく、そのような尊敬も払われず、ただ人から出て、人によって白紙にされている、そんな人間の営みであったことがここでついにばれてしまいました。
私たちも、考えさせられます。いかに考え、信仰深く行っているようでも、本当にそれは神様が望んでおられることなのか。考えさせられます。
やはり、祈り、待つということでしょうか。神様の確かなるお導きをただ待ち、祈っていればよかったのに、策を弄するからこんなことになって…、私たちはそう、眺めますが、私たちも似たようなことをしてしまうことがあるのではないでしょうか。
しかしこの期に及んで悲惨なのは、ハガイでありました。遠くエジプトから連れてこられ、忠実に働き、認められて子を宿し、しかし今は、放り出されておなかの中の子とただ二人、砂漠の土地をどこへ行こうというのでしょうか。
「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、
言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」
シュル街道。それは祖国エジプトに通じる道です。しかし帰りかけてもその道は遠く、ハガルは歩くすべもなく、ただくずおれて泉のほとりに座っていました。
主の御使いは、「どこから来て、どこへ行こうとしているのか」と聞きました。どこからきたかの問いには、「女主人サライのもとから逃げている」と答え、どこへ行こうとしているのかは、答えがありません。
主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
奇しくも「女主人サライ」と答えたハガルでした。自分の来たところ、女主人のもとに帰りなさい。従順に仕えなさい。そう諭す主の御使いでした。
主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
御使いの言葉ですが、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」とは、神様ご自身のおことばのように思われます。主!あなたはずっと私を見ておられたのですか!
あの暗澹たる思いでとぼとぼ歩く、主の弟子たちに表れて下さったエマオへの途上の出来事。
家の戸に鍵をかけてびくびくしていた弟子たちに表れて「平和があるように」と祝福して下さった主。
一晩中漁をして何も取れず、むなしい明け方、湖のほとりに立って、お言葉をかけ、再び大漁の奇跡を見せ、食べるものを用意していて下さった主。
主です。エジプトへ帰る遠い旅路。泉のほとりに座り、これからどうするのかため息をつく異国の女奴隷。主人からいびり出されてしまった。これからどうしよう。
じっと見ておられた主。
ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。エルは神、ロは見る、イはわたしを。エル・ロイ。私を見ている神。
ベエル・ラハイ・ロイ、「生ける方が私を見ていて下さった井戸」。ハガルは、絶体絶命の場面、孤立無援な場面が、実はそうではなかった、生ける神様が、私を顧みて下さっていた、このことに喜びました。
「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
つらい辛いことではないでしょうか。いびり出されたところにどうやって帰っていけるというのでしょうか。
主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから
あなたの子孫を数え切れないほど多く増やすから。あなたには将来があるから。そしてその子の名前をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになるから。
シュマは聞く、エルは神様、「神様は聞いて下さる」という意味です。一つ一つの悩み事をこれからも神様は聞いて下さる。あなたはその子ゆえに自分を主人の身分と同じくするような傲慢を行ったが、これからはその子のことを思うごとに、私のことを思い出しなさい。その子は、「わたしはあなたに聞く」ことのしるしなのだから。
神様は、ハガルに向き合い、励まして下さいました。
イエス様のことを思い出しましょう。イエスさまこそ、この世界の人々に憎まれ、いびり出されるために、殺されるために来て下さったようなものです。孤立無援、最後の弟子までも、主から離れていきました。そして空が暗くなり、父なる神からも切り離されてしまうような、この上ない恐ろしさを経験なさり、死んで、よみにまで降られました。
イエス様は、苦しんでいる人の味方となって下さいます。人知れず悩んでいる人、虐げられている人と、共にいて下さいます。
「主はあなたの悩みをお聞きになられた。」「あなたこそエル・ロイ、私を顧みられる神。」
ハガルはただ神様により、勇気を授けられ、心砕かれ、従順に女主人に仕えるために戻っていきました。
そして彼女は男の子を産み、アブラムはその子を主のおっしゃった通りに、イシュマエルと名付けました。
このイシュマエルからアラブ民族が生まれました。その中からムハンマド、モハメッドが出て、イスラム教が出来、後にアジアの教会、エジプトの教会がイスラム教に塗りかえられていきました。
「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
神様はどうしてこの世の中に色々な思想信条による宗教戦争をお赦しになるのか、キリスト教も、イスラム教と闘っているではないですか、こういう質問をよく耳にします。しかし、神様ではなく、人、他ならぬ私たちが、ボタンを掛け違えているのです。素晴らしく良きに造られた世界の中で、問題を複雑にしているのは、私たち自身であります。
1何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。
2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。 ヤコブの手紙4:1-3
私たちは、人間の努力で色々な政治体制を築いてよい世界を作ろうとします。しかし人の罪の問題を解決しなければ、いっさいは水の泡です。
私たちは、いつも見つめて守り導いて下さる私たちの主のご支配にただ身をゆだね、キリストの命に生かしていただきたいと願ってまいりましょう。どんなにりっぱなアブラムのような人でも、いざ自分の力では何一つできず、問題をより困難にすることしか出来ません。
しかし、私たちの生命線は、キリスト、自分に死に、キリストにあって生きるということなのです。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 ガラテヤ2:20
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