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説教原稿

2008年8月17日
「わたしはあなたの盾である」
創世記 15章1-6、17節

 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ2:14
  平和ということを深く考える時を過ごしております。

 シャローム、イスラエルの方々の、こんにちはという挨拶は、「平和がありますように」という意味合いを持っています。
  戦いの続く地域では、平和というものが何よりの価値をもちます。しかしつきつめますと、私たちがまず第一に、平和を求めるべきは、神様と人との間の平和なのではないでしょうか。

 神様との間に平和、正しい関係が築かれるために、イエス様は、来て下さいました。シャロームをつくりだすために、人の間に、神様の平安が充ち溢れるように。ですから、イエス様の誕生の時に、「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と、天の使いが高らかに賛美しました。

 「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9

 神様からくる赦しと恵み、お守りを私たちはこの体いっぱいに受けて、平安を取り次ぐ、救いを証しするしもべとして、平和を実現する神の子として、歩ませていただきたいと思います。

 今日も、御言葉から、神様の恵みについて、学びましょう。

 甥ロトが遠くメソポタミアの連合軍の攻撃を受け、捕虜とされた、この知らせを受け、神様のお守りを固く信じて、敢然と立ち向かったアブラハムでした。その結果、神様のお守りによって、奇襲攻撃は大成功し、逃げる敵を追いかけ追いかけ、奪われたものをすべて取り返しました。

 祭司メルキゼデクや、ソドムの王に出迎えられての凱旋でした。

 戦い終わって、15章に入ります。

 1節、これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

 恐れるな、アブラムよ、とあります。
  アブラムは、あの連合軍にもひるまずに立ち向かい、大勝利したのに、何に対して恐れていたのでしょうか。

 神の戦い。自分の力の限度をはるかに超えた、主の戦いでありました。多くの人は、アブラムの目覚ましい功績に対して、目がまばゆいばかりに見つめました。
  しかし彼には、分かっていました。これは、主の戦い。自分にとっては、主を信じてどこまで従えるかという、信仰の戦いであることを。

 ですから、祭司メルキゼデクがやってくれば、惜しまずに最上のもの10分の1をささげ、ソドムの王にも、いっさいのものを無条件に返すという、無欲な決断をすることが出来ました。

 しかしここにきて、恐れ。いったいどうしたというのでしょうか。

 預言者エリヤが、邪悪な王アハブとその妻イゼベルと戦った時のことを思い出します。主の預言者を殺す彼らの前に、主の命令によって姿を現すエリヤ。そして、イゼベルは、450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者を送り、エリヤの神と、バアルの神と、どちらが正しいか、力比べが行われました。(列王記 上 18章)

 見事勝利をおさめたエリヤ。しかし、戦いに負けて起こったイゼベルは、エリヤに対して、新しい刺客を送ると断言します。それを聞いたエリヤは、逃げまどい、くたくたになってしまいます。そこに、主が食べ物と休息とを与え、エリヤは元気づいてまた歩くことが出来ました。

 預言者といえども人間であります。先ほどは、何百人という、偶像の神の預言者との戦いに大勝利しても、はたと、自分の身に危険が及ぶと、尻込みしてしまう。そんな弱さをもっているのが人間です。
  偉業を成し遂げた後の、心の空虚と言いますか、孤独感というものもあると思います。

 アブラムも、大きな戦いに勝ちました。しかしこれからどうしていくのか。あの連合軍は反撃してこないだろうか。近隣の王たちと、これからはどのような距離感でやっていくのか。
  大勝利の後、ふとまた一人になって、彼はまた、色々なことが気がかりになってきました。
  そんな中、神様は、語りかけて下さいました。
  「わたしはあなたの盾である。」
  盾と言いますと、戦いの武具です。道具であります。盾と、盾を持つ人とは、どちらが重要でしょうか。言うまでもなく、持っている人が大切です。
神様は、ご自身をそのような道具にたとえて、自分が剣でも、弓矢でも、何でもあなたの代わりに受けてやるから恐れるなとおっしゃいます。

 わが子のためならばと、危険を前にして、子供の前に立ちはだかって、愛するものを守る母親、父親のような姿です。

 別の個所で、神様は、愛するものを目の瞳を守るように守られると書いてあります(申命記32:10)。

 目は、ことのほか、大事な器官ですから、私たちは、目の方に何かが飛んできたら、反射的に、手をかざしてそれをよけるということをしています。
  神様もそのように、私たちをことのほか大事なものとして、ご自分の手で取り囲んで、盾となって、私たちを守っていて下さるのです。

 私たちよりはるかに偉大な神様が、私たちのために、そうして下さる。それは偉大な神様が、私たちの創造者、父なる神様であるからにほかなりません。

人生の荒波、苦難、孤独の中、自分に降りかかってくる忌まわしいものに対して、誰も、なんにも助けてはくれないと思う時、この言葉を思い出していただきたいのです。
「わたしはあなたの盾である。」

 盾は傷付き、へこみ、最初の美しい姿はどんどんと変わっていきます。しかし盾が傷付けば傷つくほど、その傷は、盾にとっては勲章のようなものです。盾はそれだけの向かってきた危険を、盾の持ち主に代わって受けたのです。
  盾がなければ何回も受けたであろう傷を、盾は黙って受け続けてきました。

 イエス様の十字架の贖いをも思い起こさせる、主のたとえであります。満身創痍、頭にはいばら、背中には鞭で打たれた傷、手足にはくぎで刺し貫かれた傷、脇腹にはやりで刺された傷。

 イエス様は傷だらけになり、いのちを与えるまでに私たちのために、歩んで下さいました。それは、その背後にあって、私たちが受けなければならない傷でありました。私たちが過ちの代償として支払うべき命でありました。しかしイエス様は、それらを、自分の身をもって、差し出して下さいました。
主のお守り、それが今日の第一のテーマです。

次に、信仰であります。

アブラムの子孫は豊かな祝福を受けると約束されていても、彼には実の子がありませんでした。そのことをアブラムは主に尋ねると、5節、

5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

町の明かりも空気の汚染も、何もなかった当時、星空は、どんなにきれいだったことでしょう。またたく満面の星空。
数え切れない宝石のような星々を見て、あなたの子孫はこのようになると、約束されたアブラム。
そして、何の確たる保証もないまま、そのまま額面通りに信じる、子供のようなアブラムでありました。
そしてこのただ信じて、そのゆえに義とされたという個所は、信仰義認、人は信じることによって神の前にただ受け入れられるという救いの教えの始まりなのです。

信じるということ、これは簡単なようで難しいことかも知れません。
トマスのような人であったら、にわかに信じることができなかったかも…。イエス様の弟子たちも、群衆の前でパンを買ってきなさいと主から命じられ、こんなところでいったいどうやってパンをまかなうのでしょうかと尋ねました。

しかし、実は、信仰と言いますのは、難しいものではありません。
信仰とは、語る相手を信頼して、そうおっしゃるのなら、信じておすがりしてみたいと思いますという、心の気持ちだけで十分なのです。

子供のようにならなければ神の国には入れないとありますが、子供のような気持ちでいいのです。
今信じると言ったから、これからはその通りに矛盾なく生きていかなければとか、先回りするのが大人の考え方です。

子どもは、今自分の前にいる人がいい人かどうかを瞬時にわきまえて、信頼できると知ったら、本当に疑いなく、どこにでもついていくという柔らかい心をもっています。それゆえ、ずるがしこい大人に騙されるということがあるかもしれません。

 しかし神様は、ご自分のひとりごさえも与えるほどに、私たちを愛して下さる、私たちの創造者でいらっしゃいます。ですから、私たちは、子供のように、この方にどこまでもついていくことができるのです。

 しかし信じたからと言って、何も考えずに、ただ跡をついていくということではありません。

 アブラムは、私はあなたの盾であると、自分を大事に守って下さる神様を信じ、今後のことは、主の約束のままと信じようと、直ちに思いました。しかし、そのあと8節、彼は信じきった上で、神様に、「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」と尋ねました。

親と子の会話を例えにお話ししましょう。「いつも頑張ってるね、今度ご褒美をあげようね」と語る父、子供は嬉しくなって、「え、何をくれるの」と飛び付きます。「これこれをあげようね」と父。「え、それ!欲しかったんだー、でもほんとにくれるの?」と子供。「前も、これこれを買ってやったじゃないか」と父。「ほんとにくれるのー」というこの言葉は、疑いというよりも、期待の大きさを表しています。

アブラムも、目の前の約束が、余りに素晴らしいものであったがゆえに、それを与えて下さる方が真実な方であることには疑いがなくても、その素晴らしさが信じられないという心境でしょうか。

主は、「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」とおっしゃいました。
ここが今日の第3のテーマです。
10 アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。

これは当時の契約の時の習わしです。動物を二つの裂いて分けて置き、その間に道をつくり、約束した人は、その分けられた動物の間を歩く、というものです。

どういう意味でしょうか。
それは、約束した人が、もしもその約束をたがえたならば、自分がその間を歩いた動物たちのように、自分の体が二つに切り裂かれても構わない、という意味です。
  生々しい、気味の悪いような契約です。しかし、それはそれは、厳粛な誓いです。この習慣のせいか、その後も、ヘブライ語では、契約を結ぶことを、「契約を切る」と表現します。

 神様のほうから、人はどうかに関わらず、祝福の契約をもちかけて、その契約に調印して下さる。あれもこれも、あなたのためになるいいことを考えておいたからね。もう、サインもしてあるし、後は、あなたは、ただ待っているだけだよ。
  神様は、このようにして、恵みの契約を私たちに与えて下さいます。

 エジプトに奴隷状態になり、カナン地方に帰ってくるという預言の後、17節、「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」とあります。
  神様のご臨在が確かに、二つに裂かれた動物の間を進まれました。

 神様でありながら、人の習慣を使って、分かりやすく、厳粛な、自分の命に掛けて誓うという、誓いを立てて下さる。このことに大変な驚きを覚えます。

「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、
19 カイン人、ケナズ人、カドモニ人、
20 ヘト人、ペリジ人、レファイム人、
21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」

エジプトからユーフラテスに至るまで。広大な領土です。
やがて、この約束は果たされ、ソロモンの大帝国が築かれました。

父と子の会話のごとく。母と子の会話のごとくです。

私たちのためにも、盾となって身をかばって下さる神様がいらっしゃる。うん、ありがとう、本当にそうなの?と、私たちが子供のように何の身がまえもなく尋ね、信じていけるお方がいらっしゃること、そして、破れば身が切り裂かれるという厳粛な誓いをさえ、私たちのためにして下さり、末広がりの人生を約束して下さる方がいらっしゃるということ。このことを今日私たちも、信じたいのです。

私たちのために神様が、全力で祝福し、守り、導いて下さること知って、感謝しつつ、私たちは今週も、愛のご奉仕をさせていただきたいと、願うのです。

400年の奴隷状態。そんな暗闇があってもなお、「その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」とのお言葉があります。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」Ⅰコリント10:13

神は真実な方。今週も、全く先のことは分かりませんが、盾なる方に心から信頼し、歩み出してまいりましょう。

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