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説教原稿

2008年7月20日
「主の力を引き出す信仰」
マルコによる福音書 5章25-34節

 昨日はゴスペルコンサートが行われました。嶋田さん、尚玄さん、お二人のご奉仕に心から、感謝いたします。
お二人の証しを伺いました。その中で、イエス様との出会いの素晴らしさが語られていました。
  イエス様の愛によって、自分が常に守られ、良い方に導かれているという安心感を感じ続けることができた。宗教って、自分の努力と信心がすべてだ、では、到底やっていけないけれど、イエス様の方から私たちの手を取って下さる。
  やはり福音はすばらしいなぁ、ゴスペルコンサートはすばらしいなぁと、思いました。そのお証の中で、生けるキリストと出会ってこられ、今もイエス様が心の中で生きていて、イエス様への感謝があふれ流れてくる、そういう実体験の生きた賛美は、人の心を打つものです。
  今度はいつ帰国されるのか、今から待ち遠しいような気がしています。
  私は、アンパンマンのお話をさせていただきました。いつも行き巡り、困っている人を助けてくれるアンパンマン。おなかがすいていれば自分の顔を与え、身を張ってばいきんまんから助けてくれます。
「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」ヨハネ6:33 イエス様はご自身を、いのちのパンとおっしゃいました。
  アンパンマンの作者やなせたかしさんは、クリスチャンです。アンパンマンは、自己犠牲の精神のシンボルとテレビ番組で言っていましたが、私は、アンパンマンを見るたびに、イエス様を思います。
  あなたの幸せをいつも願っているよ、あなたがひもじいのなら、さあ、私を食べなさい、私が命のパンだから。私が生ける水だから。空腹になり、のどが渇き、心が空虚になることはもう永遠にないよ。私が食べ物となり、飲み物となって、あなた方のうちに入り、いつまでもあなたがたととにいるのだから。安心しなさい、もう大丈夫だよ。罪のためには、十字架で贖いをしておいたからね。もうあなたを責める者は一人もいないんだよ。
  イエス様は、私たちの幸せをただ願い、すべてを与えて、十字架に着き、私たちをすべて、天のお父様のもとへと、導いて下さるのです。
  イエス様は、愛の金太郎飴のような方です。イエス様は、愛そのものです。私たちは、人生の歩みの中で、もうこれ以上歩けないのではないかというような、挫折を味わう時もあるかもしれません。しかしそのような機会を通して、もしも、イエス様に出会うことができるのなら、それはすばらしいことです。
今日も私たちはみ言葉をいただき、そのなかからイエス・キリストに出会いたいと願うのであります。無限の愛がイエス様から流れ出ています。イエス様に触れるひとは、大きなエネルギーをいただくことができるのです。
 
今日の箇所は、一人の病気の女性へのいやしを扱っています。この記事の前後には、いやしと奇跡を行う主の姿が何度となく描かれています。ヤイロという人の娘を生き返らせるという奇跡、また、前の章では35節から、ガリラヤ湖で激しい突風が起こり、舟に乗っていた弟子たちがおぼれそうですと悲鳴を上げますと、うたたねをしていたイエス様がやおらと起き上がり、風と湖をしかるとすっかりなぎになったという出来事が記してあります。弟子たちは風や湖さえ従うというこの方はいったいどなたなのか」と語り合うのでありました。

湖を渡るとそこでは悪霊にとりつかれた男がやってきますが、イエス様が「汚れた霊、この人から出て行け」と言うと、霊は出て行き、この男は正気に戻ったといういやしをなさいました。そしてもう一度湖を渡って岸にあがられたところ、それが今日の舞台です。

 弟子たちは奇跡に触れ、「いったいこのお方はどういうお方だろう」と言い合いましたが、イエス様の奇跡の記事に触れるとき、私たちは、イエス様はこの世界の主であられると言うことを知るのです。主はそのお力を持ってこの世界をご支配するお方であると言うことを知ります。

 私たちの間にこのような主がともにいてくださるとは何と言う幸いではないでしょうか。主イエス様がこの地上にこられ、人々の病や苦しみ、恐れを取り除いてくださる方であると言うことを見るときに、感謝です。時におぼれそうです、助けてください、と叫ぶほかないような、無力なわたしたちの人生と言う舟の中に、主は乗っていてくださるのであります。私たちが叫びの声を上げるなら、主は聞いてくださるのであります。このように私たちの人生のためには力強い主がいつもともにいてくださると信じるのが信仰であります。私たちは主をこの目で見たことはありませんが、聖書を通して、この方は生きておられ、私のために十字架にかかって死に、よみがえられた救い主であることを信じているのであります。
  今日も、私たちを救ってくださる神様の御業に目を留めたいと思います。

25節、 「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。」
 
今日のみ言葉の箇所には、12年間にわたって出血の止まらない婦人病に苦しんでいた女性が登場いたします。旧約聖書レビ記15章によれば、このような病を持っている人は「汚れている」とされ、人々との接触を絶たれ、礼拝にも出席できなかったようです。
  そのように、汚れを宣告され、交わりから絶たれる上、なんにしろ出血と痛みを伴い、常に命の危険にさらされていたこの女性は、なんとしてでも治療したいと思い、方々の医者を訪ねました。

 26節、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」

人目を気にしながらも、病気を押して、いろいろなところに出て行って、お医者というお医者を訪ね、治療を試みました。しかし回っても回っても、いろんな薬をもらったり、背中をさすったりしてもらっても治らず、一年、また一年と時が過ぎていきました。あらゆる治療法を試し、また時には迷信めいた治療法さえ試して、あらゆる手段を尽くしました。

しかしお医者さんの中には、このように苦しみ、人から汚れている者としてのけ者にされて苦しんでいるこの女性を食い物にして、一生懸命治したい一心のこの女性をだますようにしてお金を巻き上げるような人もいました。甘い言葉で「治る、治る」と言い、「治りたいんでしょう、治りたくないんですか」と、巧みにこの女性の気持ちを操るような人もいたことだと思います。
 
いつもずきずきとおなかが痛み、腰が痛み、時に出血で立ちくらみがし、意識が朦朧とし、青い顔をし続けて12年。明日は治る、この薬なら、このお医者さんならきっと治ると信じ続けて歩んできたけれど、あれだけ大丈夫だから治るからと言ってお金を払わされ高い薬を売りつけておきながら、結果はぜんぜん効き目なし、むしろ病気は悪くなるばかり。あんな立派そうにいってたのに。あんなに偉そうに直せるっていっていたのに、何がお医者だ、何が治せるだ、みんながみんなペテン師じゃないか、ああまただまされた、と言って涙に暮れる日々だったのです。
 
体は苦しい、親しい友達もいない、お金もすっかり使い果たしてしまった、礼拝に行って心の慰めを得ることもできない。ユダヤ教の集会から締め出されると言うのは即社会から締め出されるようなものです。人々の仲間に入ることもできない。このように、この女性は身体的にも、社会的にも、経済的にも、宗教的にも、すべてにおいて見放されてしまっていたのです。どこにも慰めが見出されず、どこにも希望の光が見出されない。まさに八方ふさがりの状態でありました。この女性の12年間というものはどういうものであったでしょうか。つらさ、苦しみ、さびしさ、怒り、恨み、絶望。この女性は、たった一人でこの孤独に耐えてきました。

 そんな中、彼女はイエス様のことを聞くのであります。「この方にあっては、どんな病気も治していただけるぞ、さあ行こう」、こんなことを人々は言い合っています。

 27節、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」

 ここでこの女性は、意を決して、この方なら癒してくださるに違いないと思い、もう一度だけ賭けてみようと出て行くのでありました。それも人目を避けて群衆の中に紛れ込み、後ろのほうから、近づいていき、イエス様のお衣の端の房に触ったというのです。

28節、 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

イエス様に面と向かって、私を癒してくださいなどと言えなかったこの女性はそれではどうやって癒していただくかと考えました。そして考えたのは、もしも、もしもお着物に触れることができさえすれば、癒していただける、というものだったのです。
  治りたい一心の行動だと思います。この、イエス様のお着物に触れていやされると言う方法は他の箇所にも見ることができます。マルコによる福音書の3章10節には、このように書かれています。「イエスが多くの群集をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからである。」
  また、マルコ6:56にもこのようにあります。
「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」

 この女性は、汚れたものとして人前に出てはいけないと言う律法を破ってでも、いやしていただいたほかの人たちの体験談を踏まえて、「この方の服に触れればいやしていただける」と確信したのであります。

 29節、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」
  するとすぐに。彼女がイエス様のお着物に触ったとたんに、病気がいやされたことを体に感じたのであります。出血は止まり、痛みが消えうせ、だるいのも治り、体は軽くなり、何か生気が体の奥からみなぎってくるようです。
 
  そしてそれとまったく同じとき。女性がイエス様のお着物を触ってすぐに。イエス様は自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。と30節に書いてあります。

 この女性が治りたいという気持ちを込めて込めて、イエス様に近づき、後ろからさっとお着物に触れた瞬間、イエス様はご自分のうちから力が出てくのを感じ、それと同時にこの女性はたちまちいやされたのであります。つまり、この女性がお着物に触れたという出来事により、イエス様のお力を引き出した。そしてその流されたイエス様のお力によってこの女性はいやされたというのであります。ちょうどコンセントにプラグを差し込むと電気が流れて電気がパッ、と点くように、この女性は力の源であるイエス様に触れることによって神さまの力が自分に流れ込んでくることを体験したのです。

 しかしイエス様は、「わたしの服に触ったのはだれか」とおっしゃっているところを見ますと、イエス様はまったく意識していらっしゃらなかったのに、無意識に力が出て行った、それゆえ、いったいだれが自分の力を引き出すような接触を持ってきたのか、それを知りたいと思われたのでしょう。ですから、今回イエス様がお着物に触った病人をいやしたという出来事は、他のときに、病人がイエス様のお着物を触っていやされたという状況と少し内容が異なる、ということがわかります。いつもはイエス様が自覚しながら、病人に力をお送りになっていらしていらっしゃった。しかし今回はいわばこの女性の不意打ちに会われたということでしょう。いやもしかすると、今までも群衆の中からだれとも知れずに不意打ちでお着物に触れてくるものはたくさんいたかもしれませんが、その中にあってなお、この女性からは何かただものならぬ迫力をお感じになったということもできるかもしれません。      
私たちの祈りの醍醐味も、ここにあります。イエス様は、求めるものがあれば、無意識に、そのお力を放電して下さるお方なのです。すぐに。たちまち。イエス様は、愛と癒しのお力を、求める者に流して下さる。そのような準備ができているお方なのです。
31節、 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
  多くの病人たちがいつもイエス様に押し迫るようにしてお着物にでも触らせていただきたいと手を伸ばしているのに、どうして今回だけは「だれがわたしに触れたのか」などと尋ねるのですかという弟子たちの言葉からも、今回の状況は普通でない、何か特別なものであったということがわかります。なぜイエス様はそこまでして、だれが触れたのかということを知りたいのでしょうか。

 また弟子たちがこのように尋ねるのには理由がありました。今日の箇所の前には、ヤイロという人が、自分の幼い娘が死にそうであり、どうか来てくださいとひれ伏して頼み、さあ行きましょうということで急いで向かっている途中だったのです。死にそうな娘がいるのですから、だれが衣を触ったなどということはあっちへおいといて、早く行きましょう。娘さんが死んでしまったら大変ではないですか。さあ早く早く、ということでしょう。弟子たちの言うこともわかります。

32節、 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
  しかしイエス様は、失われた一匹を捜し求めてくださる方なのです。イエス様は失われたものを取り戻すために、ご自身の命を十字架におかけになり、私たちのためにあがないをなしてくださったのです。このお方のおかげで、私たちはいま父なる神のもとに戻ったのです。失われた羊のようにさまよい、飼い主のない羊のように弱りはて打ちひしがれているひとりひとりを憐れみたもう方なのです。
  このイエス様の、この神様の、この聖霊様のあわれみにより、今私はキリストに会って赦され、キリストによって生かされていると思いますときに、本当に感謝です。人々から、そんな人ほっとけばいいじゃないですか、と言われても、主はご自身に頼って信仰の手を伸ばすものをほうってはおかれない。あくまで探し続け、信仰のあるものと個人的にゆっくりとお交わりすることを喜んでくださるのです。主は、信仰の叫びを持ってご自身にすがってくるもののためにこられた羊飼いなのであります。
 
  弟子たちがあのように、こんな群衆の中には一人や二人いやしを求めてお着物に触れる人がいたって不思議ではないのにどうしてその人を探されるのかと言ったにもかかわらず、イエス様はまだ、辺りを見回し、一人一人の顔をじっと見ながらその人を探し続けていらっしゃるのです。これどういうことなのでしょうか。
  多くのいやしを求める人たちの間に、イエス様は、この女性からは、特別のものをお感じになっていました。イエス様はこの女性から、ご自分の無意識の中でご自分の力を引き出すような祈りに出会われたのです。無意識のうちに愛の業をなさるイエス様。この方の存在そのものが愛であり、愛がほとばしっている、神の力がほとばしっている、イエス様という方はそのような方であることがわかります。この女性のつらい、孤独だった、愛のからからに渇いていた存在に、ちょうど高いところから低いところに水が急流を持って流れ込むように、どうーっと神の愛が注がれたのです。

33節 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
 
この女性は、イエス様の後ろからひそかにお着物に触れればいやされると信じてそのとおりにしましたが、いやされた後はまたこっそりと家に帰るという計画を立てていたのでしょう。しかし自分がいやされたと同時に、イエス様が「私のうちから力が出て行った、だれがわたしに触ったのか」、と何度もおっしゃって一人一人の顔を見回している状況となるとは思いもつかなかったのでしょう。いやしをいただくということがただ受け取るだけのものと思っていたものが、まさか自分が矢面に立たされようとは夢にも思ってはいませんでした。汚れていたものが律法を破って人前に出てイエス様のお着物に触れたことについてお叱りを受けるのだろうか、女性はそんなことを考えて、どうしよう、取り返しのつかないことをしてしまったと思うと、恐ろしくなってしまいました。しかしイエス様は自分のお着物に触った人が申し出ない限りはずっと探している、そんな気配です。あたりはシーンとして、人々も互いにだれが触ったのかと思い見回していたことだと思います。女性は隠し切れないと思い、震えながら注目の渦の中に自分の身をさらします。「私がその者でございます。」女性は語り始め、事実をありのままに話しました。

 34節、 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」この言葉を聞いてこの女性はどんなにかほっとしたことでしょうか。
  とがめることなく「娘よ」とおっしゃってくださるイエス様。にこやかに微笑みかけ、あなたの信仰があなたを救ったんだよと語りかけてくださるのです。このお方こそ私たちの神、私たちはこのお方によって作られました。娘よ、息子よ、今日も主は私たちにこう語りかけてくださいます。わずかばかりの信仰であっても、八方ふさがりの状況であっても、私たちには「信仰」と言う宝が与えられているのです。どんな状況であってもあきらめずに主に賭けていくこと。これが信仰にある恵みです。
  隠れて主のお着物に触れたこの女性、ずっと「汚れた者」として人からのけ者にされ生きてきた子の女性が今主の前にひれ伏し礼拝するものとなった。主はあふれる恵みのみ座にこの女性を迎え入れてくださって、父なる神の前に神の子供としてくださったのです。「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」安心していきなさい、とは平和のうちに行きなさいという言葉から来ていますが、私たちは、キリストのあがないによって神との平和をいただいており、このイエス様のあがないの義によって神様の力をいただくものとされているのです。キリストこそ、私たちの平和、私たちを父のもとへと至らせる道なのです。「元気に暮らしなさい。」私たちもまた神様の祝福の中に生きるものとされているのです。

 この女性の主へと向かっていった足取りは決して無駄にはなりませんでした。予想を超える祝福を手にした彼女でした。多くの人の面前で、信仰が称賛され、癒しが宣言されました。長い長い、この女性の孤独な戦いにはピリオドが打たれ、新しい生活が待っています。喜びをあふれるばかり与えて下さるイエス様のお力を引き出すような、私たちもイエス様に触れる試みをして歩んでまいりましょう。イエス様は愛の方ですから、私たちを気遣い、無限の力を流して下さいます。
私は自信をもって、確信をもって、この世界にこんなに愛の深い方は、イエス様、イエス様を送って下さった父なる神、いつも私たちの心の中に住み、とりなして下さる聖霊様、この三つにしてお一人なる神様お一人しかしらっしゃらないと申し上げます。いや、そんな、アンパンマンのような心優しいお方が、確かにこの世界には実在されると、私は心から確信をもって皆様にお伝えいたします。

 

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