説教原稿
2008年7月13日
「あなたを大いなる国民に」
創世記 12章1-7節
新しい週の初め、生ける神様の御名をあがめます。
ただ一人、世界の初めから存在し、すべてを造り、保っておられる方の御名をあがめます。
人の手によって作られず、生きていらっしゃるただ一人の神様の御名をあがめます。
ノアから、セム、ハム、ヤフェト。そして、セムから代々を経て、テラが生まれました。
テラは、故郷カルデアのウルから出るように主から告げられ、息子アブラムと、孫ロト、アブラムの妻で自分の嫁サライを連れて、カルデヤのウルを出発し、カナン地方に向かいました。これが今日の個所の直前、創世記11章の終りに記されていることです。
ウルからハランまでが
すでにアブラムの父テラに、カナンへの移動は、命じられていました。
しかしアブラハムの父テラは、カナンに向かう途中のハランでその歩みを止めてしまいました。出発地ウルからハランまでが約1000キロメートルの長い長い旅路です。主の示された地、カナンまではあと三分の一、500キロメートルという所で、テラは歩みを止め、留まってしまいます。そしてこのハランの地にとどまるうち、アブラハムの父テラは、死にました。
12章、主なる神様は、次に一族の長となったアブラムに、もう一度召命、召しを与えます。
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」
生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に。
カナンに向かう途中のハランの町。ここはもしかしたら、生まれ故郷、父の家だったかもしれません。ここに留まりたい、ここから動きたくない、ここは住み慣れた、安住の地。父テラはそう思い、神様の示すところはまだ先にあると知りながらも、それ以上歩みを進めることはできませんでした。
しかし神様のお心は、定まっていました。神様の目には、ご自分の民がどこにいることがふさわしいのかが、はっきりしていたのです。
私が示す地。神様がこうおっしゃる土地とは、どんな土地なのでしょうか。
原語へブル語を見ておりますと、その向かうべき土地とは、直訳すれば、「私があなたのために吟味したところの土地」とあります。
私たちの持ち場、働き場を、神様がよくよく吟味して、考え抜いて下さり、ふさわしい土地へと、導いて下さるのです。神様は気まぐれに、広域異動を命じられ、従ってくるかどうかをテストされるのではなく、神様ご自身が、私たちのために、吟味し、考え抜いて、最善の持ち場を与えようとして、進展新地へ動けと、命じて下さるのです。これが今日私たちが学び知る、第一の点です。
私たちもまた地上では旅人のようです。私たちの本国は、天にあります。しかし、神様は、日々、私たちのために最も良い馳せ場を、活躍の場所を、備えて下さるのです。
私はあなたのために、思いめぐらし、最善を考えて、あなたを遣わす。これが神様のお心です。
日々、私たちは、平凡な日常の繰り返しをしているようです。しかし、そのような毎日の中にあって、日々、新しい神様のお導きを信じて、神様のお運びの御手に信頼して、歩んでいきたいのです。
今日は昨日とは全く違う日。新しい何かが生まれる日。神様が最善から最善へと、考え抜いて運び出して下さる日。このように、考えたいのです。
そして、どこそこの地へ行きなさいと命じられれば、従い、歩みを進める日としたいのです。
考え間違いがあるでしょうか。改められない態度があるでしょうか。ここに安住する。私の態度は変わらない。あの事柄は決して進展しない。あの人の救いは、無理なのではないか。もうすっかり諦めてしまったから。今まで努力してきたのに無理ただったから・・・。
いえいえ、神様は、思い定めた約束の地まで、私たちを導き運んで下さるのです。ここが終点ではない。ますます恵みのかなたまで、神様は運んで下さるのです。
神様の思い定めていらっしゃる土地へ、導いて下さい。ここがゴールだと間違って思っているならば、神様の御心を今日、もう一度訪ねてみたいのです。
2節、第二のポイントです。
私はあなたを大いなる国民にする。あなたを祝福する。あなたの名を高める。だから、あなたは祝福となりなさい。
神様は、ご自身の民を用いて何をなそうとしていらっしゃるのかが、記されています。
私たちは偉大な国民とされています。神の民です。直轄区です。私たちは、いつも、神様からくる祝福で満たされています。私たちの名声は、うなぎ上りに上がります。何のために?それは、私たちが、祝福の源になるためにです。私たちが、周囲にいる人たちのための祝福になるためにです。
ダムに水がためられるのは、水を放水するためにです。郵便物が郵便局に集められるのは、そこから一斉に郵便物が運ばれるためにです。スーパーマーケットに食べ物が集められているのは、そこにたくさんの人が行って、一度に多くの人が買い物できるためにです。
ダムが水を流さずに、水をため続ければ、ダムが決壊してしまいます。郵便局が配ることをしなかったら、郵便物の山になって身動きが取れなくなります。スーパーが、食物をため込むだけためてしまったら、どんどん腐って使い物にならなくなります。
神の民、教会に祝福が注がれているのは、神の民、クリスチャンの評判が高められるのは、私たちがその祝福を周囲に流していくためなのです。神様は私たちを、「祝福実行」を担う人として、任命なさったのです。
上からあふれるばかり、祝福が注がれています。小さな私たちが抱えきれないほどの祝福です。私たちは、出て行って、人々のための、神の祝福となります。神様は、私たちという土の器を用いて、祝福のきよい水を、しおれかかった青葉へと、振りかけたいと思っていらっしゃいます。
「あなたは祝福となりなさい」これが原語のニュアンスです。祝福が衣を着て歩くように、祝福となって握手して歩きまわりなさい。感電して歩きまわりなさい。そのために私はあなたを祝福し、あなたの名を高めるのだから。
神様は明確に、全世界を愛していらっしゃることが、分かります。選民主義、それは神の民の狭い枠組みではありません。
選民とは、神様が下働きのために選ばれた働き人のようなものです。給仕役のようなものです。給食当番のようなものです。
神様の祝福を、全世界の器に、ついで回る役目です。
もう一度申し上げます。私たちは祝福を造りだす必要はありません。祝福を取り次ぐ必要もありません。私たちが祝福となっているのです。祝福になりなさいと、神様はおっしゃっています。
マタイ5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
私たちはもう既に地の塩、世の光です。
世の中に、なくてはならない存在です。えー、私のようなものが、ご冗談でしょう。そんな大層なこと、信じられるもんじゃございません。私は、平穏に、一市民として、自分の良心に従って、人様なりに生活していきます。
なんと穏健で、控え目なんでしょうか。いいえ、それは、光がついているのに燭台をテーブルの下に隠して光が漏れないようにしているのと同じです。塩が、塩味を出すと周りに迷惑だと言って、カチカチになって、溶けださずにいればどうでしょうか。そんな塩は、使い物にはなりません。
光は、塩は、大切なものです。
光がなかったなら、夜道を一歩も歩くことはできません。夜、火をくべなくては、野獣に襲われてしまいます。
塩がなかったら、おいしいはずの食べ物が、無味乾燥なものになってしまいます。おいしくないばかりか、塩分がなければ、人は命を保つことが出来ません。物は腐りやすくなってしまいます。
私たちは、なくてはならない祝福です。世の中になくてはならない祝福です。
もう、そうされているのです。そのために、私たちは祝福され、キリスト者とされています。キリストに似る者との、これ以上ない称号を与えられています。私たちのうちには、神の子イエス・キリストが生きています。私はキリストとともに、歩き、生きているのです。
3節、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
あなたは、神の大使です。神の国から派遣されています。あなたの身分は、神様のもとにあります。あなたは、神様の者、神様の一部です。
わが子に、通りがかりに頭をなで、おいしい甘い飴をくれる人があったなら、父は、自分が良くしてもらったようにその人に感謝します。わが子が、故もなく、突然に頬をひっぱたかれるようなことがあれば、父は、自分の頬がたたかれたよりも激しく痛み、憤ります。
神様は、私たちを、そのようにご覧になっているのです。
「地上の士族はすべてあなたによって祝福に入る。」
すべての地上の士族です。例外はありません。人類すべては、あなたによって、祝福に入るのです。へブル語の雰囲気では、こうです。
地のすべての民、彼らは祝福される。あなたによって。
地のすべての民、彼らは、あなたによってでしか、祝されることはないのです。あなたが、彼らのための、神様の祝福なのです。他に道は、ないのです。神様が人類を祝福しようとされるときには、あなたを用いられるのですから。神様はそうしたいと思っていらっしゃるのです。そして神様は、世界を祝福したいといつもいつも、思っていらっしゃいます。ですから、神様は、思いをめぐらし、神様の示す地へ、あなたをお送りになられるのです。
さあ、出番です。ステージの幕は、開かれました。さあ出て行って、祝福となりなさい!
これが神様の御心です。出来ません、歩けませんと、おっしゃるでしょうか。
私はあなたを大いなる国民にする。・・・しかしこの時アブラムは、75歳。妻サライも、高齢になっていました。妻は子供を宿すことができず、子供がいませんでした。
「私はあなたを大いなる国民にする。」・・・何をおっしゃっているのだろうか。この私たちに対して。こういぶかることをせず、4節、
「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」
5節、「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。」
大移動です。500キロメートル先の、約束の地まで、彼らは、心を一つにして、一歩一歩の旅路をまた、始めました。
ここにいれば、慣れていて、必要なものはすべて備わっているのに。財も成し、その基盤をせっかく整ったのに。75歳。今から新しい地に、新たな適応の旅を始めるアブラムとその一族なのでした。
神の言葉に従い。
ノアにせよ、アブラムにせよ、私たちにせよ。
神様のお言葉に従って人生の決断をすべき時が、私たちの歩みの中には何度かあることでしょう。
神様のお言葉のとおりにこの身がなりますように。
マリアしかり、ペテロしかりです。
彼ら、御言葉に従った人たちの結末は、どのようなものだったのでしょうか。祝福です。
7節、「あなたの子孫にこの土地を与える。」
お言葉のとおりに、歩いてきて、カナンに入った彼らです。神様は、その新しい土地で、居候のようなアブラムに、この地をあなたの子孫に与えると、子々孫々、太く根を張ってこの地に栄えることを、約束して下さいました。
私たちも、遣わされたこの地で、太く根を張って繁栄するのです。私たちは、居候ではありません。私たちこそ、神の祝福となって、この世界をあまねく潤すオアシスなのです。
11節以降、アブラムは、飢饉のため、カナンを出て、エジプトに入ります。自分の妻サライが美しいのを見て、エジプト人が、夫である自分を殺して、妻を取られてしまうのではないかと思い、アブラムは恐れのあまり、妻サライを自分の妹と言い(実はサライは異母妹でした)、自分の身を守る画策をしました。妻サライは、独身者として、ファラオの妻として召し入れられることになりました。
主の言葉に従い歩んできたアブラム。その神様への信頼は、純粋でした。彼は祭壇を築いて、神様に信頼し、従う態度を取っていました。
しかし、その次には、自分の命の危険から、自作自演のお芝居を打ってしまいました。
神様は、ファラオと宮廷の中に、恐ろしい病気をおこされ、アブラムの妻サライは、アブラムのもとへと戻りました。
私たちが信じきれずに自分の手で解決策を紡ぎだそうとしてむなしく破綻する時も、神様は、その尻拭いをするように、私たちを困難の只中から、救い出して下さいます。
ほむべきかな、私たちの主なる神。私たちをどこまでも守り、教えて下さる父なる神。
私たちは、この生ける神様の懐に守られ、導かれ、ご栄光をあらわし、世界の祝福として、建てられています。
今週も、私たちがそのような「大いなる国民」として神様のご期待を担っていることを知り、不出来ながらも、神様にしっかりとおすがりして、歩んでいきたいと、願うのです。
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