説教原稿
2008年7月6日
「彼らを全地に散らされた」
創世記 11章1-9節
一週間の旅路を見事に歩き終え、遣わされた地で大いに活躍し、愛のわざに励み、隣人のために祈りを捧げて神の御心に歩まれた敬愛いたします皆様とまたご一緒に神様を礼拝するために、ここに集められております。一週間お疲れ様でした。実家に、お帰りなさい!このように、祝福とともに、この朝もまた、皆さんにご挨拶申し上げます。
私たちは皆、生れながらにクリスチャン、主を知るものとしてあるわけではありません。しかし今、私たちは、ここにおります。自分から歩いてここに来たわけではありません。神様が、ここに導いて下さいました。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」ヨハネ15:16
いかにして、この私が、恵みにより、神様に選んでいただいたのか、知る由はありません。そして、祈り求めるあの人が、どうして未だこの救いに入れられないのか、どうして日本の、世界の多くの方々が、この救いに入れられないのか、様々な、人の罪ゆえの、悲惨なニュースを見るたびに、人が亡くなったとのニュースを見るたびに、聞くたびに、いても経ってもいられないような、心の痛みを感じます。
しかしまず私たちを召して下さった。このことからもう既に、世界宣教は、始まっているのです。神様は、ごく一部の選民を救いに導いて、後は見捨ててしまうようなお方ではありません。
神様は、まずノアを召して、ご自分の御心を実行するしもべとして、立てられました。アダムからノアまでが10代、そして、ノアから10代後にアブラハム。アブラハムは紀元前2000年ごろの人でしょうか。その約500年後にモーセ。その約500年後にダビデ。その後約500年後に捕囚からの解放、その後約500年後に、イエス・キリストです。ちなみに、マタイの系図によりますと、アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン捕囚までが14代、そして、それからキリストまでが14代、とのことです。
神様は、常に、常に、罪が拡大していこうとする人の世界を見て悲しまれ、人の世界の滅亡を回避するために、救い出し、救い出し、幾度も幾度も燃える火の中から残りのたましいを引き出して下さいました。
創世記5章で、アダムの系図がありますが、多く広がり始めた人類の中から、結局は至り至ってノアに絞られる。そして今日は、10章、11章ですが、結局終わりを見ていきますと、アブラハムに焦点が絞られてまいります。
どうして人は、いつもこうなのか。たくさんたくさん増え広がっても、結局神様の手の内に残る民はいつも一握りであります。
私は中学生の時、初めて聖書を手に取りましたが、救いについて、黙示録7章を見て、がっかりしたことがありました。一人の天使が生ける神の刻印をもって上ってくるのですが、その神の民とされる印を押されるのが、イスラエルの12部族の中から1万2千人ずつ、合計14万4千人だけだというのです。私は、聖書というものは、選民イスラエルだけのものなのかと、がっかりしたのを覚えています。しかし私は、すぐそのあとの聖句を読み落としていました。
「9 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、10 大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」」
あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数え切れないほどの大群衆!その救いのスケールの大きさ。私は、この御言葉を、あの時は、どういうわけか、見落としていたのでした。
国民と国民とのぶつかりあい。種族と種族。民族と民族。言葉と言葉。今、私たちは、これらの、民族文化、人種の隔たりを越えられずにいます。そして神様は、狭い、パレスチナの、イスラエルの神であるように錯覚しがちです。しかし、キリストが世界のために十字架につかれ、復活され、ご自身の教会を建て上げられてからは、国も、民族も、言葉も、これらすべてを突き抜ける存在となっているのです。
洪水の後、ノアたち8人の家族は、一つ心で神様に感謝の礼拝を捧げました。そして10章では、ノアの子、セム、ハム、ヤフェトから、地中海世界全体に広がりゆく人類の歩みが記されています。
10章5節、20節、31節にご注目いただきたいのですが、共通して、こう書いてあります。「言語、氏族、民族に従って歩むようになった。」
ひとつ家族であったノアの家が、その3人の子供たちから、様々な言語、氏族、民族に分かれて行ったとのことです。
11章に入ります。
1章には、こう書かれています。
「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」
このころは、ノアの3人の子たちから派生している人たちですから、同じ言葉を使って、同じように話していたとしても、何の不思議もありません。様々の考え方がありますが、私は、11章のバベルの塔の出来事を、10章の広範囲に人々が散っていった出来事の前の出来事として、読むと分かりやすいかと思います。
箱舟から出て、彼らはシンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着きました。洪水の後、水が豊かに流れ、緑の多い平地で過ごす彼らにとってその場所は、さながらエデンの園のようであったかもしれません。
彼らは順調に生活し、富を増し加えて行ったことでしょう。
そして、彼らは、こんなことを話し始めました。
「れんがを作り、それをよく焼こう。」石が十分にない土地でしたが、れんがをよく焼くことによって、中の水分を十分に飛ばし、高層建築に耐えられるようにしようとの考えです。れんがは一般にし天日干ししていたようですが、ここではあえて「よく焼こう」と書いてあるのです。しっくいの代わりにアスファルトを。彼らの意気込みが、その塔の建築の組織的、計画的な様が、伝わってきます。綿密に設計され、たくさんの人が集まって、心を一つにして働いています。
それはいったい何のためだったのでしょうか。
4節、「彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。」
まず彼らは、有名になろうとしていました。名をなそう。自分たちの良い評判と栄光を表そうという試みです。誰に対して?何のために?それは、神様に対してであり、そして、自分たちが「全地に散らされることのないように」というためでした。
つまりこれは、人間の、神様に対するデモンストレーション、威力を示す行動のようなものでした。我々はこんなにも力をもっている、これを見て下さい。私たちは、あなたがおられる天にまで届くようなものを建てられる。あなたのおられるところに行って、あなたと同等に渡り合える存在である。彼らは傲慢にも、そのように考えたのでしょう。
また始まった。せっかく神様が堕落しきった世の中を洗いきよめて新しい世界を作って下さったのにどうしてこうもまたすぐに。私たちはため息をついてしまいます。
全世界の人が、一つ心で、新しい土地で力を合わせる。これはいつの世も、人間の理想とすることではないでしょうか。民族、言葉、人種の隔たりを超えて、人が一つ心で一つ所にあるということ。そうして協力すれば、人は何でも良いことを成し遂げることができる。私たちはそう思います。しかし、人が一つになって、一つ心で思い図ることと言えば、高い塔をたてて、神様に自分の意見を飲ませようと躍起になる、そのような人間でありました。
どうしてそこまでして、全地に散らされることのないようにしようと、思ったのでしょうか。
神様は、人を祝福して、「産めよ、増えよ、地に群がり、地に満ちよ」とおっしゃいました。神様は、人類が、全地に増え広がり、満ちるようにと、願っておられました。しかし、彼らは、それを好まなかったのです。なぜでしょうか。
それは、彼らの心の中にある、神様への敵対心ではないでしょうか。自分たちが散らされてしまっては、自分たち全人間の力が削ぎ取られてしまう。私たちは、全人類で力を合わせれば、あの山々の頂の雲の上、神様のおられる領域にまで達することができる。我々は力を合わせれば、何でもできるんだ。
彼らは、力を合わせて良いことをするというよりも、人間の力を神様に見せつけようという、プライドと敵対心で凝り固まっていたのではないでしょうか。
神様の憐れみと導きをすぐに忘れて、自分が何者か特別の者のように錯覚する人間。自分の思い通りにしたい、神様とさえ、自分の力をもって条件交渉ができるかのような思い上がりもはなはだしい、人間の姿がここにあります。
神様のもとにただ座って、その一つ一つのお言葉に耳を傾けていること、「必要なことはただ一つだけ」ルカ10:42のはずだったのに。心を静めて神様の御思いに心をはせることの何と難しいことか!
良きことを思い図っているようでしかし的を外れている。的外れ!実にこれこそが「罪」ということなのです。
忙しく走り回るマルタ。しかし、イエス様の足元に座って聞くマリア。マリアも「お姉さん、一緒に聞きましょうよ。イエス様には、そうすることが一番のおもてなし。きっとそれを喜んで下さるわ。」と優しく姉マルタに誘いかければよかったのにと、思ったりします。さんざん汗水流しておもてなしをして、忙しいのにマリアは手伝ってもくれず、くたびれにまかせて苦情を言えば、何もしないでいたマリアはほめられ、自分はたしなめられ。ああ働き者のマルタはかわいそう。聖書はぐうたらものを励ますんだろうか?
いえいえ、そうではありません。
私たちは、神様の御心のために動く時、本来の働きをすることができるのです。
車が運転手を欠いたら、どうなるのでしょう。好き勝手にアクセル全開で走ったら、どこへ行ってしまうでしょう。
私たちは、何をするにも、私たちを本当に心底愛して下さり、私たちのために最善を図って下さり、私たちの手、足、口を助けて、私たちを最高の幸せに導こうと、うずうずして下さっている神様に、心を開き、お伺いをしながら歩む時、神様は「待っていました」とばかりに私たちの主として、私たちの人生万端に至るまで確かに、完璧に、導いて下さるのです。
何の煩いもなく、憂いもなく、一羽の雀さえ養って下さる方のご愛顧にただすがって、歩んでいけるのです。
でも、でもです。私たちは、自分の考えで突っ走ってしまうのです。「急いてことを仕損じてしまう」のです。すべてを知る知識もないのに、不確かな情報しか持っていないのに、確信をもって思い違いをするのです。しかし神様は、その誤り一つ一つに対して、天からタコ糸をもってきて、私たちを操り人形のように訂正しようとはなさいません。私たちがその糸を振り切って、切断して、「うるさい、私のやりたいままに放っておいて下さい!」と言うに決まっているからです。私たちは自分の流儀でやってみて、間違ったからと言って、すごすごと神様のもとへは戻っていきません。そこに答えがあると知っていても、私たちには、プライドがありますから、正しいと分かっていても、従うことができないのです。自分の敗北を認めたくないのです。
自分をそうまで守ろうとして、ハリネズミが自分の大きさ、強さを誇示するように針をピンピンに伸ばしたような人間たち。そして、隣人を傷つけてしまいます。
しかし、神様は、それでも、「わが子よ、私の所に帰っておいで」と、語りかけて下さいます。
5節、主は降ってこられました。なんという皮肉でしょうか。人が神様のもとにまで届かせてつくったはずの塔でした。しかしその塔は、神様から見れば、エベレストの上から見るゴマ粒くらいのものでした。主は降ってきて、塔のあるこの町をご覧になりました。
そして、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」こう、おっしゃったのです。
たくさんの人たちは、同じ言葉で、れんがいくつ、追加で運んでくれとか、そこは曲がっているぞ、直してくれとか、おーい、こっちに来て、助けてくれ!とか、話し合っていましたが、この時から、ちんぷんかんぷん、こんにちは、ハロー、ニイハオ、アンニョン、グーテンタック、ボンジュールなどなど、全く分からなくなってしまいました。
当然分かり合えない人たちは、力を合わせて塔の町を作り上げることができなくなりました。
主が全地の言葉を混乱させられた、このことから、この町は「バベル」と呼ばれました。後のバビロニア帝国の中心バビロンです。
こうして、人々は散らされていき、各々の言語、氏族、民族に従って住むようになりました。
しかし創世記11章の後半には、神様がまた新たな系図を描き、アブラハムが登場いたします。「多くの国民の父」アブラハム。散り散りに分かれてしまった諸民族を一つにするために、神様は、アブラハムのすえをお用いになられます。これがイスラエル民族です。
私たちは、どんな罪深い世の中にあっても、どんなに惨憺な愚かなことが行われたとしても、私たち人類を見放さない神様が、残りの者を用いて神様の救いをなされる様を繰り返し聖書から学んでまいりました。
今全世界に教会が建てられています。数々の異なる国、民族、言葉の民でありながら、一つ聖霊により、同じ霊の言葉で語る私たちであります。本当に心が一つになっているということ、これこそが、言葉も、民族も、文化も、乗り越える架け橋であります。私たちはひとつ霊により、神の民として招かれ、選ばれ、ただ神様のお足もとに座って聞き、聖霊様によって、内に生きておられるイエス様の霊によって、生き、動くものとされています。
私たちは、この世界が生きるために備えられている神様による、残りの民です。アブラハムのすえであります。すぐにすぐに罪の力が首をもたげる辛い辛い現実ですが、それでもなおなお、私たち人類を引き上げようとされる、神様の深い憐れみの心を胸に刻み、勇気をもってまた進んでいきたいと願います。
マタイ24:7-14
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
ピリピ3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
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