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説教原稿

2008年6月29日
「永遠の契約に心を留める」
創世記 9章1-7, 12-19節

梅雨の中、遠くから、近くから、この礼拝の場に導かれ、集まってこられました敬愛いたしますおひとりおひとりへ、お帰りなさいと申し上げます。
先週も一週間、キリスト者として、喜びと希望、赦しの愛と神の恵みを取り次ぐ歩みを日々なさってこられました。

「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」2コリント3:3
「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」2コリント5:20

私たちは、神様がお書きになった神様の手紙です。
聖書はよく、神様からのラブレター言われますが、私たちもまた、あまねく世界に対する、神様からのラブレター、神様のみこころの掲示板であります。
聖霊によって書かれ、生きる私たち。生きざまをもつて神様の栄光を表したい。私たちはもう既に、そのような存在と、されているのです。
力む必要はありません。私たちは自分たちのあるがままを、人々に示せば良いのです。
私たちの内に刻まれている神様の愛と恵みの言葉を、土の中に埋めてしまうのではなく、明らかにしていきたいと願います。

今日も、聖書から、神様の恵み深さを味わい、生ける神様を賛美し、礼拝いたしましょう。

世界はその始まりから、人の罪による悲惨の嵐が吹き荒れておりました。
神様を無視し、好き勝手に行動し、身を隠し、殺人、大言壮語、血で血を洗うような暴力、隣人を顧みずに、自分が王様になっている、そんなたけだけしい、騒々しい世界となってしまいました。

そんな世界の悪が増大しないように、神様は、世界の再創造を図られました。

神様は、ご自身に従おうとするノアに目を留められ、ずっと目を留めて下さり、お心に留めて下さり、洪水から、人と、生き物の命を守って下さいました。

創世記1-5章と、6-10章は、どうも対比的に読むことができるように思うのですが、堕落から殺人へと罪の増大する前者とは裏腹に、箱舟から出て礼拝をささげ、神様の祝福にあずかる6-10章には、慰め深いものがあります。
罪が増大する勢いにまして、神様の祝福の勢いはまさって私たちに迫ってまいります。
創世記9章は、神様のお守りと、祝福の言葉がずっと、綴られています。

まず1節、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」これは、創世記の初め、1章22節と28節に語られた祝福の言葉と同じです。
地の面はぬぐい去られた。しかし神様は、もう一度、人間の繁栄を願って、励まして下さっているのです。アブラハムには、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と語られました。
幾度も幾度もたたみかけるように語られる主の言葉、それは、人類の繁栄を願うものでした。
2節では、すべての生き物が人の前に恐れおののき、人の手にゆだねられるというものでした。
裁きの後にあってもなお、神様は人間に期待していらっしゃり、この自然界の生き物を人に支配させようとなさいます。

3節、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。」
植物よりも優れた栄養源である動物を食べてもよいとのお言葉です。植物の実りが以前のように豊かでなく、その栄養素も少なくなってしまったからなのでしょうか。
創世記1章の時は、園のすべての「木から」取って食べなさいと命じられた神様でした。そしてここでどうやら初めてそれら植物と同じように動物を食べて良いとここで命じられているように理解することができます。どうやら人は最初には、肉食ではなかったようです。これは、変わらないことと対比され、洪水の後、「変わったこと」と考えられます。

次からは、命の尊厳、命の保護について、語られます。
肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
肉に血がついていますと、腐りやすい、おいしくない、病原菌による汚染の心配があるなどの衛生的なことから、血は取り分けられます。しかし、これより先を読む時に、神様が、どんなにか、人のいのちを重いものとして見ていらっしゃるかが、分かります。

獣によって人の命である血が流される時、動物の命による賠償を神様が求めるということです。
これも、洪水後の世界の変容を表す点です。かつての世界は、動物が人を襲うというようなことはなかったのでしょう。神様による、このようなお言葉は語られませんでした。

「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」 イザヤ11:6-9

イエス様が来られ、この地を回復なさる時、このような光景を目にするというイザヤの預言です。猛獣が草を食べ、子供がこれらを導く、なんという平安に満ちた光景でしょうか。
しかし、ノアの時代、少しずつ、やはり世界は終末へと向かっていたのでした。しかし、そんな中にあっても、神様は、人のいのちをことのほか尊いものとして、守ろうとしていらっしゃるのです。
次には、人間同士のいのちについてです。
「人間同士の血については、人間から人間の命を賠償として要求する。」(5節)
人間の命の尊厳を神様は、語っていらっしゃいます。
「人は神にかたどって造られたからだ。」(6節)
命は神によって作られたものであり、動物も、人も、決して粗末に、自分の処せられるものと考えてはならない、命には、命をもって償われなければならない、特に、人の命は、神にかたどって造られた命であるから、ことのほか、尊厳をもってみなされなければならない。このように神様は、語られます。

カインによる弟殺し、土地にアベルの血が流された、あの忌まわしい出来事が今一度思い起こされます。そんなことが二度と繰り返されることがないようにと、神様は、乱れた時代の只中に、叫ばれるのです。
「親の心子知らず」といいますが、神様のお心を、どれだけ私たちは知っているというのでしょうか。
一人の殺人者が一人の命の血を流す。
「覆水盆に返らず」といいますが、「いのちの血を流す」という表現は、人の命が損なわれ、血が流れていくとともに、命が流れ去り、もう二度とその人は生きることがないという、人のはかなさがひしひしと感じられます。
そしてまた、殺人者の血も賠償のために流される。
こうして二人の命が地上から消え去る。
果たして神様は、裁判官として、これでかたは付いた、一件落着と、思っていらっしゃるでしょうか。
いいえ、神様は、おなかを痛めた母のごとく、自分の二人の子供を失ったように、悲しまれるのです。
「人は神にかたどって造られた。あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ。」
これは、神様の切なる叫びです。
人よ、あなたはわたしにかたどって造られた。不法を選ばずに私を見つめなさい。私はあなたを罰することを喜ばず、あなたの繁栄を望んでいるのだから。
こう叫ぶ、神様の声を聞き取りましょう。
アベルの血を流したカインにさえ、血の賠償を求めずに、保護して下さった神様です。

長い時代が過ぎ、エルサレムのゴルゴタの丘の上、私たちはどのような光景を見るのでしょうか。
人がイエス様を十字架につけて、血を流させています!
神様は、激怒して、全世界の人の罪に、賠償を求めるのでしょうか。
神様は、犯罪と、死刑が確定した、殺人者たちに、贖いのいけにえを備えて下さったのです。
その神様の憐れみ、立ち返って救われよという神様の、親心に気づいて罪を悔い、親不孝を悔いるのなら、既に救いのための代償は、支払われているのです。

先週、ハッとさせられたひとつの出来事がありました。
ある女子短大の学生が、イタリアのフィレンツェに研修旅行で訪れた際、世界遺産に登録された大聖堂の壁に旅行の記念とばかりに油性ペンで落書きをしたとのことなのです。
事が発覚し、大学側がどのような賠償をしたらよいかと尋ねた時、大聖堂側は、謝罪してくれればいいと言ったとのことです。
世界遺産のようなものに、取り返しのつかないこと、賠償できるようなことではないということでしょう。お金では賠償できない。取り返しのつかないことです。
人の罪、殺人の罪、心の中であいつ、馬鹿野郎と思えば人殺しであるとイエス様は教えて下さいました。
自分が神になって、傍若無人に神に対しても、人に対してもふるまう、これが原罪の姿でありましょう。人の迷惑なんて顧みず、自分が楽しければそれでいい。それがこの世界に蔓延しています。そして私も、その罪人の一人です。
神をなき者にし、人を顧みず、ヤコブ書のように、自分が欲しければ、人殺しをもする人間。存在を無視し、意地悪をし、争う人間。
取り返しのつかない罪に対して、死刑が確定した人間に対して、神様のお答えは、イエス・キリストによってあなたを赦しますというものでした。

フィレンツェの大聖堂からの答えもまた、「謝罪をのみ求めます」というものでした。
それは、何の痛みもなく、まあいいや、水に流しましょう、というような軽々しいものではありません。壁の落書き、人の心の罪深さを見る時に、いかんともしがたい胸の痛みにさいなまれるのです。しかし、神様は、それでもなお、あなたに、救いの道を与えよう、そう願って下さるのです。

9節、「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。」11節「・・洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」

契約とは、お互いに意思をもって主体的に結ぶものですが、これは神様からの、一方的な恵みの契約です。
13節、「すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地との間に立てた契約のしるしとなる。」

虹という言葉には、もともと戦いの道具である「弓」という言葉が用いられています。神様が戦いをやめて、その道具を手から離しているという象徴でしょうか。
今日のように雨がざあざあと降り続く時、よもやまた洪水の再来かといぶかり、恐れる人間たち。しかし雨が上がり、天と地とをつなぐような、この世界のどんな建造物よりまさるスケールの美しい光と色との、虹の架け橋を見る時、それは、神様の、私たち人間に対する赦しの愛のしるしなのです。
私たちが虹を見て、そのように感謝すると同時に、神様もまた、同じ時、その虹を見ておられます。
16節、「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」

 神様もまた、虹をご覧になり、地上のものすべてのための永遠の契約を心に留める。永遠の契約を思い返して下さるとここに書いてあります。

「神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」 箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。 この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。」(17-19節)

神様は、繰り返し、「これがわたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」と念を押されました。
「セム、ハム、ヤフェト・・・。・・・ この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がった・・・。」
ノアの息子たちから始まって、また人類は神様の恵みを受けて増え広がっていきます。そして歴史は繰り返され、罪が繰り返されていきます。

「永遠の契約」に心を留め続けて下さっている神様は、時至って、天と地の架け橋のために、十字架の上の、イエス・キリストを人類に与えて下さいました。どう考えても取り返しのつかない罪のために、神様は、今あって、次には消えてしまうような虹よりもまさって、その虹をはっきりとあらわし続ける十字架を、打ち立て下さいました。

虹のたもとにたどり着けたら、そこには幸せがある、そんな風に聞いた記憶がありますが、虹は、イエス・キリストの十字架によってはっきりとあらわされた神様の永遠の救いのご契約であり、一方的に与えられた神様の恵みのご計画であり、地なるものを天に、ご自身のもとへと携え上げるための神様のはしごであります。

天は地からはるかに遠い、つかみどころのない、遥かかなたではなく、そこから神の御子イエス・キリストが下ってきてくださり、いつの時代にも、心を砕いて、悔い改め、神様のいつくしみと赦しにすがるものすべてに救いを与えて下さるのです。

世界は再創造されましたが、日々、終末へと向かっています。世界の秩序も、エデンの園のようではなく、命を奪いあう所となってしまいました。しかし、この世界のそのようなどん詰まりの中にあって、輝き続けるのが、神様の永遠不変の救いの契約なのです。
私たちは、心をむなしくして、ただイエス・キリストの十字架の贖いにより、私たちを義として下さった生ける神様に今週もただすがり、歩ませていただきたいと願うのです。

「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14:6
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」 ヨハネ3:16-17

 

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