説教原稿
2008年6月22日
「神は…御心に留め」
創世記 8章1-4, 15-22節
四十日四十夜、水が天から、地の下から注ぎだし、水は増し加わり、山々を飲み込みました。
すべてのいのちは飲み込まれ、箱舟の中のいのちだけが、いま洪水の中、保たれました。
神様の天地創造から始まって、1章、2章と創世記を読み進めました。
すばらしい世界がつくられ、人がつくられ、1章2章。どんな素晴らしい世界が始まっていくのかと思えば、はや3章では、罪に堕ちてしまいました。4章では、兄が弟を殺してしまいました。世の中は自分の力を誇る大合唱で騒々しくなり、5章では、数少ない、主の御名を呼び求める者たちを数えます。
6章から10章までは、堕落した世界に対して、神様の再創造の御業が書き記されています。
6章では、神様は、人がご自分の霊を留め置くことに対して全くふさわしくない者であることを見て、悲しまれました。そしてご自分に従い歩む者を探され、ノアをお見つけになられました。
神様がノアを良しとして下さらなければ、この世界には残る者が一人もいなかったのです。しかし神様は、ノアを通して、ご自分の救いの業をなして下さったのです。
今この世界の中で、神に従う、神のご計画を果たすべきノアは、誰でしょうか。取り分けられているのは、私たちであります。
神様は、ノアが任務を遂行するにあたり、幾重にも、お守りを与えて下さいました。一生に一度の大事業でありました。途方にくれるような大事業。ノアは、神様のお言葉を信じ、晴れの日に、巨大な箱舟を作り上げました。
本当にこんなものが必要なのだろうか。周囲の馬鹿にする声。しかし、ノアは、神様に聞き従う人でありました。
動物はひとつがいずつ、彼のところにやってきました。神様は、箱舟の戸を、彼の後ろから、しっかりと閉ざして下さいました。
創世記1章2章で天地創造が行われたように、6章7章では箱舟がつくられました。3章で罪に堕ちましたが、8章では、水が引き、いけにえがささげられ、礼拝が始まりました。4章では殺人が行われましたが、9章では、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と、神様の祝福の言葉が語られています。10章では、5章と同じく、系図で締めくくられています。
主は世界を造り、そしてその世界を改革されます。造り上げ、そしてその世界が健全なように、いつも整えられます。
主は剪定ばさみを持って、畑に向かわれます。ヨハネ15章には、ぶどうの木を剪定される神様の姿が描かれています。
神様の深い悲しみでした。ご自分がつくった命あるものを、地の面からぬぐい去られたこと。そのお悲しみがどれほど深いものか、私たちは知ることが出来ません。
あんなに素晴らしい天と地を造られ、緑が茂り、鳥が飛び、生き物がたわむれ、人が増え広がっていたのに。その世界は今、小さな箱舟の中にわずかのともし火として、残るのみです。
しかし彼らは、ご自身に従って歩んできた者たち。もう一度、彼らに期待してやっていこう。神様は、人と歩まれることを続けて下さるのです。
洪水の中、木の葉のように翻弄される無力な人間と、動物たち。40日40夜、なすすべもなく、波間に漂っている小舟。もう人間には金輪際かかわりを持ちたくない。もう二度と裏切られるのはごめんだ。こう思い返せば、簡単にピリオドを打つことのできる神様でありました。
しかし1節、「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」
神様は、ずっと、ノアと、ともにいた獣と家畜とにお心を留めていて下さいました。ずっと忘れない、一時たりとも忘れてはいらっしゃらなかったのです。
救われて今あると知りながらも、この先どうなっていくのだろうと、さながら小さな船の中で、将来を危ぶんでいる方はいらっしゃるでしょうか。10の奇跡によってついにエジプトの王ファラオの口から、もう行って良いとの言葉を受け、夢見心地で出発すれども、すぐに追手がやってくるとき、民は、こんなところでおれたちを野垂れ死にさせるために導き出したのかと、叫んだものでした。
数々の奇跡を目の当たりにしたイエス様の弟子たちも、突然の波風に、船から水をかき出してもかき出しても、一向に努力の甲斐なく、疲れ果ててしまったとき、彼らもまた、主よ、私たちが死んでも構わないのですか、あなたはなんと薄情なのか、私たちを見捨ててとばかりに、叫ぶのです。
四十日四十夜。それは長い長い時間でした。しかし主は、彼らみんなを御心に留めていて下さいました。彼らのことをずっと覚えていて下さいました。
私たちも、同じように、ずっと、神様のもとへ行くときまで、覚えられている幸せを思います。私たちは、インマヌエルの主の民、「神われらと共にまします」主の民なのです。
水の上に主は風を吹かせられました。創世記1章の創造の初めを思わせるような表現です。
主の再創造が、始まります。
着々と。
七の月の17日。二の月の17日から洪水が始まりましたので、丸5カ月です。水が徐々に引き、ついに、「ゴリゴリゴリ。」船の底が、山の上の土地に着陸しました。
この5ヶ月間は、彼らにとってどんなに長いものだったでしょうか。
狭いところで、食料も、限られています。上に下に、たった8人の家族ではクタクタで、身も細る思いだったでしょう。
しかしこの日々、心細く思う彼らをずっと神様は覚えていて下さったのです。神様は、目には見えませんが、確かに生きて、箱舟を操縦していて下さったのです。そして見事、山の上に、まっすぐに、おさまりました。斜面に引っ掛かってひっくり返ってしまわずに。低い低いところまであてどもなく落ちてしまわずに。
さらに3か月、他の低い山々の頂が、見え始めました。
ノアは、カラスやハトを放ち、宿り木が生え始めているか、土地に実りができ始めているかと、調べます。7日待ち、さらに7日待ち、という風に鳥を放つノア。ここでも、神様の創造の一週間が思い出されます。この神様の一週間をもとにして、生活している彼らの日々のサイクルが、感じられます。神様は日々、働かれ、そして7日目に休まれた。私たちも共に、働き、休み、神様のお働きに自分の身を沿わせていこう。神様が働かれるので私たちは働き、神様が休まれるので、私たちもまた休み、私たちの先立って歩まれる神様を主とたたえ、信じ歩む決意を新たにしよう。こうした彼らの歩みの様が垣間見えるようです。
その通り、彼らは、ハトがもうノアのもとに帰ってこないのを見ても、また、一の月の1日、洪水から9か月が経とうとしている時、地の面が乾いているのを見ても、舟の中から動こうとはしませんでした。
二の月の27日。太陽暦に換算して、ちょうど洪水から1年。ついに主は、ノアに仰せになりました。
「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。
すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」
箱舟を造りなさいと聞けば、箱舟を造り、入れと言われれば入り、出なさいと言われるまで舟の中にとどまっていたノア。
ノアの真面目一筋の信仰ぶりからは、本当に学ばされます。腹が据わっています。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ルカ1:45
ノアは、この一年間のうち、何を経験したのでしょうか。
彼は、神様の運びの御手を確かに経験していました。
紅海を二つに分けて、出エジプトの出来事、モーセが水の中から導き出されてエジプトの王子に。ヨセフも兄弟に憎まれ、殺されかかっても不思議とエジプトの総理大臣に。ダニエルは、日の中、ライオンの穴の中から救い出されました。
聖書の中に、実に不思議に運び出されるお話の多いことでしょう。火の中、水の中。神様は、運び出して下さいます。
ノアにとっては、水の中を通され、私たちにとっては、洗礼を受けるような一年間の出来事だったことでしょう。
神に従って生きることにより、自分と家族の命を救ったノア。世界の生きとし生けるものを救ったノア。
しかしこのすばらしい快挙は、彼自身から出たものではありませんでした。彼は、一歩一歩、神様に従って歩んだに過ぎないのです。聖書に出てくる運び出された人たち皆もまた、同じでした。
彼は、舟から出て、まず最初に何をしたかといいましたら、導きだして下さった神様への感謝の礼拝でした。
きよい供え物も、7つがいずつ、あらかじめ、用意されていました。
ノアは、導き出して下さった神様の前に、祭壇を築き、焼き尽くす捧げものとして祭壇に捧げました。
ノアの感謝の思いは、その祈りは、焼き尽くす捧げものとともに、神様の前に立ち上りました。
主はその宥めの香りをかいで、お喜びになりました。
私たちもまた、一週間の歩みを終え、週の初めに、数々の自らの過ちを悔い、また、一週間の神様による、奇跡的な運び出しの御業を覚えて、祈りとともに、礼拝を捧げております。私たちの焼き尽くす捧げものは何でしょうか。 何をもって私たちは、生ける神様の前に出ているのでしょうか。それは、私たちの代わりに死に、宥めの捧げものとなって下さったイエス・キリストによってであります。
21節、「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」
人の悪が増えたのを見て、洪水を起こされた神様。しかしここでは、ノアがささげる焼き尽くす捧げものの宥めの香りをかぎながら、人に対して大地を呪うことは二度とすまいと、みこころに言っておられる神様です。人が心に思うことは、幼いころから悪い。わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
「この度したようには、二度とすまい。」
またしても、悪に染まりゆく地上の民。しかしこの度したようには、二度とすまい。それではどのようになさるのか。
神様は、ご自分のひとり子イエス様を、宥めのいけにえとしてささげ、民の礼拝の道を、切り開いて下さったのでした。
あくまで罪に染まり、悪を心に思い図る人間。しかし、そのような人間に対しても、その中に、ノアのように、一人の礼拝者でも見出すならば、何を置いてでも救おうとなさる神様のお姿です。
神様は、一人の礼拝者が心を砕いて悔いた祈りをささげるならば、それをこのうえなく尊いとみなされ、愛するひとり子を下さるほどに、私たちを愛し、運び出そうと、考えていて下さいます。
私たちの祈る姿が、神様の、この世界を見る悲しみのまなざしの中にあって、どれだけ慰めとなっているか。
「地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」
地の続く限り。これは、やがて、この世界に終わりが来ることを暗示しているように思わけます。いつも通りの季節がめぐってくる。種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。神様は、人に対して大地を呪うことは二度とすまい、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。しかし、だからといって、人が何をしようとお構いなしということではありません。
洪水でのように、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。しかし、神様は、イエス・キリストによって、この箱舟を用意され、いま、神様に従う民を、集めておられます。そうして、この地の終わりがやってきます。種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、それらのない、神様の都に住まう時を、神様は用意しておられます。
生きるものすべてを愛し、配慮し、常に運び導く方を信じ、神の御言葉に従って、愛され、赦されて、隣人を赦し、愛するものとなることができますように。
神様から赦しといのちをただで頂いたものとして、隣人に、真実に仕え、分け与える者となることができますように。
このような捧げものを持って歩み、神に礼拝する民を、神様はこよなく愛して下さいます。
今週も、神様のみこころに従い、隣人のために歩む日々を主が祝して下さいますようにと、祈ります。
マルコ12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
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