説教原稿
2008年6月15日
「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」
創世記 7章1-6, 13-17, 23節
6月半ば、梅雨の時を迎えております。
昨日は、岩手、宮城内陸地震が起こりました。中国の四川でも少し前、地震が起こりました。ミャンマーでも、サイクロンにより、多くの方々がなくなりました。
7・・・方々に飢饉や地震が起こる。
8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」 マタイ24:7-14
思えば人が罪を犯し、地は呪われ、それまで豊かな実りに預かっていたのに、額に汗して作物を得るようになりました。
はびこる雑草とやってくる害虫。はたまた病気。小さい虫から大きな動物まで、作物を狙ってやってきます。時が時なら、人間までもが、作物泥棒としてやってくる。田畑を耕し、実りを得るというお仕事がどんなに大変か、私はこの地に遣わされ、学ばせていただいております。
しかし、自然の中が職場とは、なんというすばらしい環境!そよ吹く風はおいしく、緑の色に囲まれ、草の匂い、カエルの声、足の感触、体を動かして、良い運動です。東城は子供が少ないとよく言われますが、いえいえ、お元気なお年寄りの方々が多いということ、これは自慢すべきことと思います。私は先日、91歳のご夫婦にお会いする機会を得ましたが、農業に従事されたご夫妻のなんとお元気そうなことか!
狭いオフィスですし詰め、見るところといえば50センチ先のパソコンの画面でずっと椅子の上から動かない。
もちろん都会で事務仕事をしていても、かくしゃくと長生きなさる方は大勢いらっしゃいますが、私は、農業というお仕事の大変さとともに、なんと自然に包まれた、豊かなお仕事だろうかと学んでおります。
ああ、あなたは足を田んぼに入れずに、外から見ているだけだからそんなことが言えるんだとお叱りをいただく声が聞こえてきそうですが、大自然の懐の中で、時計を見ずに、日が昇り、日が沈み、自然の空気を吸って体を動かして一日を過ごすお仕事に、魅力を感じております。今この自然が美しいのならば、エデンの園はどんなに美しかっただろうかと考えたりいたします。
神様が良いものとしてこの世界をお造りになり、最後に、それら被造物の中でも、最高傑作として人間をお造りになりました。
しかし人は神様の前で生きる道を自ら閉ざし、祝福の園から離れて生きるようになりました。
ノアの時代、洪水がおこりました。
大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれました。
これは、地の下からも、天の上からも水がやってきて、この世界が水に沈んでしまう様を表しています。
聖歌397番に、「とおきくにや」という曲があります。森祐理さんという方が、阪神大震災の時、弟さんを失い、この曲を歌い歩かれましたが、この曲は1923年9月1日、関東大震災の起こった夜、作られました。
「作詞・作曲をしたJ.V.Martinは、大阪市立高等商業学校(現 市立大学)の英語講師として大阪に住んでいました。この日たまたま東京に来ていた彼は、被災者を見舞うために、芝白金の明治学院のグランドへ向かいました。夕闇せまるグランドには大勢の人たちが、肩を寄せ合うように集まっていました。数は十分ではなかったでしょうが、グランドで夜を過ごすために、蚊帳(かや)と、ろうそくが支給されました。
9月になったばかりで、まだまだ残暑が厳しい時期、しかも、まだあちらこちらで火がくすぶり、時折襲ってくる余震に怯えながら、愛する家族を、帰る家を失い途方にくれた人々からは、すすり泣く声しか聞こえてこなかったでしょう。
Martin自身、深い悲しみの思いを抱いて、瓦礫と化した街を通りながら、その絶望と悲しみに包まれたグランドに近づいて行きました。その彼の目に飛び込んできたのは、暗闇の中に浮かぶ十字架でした。
もちろん、それは本当の十字架ではなく、蚊帳の中で灯されたろうそくの光でした。でも、彼にはそれが絶望の闇に光り輝く十字架に見えたのです。Martinはその場でペンをとり、すぐにこの詩を書きしるし、大阪に戻って、曲をつけ完成させたのでした。」
1.遠き国や 海の果て いずこに住む 民も見よ
慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けリ
慰めもて ながために 慰めもて 我がために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けリ
2. 水はあふれ 火は燃えて 死は手ひろげ 待つ間にも
慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けリ
慰めもて ながために 慰めもて 我がために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けリ
3. 仰ぎ見れば など恐れん 憂いあらず 罪も消ゆ
慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けリ
慰めもて ながために 慰めもて 我がために
揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けリ
「水はあふれ 火は燃えて 死は手ひろげ 待つ間にも
慰めもて 変わらざる 主の十字架は輝けり」
洪水の時。神様が大空の下と大空の下の水を分け、・・・乾いた地をお造りになった創造の業が覆されるように、主なる神様は洪水を起こされ、主がつくられたすべての生き物を地の面からぬぐい去られました。それはどうして起こったのか。それは、神様から命の息をいただいた人類が、もともと造られたちりあくたのガラクタになり下がり、神様の霊が住むにふさわしくなくなってしまったからでした。
しかしそのような悲惨と荒廃の中、私たちは、その洪水の中にあっても示されている主の恵み、主の表わされたご誠実さというものから学びたいのです。水はあふれ、死は手を広げ待っていようとも、慰め持て、変わらないのは、主の十字架、主の救いです。罪人のために、さばきの只中にも、主の救いは確かに用意されているのです。
苦しみの只中にも、主の恵みは、残されているのです。
罪を犯した人類を直接呪わず、地を呪われた神様。皮の衣を用意して下さった神様。箱舟を用意し、モーセと十戒と奇跡とを用意し、預言者を用意し、捕囚からの解放を用意し、救い主キリストを用意して下さった神様!
私たちは、主の御怒りの中にあっても、救いの道はずっと用意されているということを、心にとどめましょう。人は世々変わらず、罪深い。しかし主は変わらず救いの門を開いて下さっているのです。
あの洪水の時の人々に対しても、です。ノアがずっと箱舟を造っている間。そして、主がさあ箱舟に入りなさいとおっしゃってから7日の間。人々にはチャンスが与えられていました。
しかし、箱舟に入ったのは、ノアとその家族、8人だけでした。
13 あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
14 わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――
15 それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」 ヘブライ書3:13-15
主の十字架は、いつも輝いています。
この世代の中であなただけはわたしに従う人、
直訳しましたら、あなたは私の顔の前に、ただしい、という意味です。
神の前でのただしさとは、何のことでしょうか。それは、神様の前を、神様との関係を持ちながら歩むということです。義というのは、その人の正しさということではなく、ただしい方である神様の前に生きるということです。神の前のきよさとは、何でありましょうか。それは神様が一方的に私たちを憐れみ、導いて、ご自分のものと聖別して下さったことによります。私たちの内にあるきよさではなくて、私たちの上に着せて下さる、私たちを一方的にわけ隔ててきよめて下さる神様の御業であります。
「さあ、あなたとあなたの家族はみな、箱舟に入りなさい。」
神様が用意して下さる救いです。
「清い動物をすべて7つがいずつ取り清くない動物をすべて一つがいずつ取り…」どうしてきよい動物だけ7つがいずつなのでしょうか。これは、洪水が治まったのち、神様にささげるいけにえのことなのです。
創世記22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
まさに主の山に備えあり。神様は、ご自分との間にささげるいけにえまで、私たちのために、備えて下さいます。私たちがガラスを割って、ごめんなさいと弁償のガラス代を持っていくべきところを、もう用意しておいたよと、差し出して下さる。これは、イエス・キリストの贖いのひな型です。
エペソ2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
私たちが行う良い業は、神様があらかじめ準備して下さっていると、聖書には書かれています。
神様の御名、それは、「用意したまう方」です。
私たちは、神様が用意して下さったものを受け取ればそれでよいのです。そうして、ありがとうございますと、応答して生きる時、私たちは、神様の顔の前に正しいもの、神様に従うノアとなるのです。
5節、「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」と書かれています。
7-12節、13-17節は、同じことが繰り返されているように見えます。
動物とともに箱舟に入り、雨が降り始めた。このことが2回、繰り返して書かれています。ただ、2回目には、少し詳しく書いてあります。
13節、箱舟に入ったのはノア、セム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、三人の息子の嫁。乗船名簿です。そして私たちの名前もまた、天のいのちの書に記されています。
ルカ10:20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
そして次に、動物たちが箱舟に入った下りです。
15節、「命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。」
驚くべきことに、動物たちが、雄雌二つずつ、ノアのもとに来て箱舟に入ったとあります。これもまた、背後に働かれる神様のお働きを考えずにはいられません。
16節、「神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」
「神が命じられたとおりに」。神様の御心は、成ります。神様はその御言葉の通りに、すべてのことを成し遂げられます。詩篇にこう書いてある通りです。
147:15 主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。
147:16 羊の毛のような雪を降らせ/灰のような霜をまき散らし
147:17 氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。
147:18 御言葉を遣わされれば、それは溶け/息を吹きかけられれば、流れる水となる。
147:19 主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。
147:20 どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。
そして、「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」とあります。神様は、すべての人と動物が乗船したのを見届けられ、そして、箱舟の扉を外からしっかりと締めて下さいました。
ここにも、いける神様の、守りの御手があります。これから来る洪水に備え、万全の守りを施して下さる神様です。
思えば、あれも、これも、神様が備え、導いて下さったこと。
ヘンデルの「ああ感謝せん」という賛美が思い出されます。「ああ感謝せん、今日までわが神、導きませり」、出エジプト記を題材にして作曲されました。
結局私たちは、神様のお守りの線路の上を、ご計画に従って、ささげるいけにえもよい業も備えられて神様の前を歩いていくのみ。肩肘を張っても仕方がないのです。全幅の信頼を持って、信仰を持って、今週も、神様とともに歩みたい。神様は数々の導きを準備していらっしゃる。
私たちは赦し、恵んで下さる生ける主に向かい、ただ、数々の備えに感謝しますと叫ぶ以上のことができるでしょうか。
水は山々を飲み込み、すべての頂を飲みつくしました。そして、「水は百五十日の間、地上で勢いを失わなかった。」とあります。こんな状況でも、主に信頼する人は、救い出されます。
思わず悲劇が襲う時、面喰ってしまう時、途方にくれる時、私たちは、箱舟なるキリストにすがる心さえ持っていれば、すべてのことにあっても勝ち得て余りあり!ハレルヤとともに叫びながら、一週間の旅路に出て参りましょう。
ローマ8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
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