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説教原稿

2008年5月25日
「その子をノア(慰め)と名付けた」
創世記 5章1-5、23-32節

今日も私たちは、恵みの座に導かれていることに感謝いたしましょう。
この世界は、神様の言葉によって作られました。
それゆえ、私たちは、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばに』よって、生きます。マタイ4:4 

私たちは今日また、世界を造られた神様の御言葉によって生かされ、恵みを受けるために、ここに導かれてまいりました。生ける神様に、感謝いたします。

人は、神様によって作られ、神様によって鼻に息を入れられ、神様にあって生き、神様の前に生きる存在でした。教会で日常生活で私たちは、神の前に生きるということを体験しているのです。私たちは、イエス様によって、いのちの小道に導き戻していただいたのです。

人は、善悪の知識の木から食べて以来、自分を神と等しいものと考え、自分の判断を絶対として、神はすでに死んだと言って、長い間神様に背を向けて、今日に至るまで、歩んでいます。本当の創造主のもとに帰らずに、本当のお父さんのもとに帰らずに、いろいろな神々を造って、好き好きに歩んでいます。「この人が今日から私のお父さん」と言ったところで、本当のお父さんは、たった一人です。
キリスト教は、一神教は、排他的と、よく言われます。しかし、私たちのことを考えても、私たちを産み落とした母は、そのあと何人の母ができたとしても、本当に産み落とした母は、一人です。私は再婚した母は、本当の母ではないと申し上げようとしているわけではありませんが、神様を考える上で、多くの「再婚」を認めると、これは難しいことになってしまいます。

少し横道にそれましたが、かつて人間がそうであった状態、祝福のうちにあった状態は、「神様と共に歩む」ということでした。そしてこのことは今日なお、私たち人間にとって、もっとも幸いなあり方なのです。

神様のもとを離れてしまった人間が、どのようにしてまた神様と共に歩めるのか。これは、アダムから始まった人類にとって、最大の課題でした。カインの家系は、開き直って人間の力によって華々しく生きようとしているようです。レメクは、「俺様に危害を加えるような奴は俺様が77倍の報いを与えてやる」と言い放ちましたね。新約聖書には、イエス様とお弟子さんが、このように話していました。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。マタイ18:22
イエス様のお言葉、すなわち神様のお言葉からはいつも、恵みの香りがします。
神様のもとを離れた人間。いかにしてまた神様のもとに戻れるのか。このことが、旧約聖書の中に、次々と書いてあります。いけにえをささげ、罪のなだめものを捧げ、心を神様に向けていくのです。しかし最も優れたささげものとは、何でしょうか。それは、ダビデが言いますように、打ち砕かれた、悔いた心です。
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」詩篇51:17

神様は一貫して、罪を犯し続けるご自分の民に、悔い改めによってご自身のもとに帰ってくるようにと、願っておられます。しかし人間は、深い悔いた、砕かれた心を差し出す代わりに、外面的な、ささげものに目をとらわれてしまうのです。
どんなに美しい、高価なささげものよりも、神様は、悔いた真心を願っていらっしゃいます。
これは、おじいちゃんとおばあちゃんが、孫を受け入れる時に、どんなお土産を買って持って行こうかと悩む孫にこういうのに、似ています。「いいんだよ、なぁんにも持ってこなくても、お前の笑顔が何よりだよ。」
私はこんな心を逆手に取って、何も持たずに訪れて、甘えるだけ甘えて、エビも投げ入れないで鯛を釣るような孫でありましたが、神様は、どんなに、ご自分が手塩にかけてお造りになった人間一人ひとりの帰りを、首を長くして待っていらっしゃるか、そう思うのです。神様は一人一人の名前をご存じです。私たちの髪の毛の本数まで、みなご存じです。

「島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。」イザヤ49:1
「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」イザヤ43:1-4

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」マタイ10:29-31

なにを仲直りのためのささげものとして持って行こうか。エサウのまえに、ヤコブが行列のささげものを携え行った姿が思い出されますが、私たちは、神様のもとに、何を携えて戻っていけばよいのでしょうか。
旧約の民は、いけにえをもって進みました。しかし、新約の時代には、ささげものすら、神様は用意して下さったのです。それが、私たちの主、キリストです。
髪の毛の本数まで知り極めるほどに、私たちのことを深く思い、心配し、雀の一羽にまで心を配っていて下さる神様です。どんなにか私たちがご自分の所に帰ってくることを願っていらっしゃるのでしょうか。神様は、私たちに、帰るための、ささげものさえ、用意して下さったのです。
7を70倍するまで赦す神の愛。1万タラントン。膨大な負債を許して下さる方。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」ルカ17:4とおっしゃる神様です。

私たちが神様の前に帰るためにどうしたらよいか。それは、神様が用意して下さった礼服を着て、喜びの祝宴に出ていけばよいのです。(ガラテヤ3:27)(マタイ22:8-)そこには、私たちが帰ってきたと言って、大喜びする、私たちの家族、神の家族(エフェソ2:19)が首を長くして、待ち焦がれているのです。

自分のことは自分で決める、復讐もまた、自分でする。正しくない者、完全でない者が、それぞれに自分の正しさを振り回すときに、争いがおこります。しかし、私たちは、イエス様によって生きると、信仰によって生きると、そのために、十字架にかかって死なせていただいたのです。そして今、神様とともに、よみがえりの命に、生きています。

「おれの報いは7を77倍。」と言ったレメク。一方で、「7を70倍するまで赦しなさい」とおっしゃったイエス様。私たちは、どちらの尺度に従って生きていこうと願うのでしょうか。
カインの流れは、そのような歩みでした。だからと言って、アダムとセトの家系の人たちの生き方が、全く正しかったわけでもないでしょう。しかし、アダムとセトの系図の中から、きらめく星のような人物が出てきます。その人たちは、「信仰によって」歩みました。

創世記5章の家系を見ます時に、「息子や娘をもうけた」「死んだ」という言葉が次々と繰り返されます。家族をもうけて、死んでいく。この世に生を受け、ステージに立ち、家族をもうけて、にぎやかになるも、今度は自分が花道を歩き終わって袖から退場する。人の一生は、そのように終わっていきます。
善悪の木から食べて、直ちに死は訪れませんでした。しかし、確実に、人は死ぬという宿命を負ってしまったのでした。
800年、900年、長い長い人生でした。しかし、長いと言っても、永遠から比べたら、ほんの一瞬に変わりはありません。
しかし、その人類の死の問題に対して、イエス様は、永遠の命をもって、贖って下さったのです。

24節、エノクは神と共に歩み、神がとられたのでいなくなった。神と共に歩む人エノク。彼は死を体験しませんでした。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ヨハネ11:25-26

私たちも、イエス様を信じ、イエス様とともに歩み、イエス様が私たちたののうちに生きていらっしゃり、死んでも生き、決して死ぬことがない、そのような、エノクのような生き方へと導かれているのです。

そして、慰めという名の、ノアが生まれました。ノアからは、セム、ハム、ヤフェトとという、3人の子が生まれました。この3人から、アジア、アフリカ、インド・ヨーロッパへと、いわゆる人種が広がっていきます。

ノアもまた、信仰の人でした。この後に、洪水の出来事がおこりますが、ノアは、神様のお言葉を固く信じ、お天気のいい日に、洪水が来ると言って、大きな箱舟を作り始めました。周りの人はきっと彼を馬鹿にしたでしょう。「大雨が来るって?この世界がみな、水没するって?お前さん、本当にそんなことを信じているのかね? 神様?そんなの迷信だよ!」

しかし、実際に洪水は、起こりました。

私たちも、神様のお言葉を信じて、歩み続けるということは、時に理解されない時があります、不毛な試みのように、無駄なことをしているように思われることがあります。そんな信心は気休めだと言われる時があります。
しかし、神様のお言葉を信じて、歩む私たちは、慰めの子なのです。イエス様という方のうちにしっかりと根ざして生き、イエス様が私たちのうちに生きていて下さるとき、私たちは、どんな洪水からも、燃え盛る炎の中からも、守られるのです。

私たちは、不器用なように見えようとも、間が悪いように見られようとも、神様のお言葉を信じぬいて、イエス様の生きざまに習い、イエス様にあって生かされています。この神と共に歩む生き方を、続けていきましょう。イエス様と、神様の愛を、お伝えしていきましょう。私たちは、死をも乗り越え、慰めの子となっているのですから。

ヘブライ書
11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
ヘブライ書
11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

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