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説教原稿

2008年5月18日
「主の名を呼び始めた」
創世記 4章1-15、25-26節

詩篇
8:4 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8:8 羊も牛も、野の獣も
8:9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
8:10 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。

主の御名をあがめます。主の恵みは、とこしえまで。
神様は、最上の世界を創造され、その完璧なお膳立てのうちに、人を造られ、空の生き物、野の生き物、水の中の生き物を与え、それらを治めるようにと、人に使命を与え、女性という助け手を与えて下さいました。

神様は、いつくしみ深い父なのに、人は神様のお言いつけに従わず、何百本何千本のの木々の中から、わざわざ食べてはならない、たった一本の、死に至らせる木から実を食べてしまいました。

死に至り、罪の責め苦にあえぎながら、木の間に隠れ、神様の歩く足音におののくアダムとエバ。食べてはいけないという親の配慮をないがしろにして自分の思い通りにすることが自分にとって最善とは、何という独りよがり、結末を恐れない行いなのでしょうか。神様は、私たちに意地悪をするために規則を設けるのではありません。私たちが危険から守られ、幸せに暮らすために、決まりを設けられたのです。

おしっこを漏らして人前で、お尻を出すことに恥じらいを感じない、天衣無縫の娘と紹介いたしましたが、こんな出来事がありました。私たちが前任の教会で埼玉におりました時、団地に住んでおりました。台所と居間が一緒になった部屋と、隣にもう一部屋、居間があり、ふすま一枚でつながっておりました。私たちがそのダイニング・キッチンの隣の居間でテレビを見ておりますと、娘がにこにこしながら、ダイニング・キッチンへ続くふすまを閉めようとしています。気にも留めずにテレビを見ておりました。スー、スー、と、両方のふすまが閉まりました。どうしたのかな、遊んでいるのかなと、気に留めずにおりました。少しして、上の子がふすまを開けて、ダイニングキッチンへ行きました。ワーと、行っています。「ともちゃんが、勝手に冷蔵庫を開けて、アイス食べてるよー」上の子の声でハッとなり、隣の部屋を見ると、冷凍庫の扉をあけっぱなしにしたままで、下の子が、ニヤニヤしながら、アイスクリームをなめていました。
  子供が静かな時は、ろくなことをしていないとよく言いますが、こんな小さな子でも、誰から教わるでもなく、隠れて、ダメと分かった上で、自分の悪事を働こうと計画するんだ、賢いなぁ、ずるがしこいなぁと、思ったことでした。

ジュースをこぼして、怒られないように、上に何か他の物を置いて隠す。見つかった時、畳も、隠すために置いたものも、両方汚れてしまっている。

このような、隠れてことを行う、そして、発覚を恐れて隠し立てするということ、できれば隠しておきたい、うそをついても自分の不都合な真実は隠しておきたい、これは子供に限らず、私にも、存在する心です。むしろ大人はもっと巧妙に、綿密に、この隠し立てをしますから、よりたちが悪いのです。見つかって、すぐに「ごめんなさい」という子供の無邪気さからもかけ離れ、言い開き、居直り、逆切れするのが大人であります。

そんな人間に、もっと違う生き方をしてみようではないか、その隠れたところから出ておいで、私が赦してあげるからと、語りかけて下さるのが神様です。「どこにいるのか」そんな所にいなくていいんだよ。私は赦そうとしているのだから。神様の、「どこにいるのか」という問いかけは、あくまで恵みに満ちたものでした。しかし人は言い訳を考え考え、どんな顔をして出て行ったらいいのか、考えるあまりに、出ていけない。自分の犯したことが白日のもとにあらわされるくらいなら、いっそ罪びとのままでもいい、このように考えてしまうのが、人間であります。それほどに、頑固で、プライドが高い、ごめんなさいと言いずらい、これが人間であります。そうなってしまったのです。自分の中に、善悪の基準を持ってしまったがために、自分のプライドが許さないのです。誰が何といおうと、私はこの道を行く、そういう風になってしまったのです。
しかしそんな人の子に対して、何ものでもない罪びとに対して、神様は一貫して顧みて下さるのです。

今日は、聖書の中から、二通りの生き方を学びます。ひとつには、強い人。ひとつには、弱い人です。しかし「強い」生き方が必ずしも良い生き方ではありません。

アダムは妻エバを知り、エバはカインを産みました。エデンの園を追われ、砂を噛むようなみじめな日々だったことでしょう。そして、主の言葉のように、苦しみに苦しんで、子供を産みました。その時の喜び。それは、「私は主によって男子を得た」というものでした。「カイン」という名前は、獲得とか、所有という意味です。「手に入れたぞ」という叫びです。神様による回復を喜んだ言葉でしょう。この世界で第一号の出産の出来事でした。そしてエバはまた、その弟アベルを産みました。アベルとは、息とか、蒸気という意味です。今あって、次にはなくなっているというような、はかなさを含み持つ言葉です。はたして、アベルの一生は、この後はかなく露と消えてしまいます。いつしか、兄カインは力強く、弟アベルはそれに比べると弱々しく育ったのではないでしょうか。
  弟アベルは羊を飼うものとなりました。優しい羊飼いの姿を思わせます。しかし時には、少年ダビデのように、知恵を使って狼から群れを守ったことでしょう。兄カインは、土を耕すものとなりました。玉の汗を流して、ざっくり、ざっくりと、道具を使って血を耕す力強い姿が思われます。しかしまさかその手の先に、弟アベルを打ち殺そうとするようになろうとは。

エサウとヤコブのように、相容れない兄弟の姿を思い起こします。兄弟と言っても、同じ環境に育っても、その性格は異なる者があります。血肉の争いの原型のようなものがここにはあります。しかし、弟アベルは、何も兄に対して悪を行っていないように思われます。兄弟げんかの末の人殺しではありません。ではいったい何が、この人類最初の殺人事件のきっかけとなったのでしょうか。

二人は、自分が育てたものを主の前に捧げるために持ってきました。彼らは、神様から受けた恵みに対する感謝を捧げていました。苦労して、自分の食物を得る。もうエデンの園のような状況ではありません。しかし、黒い土に種をまく。そうすると、ちっぽけな種が何十倍、何百倍に成長して、実を実らせる。おいしい、命の糧が与えられる。これは大自然の神秘でした。羊が雄と雌で一緒になり、そうした後に、おなかが少しずつ膨らんで、新しいいのちが生まれる。羊のお乳や肉で、命が養われる。これは人が何の主導権をも取ることができない、自然の摂理によるものでした。自分が願ったからと言って、実のみのるのを早めることはできない。羊の子が生まれる時間を自分で決めることができない。

彼らは、背後に働き、自分たちのいのちを育んで下さる神様に、感謝の捧げものをしようと思ったのです。なんと素直な、微笑ましい、感謝のいけにえでしょうか。父なる神様に信頼と感謝を持った礼拝でしょうか。

しかしここで事件は起こります。カインは自分が耕して収穫した土の実りを捧げものとして持ってきました。弟アベルは、羊の群れから肥えた初子を持ってきました。
主は、弟アベルとそのささげものに目を留められたが、カインとそのささげものには目を留められなかったとあります。ここで注目することは、神様は、ささげものだけを見て目を留めるかどうかをお決めになったのではなく、ささげものと同時に、それをささげる人をご覧になったということです。
土の実りがたちまちに、肥えた初子と比べて価値が低いと決めつけることも、ここからは出来ません。兄カインがふてくされて、どうでもいいという気持ちでささげたとも書いてはありません。聖書に記されていますのは、主は、弟アベルとそのささげものに目を留められ、カインとそのささげものには目を留められなかったということです。

私たちはここで、ささげるということに対して、恐ろしくなってしまいます。私たちは、今まで、幾度となく、感謝のささげものをしてまいりました。そして、私たち自身をさえ、神様におささげして、神様の御用にお使い下さいと祈ってきました。しかしそのささげものに目をお留めにさえならないとなど、想像すらしてこなかったのではないでしょうか。感謝のささげものを拒むほどに、神様は、ご自分の流儀を要求されるのでしょうか。それでは、私たちは、感謝すら、恐る恐る主の前に捧げなければならないのでしょうか。

新約聖書には、このように書いてありました。
「わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」マタイ5:22-24

神様は、ささげものとともに、その人の心をご覧になります。ささげものをささげるとは、その心も含めて、そっくりささげる、礼拝するということなのです。ですから、自分が神の前に出て、礼拝をささげる時には、自分の心根を吟味しなければならないのです。なんと熾烈なことでしょう。誰がいったい、主のお眼鏡にかなうのでしょうか。私たちは、主に感謝します。主の前に歩み出る権利のなかったものに、曙の光が差し込んだのですから。

ルカ18:10-14
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

今日は、「強い者」と「弱い者」という観点から学びたいと申しました。いわば、ファリサイ人は、自分を義なる者、問題のない者、強いものとして徴税人を見下しました。徴税人は、自分の罪のゆえに、ただ胸を打ちたたきながら、神殿の、ささげものを捧げる台の所に近づくこともできずに遠くから、神の憐れみを求めるのでした。
これもまた、神の前にささげものをするときの光景でありました。
イエス様は、「言っておくが、」と、強い語調で語ります。「義とされて家に帰ったのは、この人」である。

神様は、ファリサイ人が憎いのでもささげものが嫌いなのでもありません。せっかく神の前にささげものを持って感謝の礼拝をしているのならば、それに見合う心根というものが大事ではないかと教えていらっしるのです。
神様のなさることとは、あくまで私たちにとって恵み深いものであり、教育的なものであります。懲罰ではありません。神様は私たちを祝福しようと、愛するひとり子にすべての懲罰を与え、贖いをなし、私たちを回復しようとしていらっしゃるのです。

神様は強いカインに、教えたいと思っておられたのです。自分の強さに誇り、弟をこ馬鹿にし、自分こそ所有する者カインと胸を張っていたその強さに、神様は危なさを見てとられたのではないでしょうか。アベルは、弱さゆえに、主への静かな思いを持ってささげものを捧げていたのではないでしょうか。

ささげものが受け取られないと見るや、カインは顔を真っ赤にして、烈火のごとく、怒りだしました。おそらく、カインのささげものは、相当に上等なものであったのでしょう。なんであのアベルの奴のものを受け取って、俺のものは受け取れないって言うんですか!
ここに、兄としてのプライドとメンツのようなものが見え隠れしたことでしょう。神への怒り、弟への嫉妬。
カインは激しく怒って顔を伏せたとあります。怒り狂った顔が見せられず、口からあふれ出ようとしていた不満をどこにも持っていくことができなかったのです。
彼はこれまで何の落ち度もなく生きていたと信じきっていました。弟を従え、作物を育て、長男として何の落ち度なく両親を喜ばせてきた。なのに何で??
自分は正しいと信じきっている人、地位や名誉のある人に、あなたは間違っていますと、何といいずらいことでしょうか。ですから、いつしか、社長の周りには、イエスマンたちがはべるようになります。誰も好き好んで危険を冒したくはありません。
ダビデに「その男があなただ」と言った預言者ナタンの言葉が、その勇気が思い出されます。イエス様がファリサイ人、祭司長、律法学者たちに恐れず言い放たれたあのお姿が思い出されます。
正しいと思い込んでいる人ほど、厄介な存在はありません。
カインは、目を留められずに、烈火のごとくに怒りました。顔があげられないほどに、悔しい思いをしました。全人格が否定されたような、思いでした。しかし主のおこころは、カインが気付いて、祝福を受けることを願っていらっしゃいました。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

もしお前が正しいのなら、どうしてそんなにうつむいているのか。顔をあげて、話してみなさい。自分の正しさを主張してみなさい。しかしお前は正しくない。私が優しく教えてあげよう。顔を上げなさい。お前がそのまま、怒りをもって罪を犯し続けるのならば、罪に支配されてしまうぞ。わたしのもとに来なさい。心の戸を私に向かって開きなさい。そうすれば私は入って、お前とともに食事をしよう・・・これは新約聖書からの引用ですが、この御言葉がひらめいてきます。
また、夕方、暗くなってから、イスカリオテのユダが、戸口から外へ出て行き、イエス様を売ってしまったという、あの出来事をも思い出します。

私が正しい、私は間違っていない。私は強い。と、あくまで考え続ける悲劇であります。

カインは、とうとう、自分の過ちを正そうとすることができずに、怒りを蓄えたまま、弟アベルを野に誘い出し、嫉妬の思いから、弟を殺してしまいました。彼の怒りのこぶしの一つ一つ。それは、自分を拒絶した神様への怒りと、受け入れられた弟への嫉妬でした。どうして自分が受け入れられないのか。その悔しさと怒りと弟への嫉妬。彼は自分かわいさに余って、「むさあ、お前の好きなようにするがいい、お前が世界の主人公なのだから。神でも、弟でもない。」との、悪魔のささやきに負け、自分の怒りにまかせて殺人を犯してしまうのであります。

新約の光に照らせば、人に対して、馬鹿野郎、あんな奴、しんじまえ、ろくでなし、こう思うならば、カインと同じ罪を犯すのであります。

主はカインに言われました。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」神様は、まだ、悔い改めのチャンスを与えていらっしゃいます。神様はすべてご存じなのに。どこにいるのかと、問われます。それに対して、カインは、「知りません、私は弟の番人でしょうか。」とウソをつきます。「しらねーよ、弟なんて、俺と関係ねー」、今日も、取調室で繰り返される弁です。

自分のもとから離れていく、罪を犯し続ける人間たち。どこにいるのかと問い続ける神様です。「すみません、私がやりました」との悔い改めをすら出来なくなった、人間の姿です。いまだなお、悪を行ったとの認識の不確かな人間です。そんな腐れきった人類のため、主なる神様は、罪の贖いのため、ご自分に戻る道筋を与えるために、一方的に、救いの道を与えて下さったのです。

「お前は呪われるものとなった、お前は地上をさまよい、さすらうものとなる」との主の言葉に、耐えられず、「私の罪は重すぎる」と、悔い改めではなくて、罰の減刑を求めるカイン。
そんな、後悔の念もさらさら感じられないカインを、神様は保護して下さるのです。

「カインを殺すものは、誰であれ七倍の復讐を受ける。」
血で血を洗う復讐劇。見るに堪えません。カインは守られ、さすらいの地にすみました。

町ができ、音楽が奏でられ、青銅や鉄による道具がつくられ、文明が花開きました。そこに、レメクという子孫が生まれました。
文明という力に頼み、その名の通り、「力」という名前のレメク。彼は、カインのための復讐が七倍なら、私のためには、七十七倍と豪語します。カインのためには神様が復讐して下さるはずだったのに、レメクは、代わって自分が七十七倍の復讐をしてやるぞと、自分の妻の前で豪語するのです。
神不在の、自分の力に頼む、かまびすしい、騒々しい、ガチャガチャとした、人の声が聞こえてきました。
まだ世界が始まったばかりなのに。いよいよ世も末かと思われます。しかし、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」という言葉をもって四章は閉じられます。
アダムとエバは、殺されたアベルの代わりに子供をもうけますが、その子をアベルに代わる子が授けられたとして、セトと名付けました。「得た」という名のカイン。「代わりに授かった」との名前のセト。セトは、その男の子を、エノシュと名付けました。エノシュとは、アダムと同じく、「人」という意味です。一人の造られた人にすぎない。こちらの家は、カインの一族と違い、力弱く、静けさがあります。
「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」
そんな砕かれた、力ない者の集まり、人をはかないものと知り、主の御名を呼び求める民。私たちの教会もまた、そのような集いであります。

へりくだり、土から作られた人にすぎないことを知り、罪を犯したら罪あるまま、神様のもとに身を避け、赦しを乞う民。礼拝の民であります。そのイスラエルの民とともに、神様はぴったりとともにおられ、ご自身の栄光を現わして下さるのであります。

Ⅱコリント12:9-10
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

Ⅰコリント
1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

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