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説教原稿

2008年5月11日
「死んではいけない」
創世記 3章1-11節

 今日は、創世記3章から、人には何が本当に必要なのかを学びたいと思います。

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、もっとも賢いのは、蛇でした。賢いという特徴を持つ蛇という生き物は、悪魔サタンにとって、恰好の取り入るべき動物でした。蛇は、鎌首を持ち上げて舌をシャーシャーと伸ばします。なんだ、あんなちっぽけな縄のような動物。こう油断して、後ろを向きますと、バッと飛んで、足のふくらはぎのような場所にかみつきます。その口にはとがった牙があり、牙の先からは毒液がしたたります。卵など、丸呑みにしてしまいます。大蛇になれば、動物をも丸呑みします。
昔話でも、やまたのおろちなどと言いまして、化け物の類ですし、その気味の悪い風貌から、蛇は嫌いと思う人が多くいるのです。
しかし最も、私たちの知る蛇は、人を誘惑して、呪われて後の姿ですから、元々は、最も賢く、見た目も良かったのかもしれません。
賢く造られた、そして良しと仰せられた蛇でありました。賢いということが悪ではありません。しかし、蛇は、サタンの片棒担ぎへとあるときから転落してしまったのです。その詳細は、ここには記されていません。
そして蛇は、まず女性に近づきました。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと、神は言われたのか。」
事実と正反対の、鎌をかけるような質問です。
どの木から食べてもいいのです。何十本、何百本、何千本の木から食べてもよいのです。
「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはならない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
触れてはいけないとは、言われてはいませんでしたが、アダムからそのように言われたのかもしれません。神様のご命令を徹底して守ろうとの思いからでしょう。

 女性は、そもそも蛇との会話を始めるべきではありませんでした。神様と、人との間の契約は、人が治めるべき被造物たちにとやかく言われるべきものではなかったのです。
もしこれが男性ならば、すぐに、私とお前と何の関係があるか、退け、と言っていたかもしれません。男は、神様から直接食べてはいけない、必ず死ぬと言われていました。しかし女性は、この命令を直接にではなく、アダムから聞いていました。ですから、所々、最初に神様がアダムに言った言葉と違う言い回しになっています。

「死んではいけない」、という言葉も、「食べたら必ず死ぬ」という言葉を少しソフトにしていますね。そこにまた、蛇はチャンスを見つけ出し、隙とみて、飛びかかります。
「決して死ぬことはない。」 「必ず死ぬ」という神様の言葉を全くひっくり返してしまいました。蛇としたら、たちどころに肉体の死が訪れることはないからという意味で、こう語っているのでしょう。しかし、確実に、死はやってきます。神様との関係における死。そして、930歳にして、アダムは肉体の死をも迎えます。
蛇は神の言葉をないがしろにし、その権威をおとしめ、人に、神の言葉に敵対するようにそそのかします。しかし直接、「その実を取って食べなさい」とはいいません。100パーセント嘘であることは語りません。都合のよい、見た目によいことばかり言って、その結果、実際にどのような被害をこうむるか、そんなことはお構いなしなのです。
ちょうど、悪徳商法のような手口です。相手のことはお構いなしで、嘘とホントを交えて、耳触りのよい言葉を持って近づいてくる。これが手口です。

最近も、羽毛布団のクリーニングを無料でしますよと言ってやってきて、結局高価な布団を販売する業者に注意と、回覧や、放送がありました。
蛇も、あなたは、神のように目が開け、善悪を知るようになりたいのでしょうと、おいしそうな実をちらつかせながら、女性を誘惑します。
あたかも、神様が、みすみす良いものを与えるのを渋り、出し渋っているような、言い方です。蛇は、神と人との間に立ち、神不信を煽っています。神の言葉への不信を、植え付けようとしています。どうしてその木の実だけは食べられないのか。おかしいのではないか?どうして神様は、そんなにいいものを、あなたに食べさせないんだろう? 神は、あなたが神のようになってしまうことを望まれないから、死ぬなどという方便を言っているだけだ。あなたは決して死なない。食べれば、目が開け、神のように善悪を知る者になれるんだよ。

これは、半分は正しいのです。この実を食べれば、確かに目が開け、神のように、善悪を知るものになるのです。そして、たちどころに死ぬということは、ありません。
しかし、本当に、それが益となるのか。サタンは、そんなことはお構いなしです。
サタンは、神様に敵対し、そして、神様を憎み、神様のものを台無しにすることによって、喜びを得るのです。

神様は、すばらしい世界を作り、完璧におぜん立てされたその世界に、人を置いて下さいました。そして、生きるものとなるように、鼻に息を吹き入れて下さいました。人は神様とともにあってこそ、生きるのです。そして神様は、人の幸せのために、決して死ぬことがないように、守るために、御言葉を与えて下さっているのです。
しかし人は、その神様のお言葉に疑いをかけさせ、誘惑にあおるだけ煽り、美しい言葉でだます言葉をかける。これが悪魔という存在です。
一見はこの上なく親切そうに近づきます。お布団を無料で洗って差し上げますよ。しかし、その心の奥には、この人ならだませるとの計算ずくです。消火器が使えなくなっているからとか、テレビがデジタルになると映らなくなるからとかと言って不安をあおったり、はたまた、先物で儲けましょうとか、人の欲をくすぐるやり方に出てきます。
しかし、悪魔の声は、本当に私たちを愛する者の声ではありません。本当に私たちを愛し、親が子どもを守るように語られる言葉ではありません。
魚をほしがる子供に蛇をやるだろうか。卵を欲しがるのにさそりを与える父親がいるだろうか。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。(ルカ11:11-13)
サタンは、魚だよと言って蛇を与えます。神を呪い、人を呪っているからです。平和な家庭があれば行って崩壊させようと狙っているのが悪魔です。卵の代わりにさそりを与えようとします。しかし、神様は、最も良いものを与えようとしていらっしゃいます。

人は愚かにも、本当に自分を愛して下さる方の言葉を信じる代わりに、自分を滅ぼそうと虎視眈々と狙っている蛇の言葉を信じてしまいました。

「そんな誘惑に弱い私に産んだあなたを恨みます」と神様に言えるのでしょうか。神様の創造の欠陥となじってすませようとするのでしょうか。このような考え方は、この後に出てきます、責任転嫁であります。神様は、人を非常に良いものとして、造って下さいました。何の欠陥もありませんでした。神様は、人をロボットのように命令に服従する存在として人間を造らずに、人の意思を尊重して下さったのです。

園の善悪の木の実を食べない、それが、人が、自分の意思で、神様のご命令を愛し、守るということの証しでした。人は自分の分際を知り、主なる神様に信じ頼って生きる。善悪を自分で判断する必要などない。神様の仰せこそが、善悪の基準だったのですから。

見目麗しいと欲望に駆り立てられた女性は、すぐさま、実を取って食べ、そこに一緒にいた男も、女性から渡されて、その実を食べました。一緒にいながら、女性をたしなめなかった男!そして、「彼も食べた。」何のためらいもなく、考えることもなく、あっけなく片付いてしまいました。
二人の目は開け、・・・いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」マルコ10:15
おかしなお話をするようですが、うちの子供たちは、紙おむつをつけておりまして、この頃は、布パンツをはいて、トイレに行くことも覚えつつありますが、紙おむつを履いているときには、おしっこがでると、重くなって、気持ちが悪くなります。そのようなとき、蒸れるような感覚も手伝ってか、おむつを自分で脱いで、ニヤニヤしながら私のほうへ濡れたおむつを投げてくることがあります。おしっこでズシリと濡れたおむつは、乾いていた時と違い、思いのほか遠くまで飛んできますが、子供たちは、開放感に包まれて、しばし素っ裸のままでキャッキャと踊っています。親の顔が見てみたい。ごもっともです。いったいどんな教育をしているのかと眉をひそめる方もいらっしゃると思います。
私は大抵、怒る妻に対して、「こんなことをやっているのは今のうちだから」と説得します。あの子たちは、確かに保育所ではそんな遊びはしないでしょうけれども、こんなことがありました。私が先日、子供たちと手をつないで保育所ヘ向かう途中、下の子供がおもらしをしまして、東城病院のあたりで、ズボンがびっしょりになってしまいました。着替えは保育所に置いてあるからもう少し頑張ってと、励ましましたが、娘はトコトコ歩きながらも、ついに気持ちが悪くなって、道路っぱたでズボンとパンツを脱いでお尻を出し始めたではありませんか。私はあわててズボンを上げさせましたが、大人がこんなことをしたら、逮捕されてしまうような事柄です。
娘も恥ずかしくないのだなあ、まだ子供なんだなあと、思いました。
神様のご意思に逆らって罪を犯して後、人は裸であることに気付き、あわてて腰巻を作ったとありますが、それ以前は、人は、娘のように自由だったのだなあと思います。
娘がお尻を出しているのを通りがかりの人が見たならば、願わくば、微笑ましい光景と思って下さることでしょう。
しかし、その人間の本来の姿が微笑ましい、そのままの繕わぬ姿が微笑ましい、という創造の秩序というものは、崩れ去ってしまったのでした。
これが「目が開かれる」ということだとしたら、何と不自由なことではないでしょうか。ありのままの姿が醜いと感じてしまうのは、本当に目が開かれたということなのでしょうか。神様が素晴らしいものとして造って下さったのに。誇りを持って生きられるはずだったのに。「恥ずかしい」という心、恥という心、これは、自分が本来あるべき姿に今いないから恥ずかしいということです。人は罪を犯し、目が開かれてまず見たものは、自分が罪を犯してしまったということです。自由を得ようとすれば不自由になるのです。列車は自由なりたいと言ってレールから離れれば、一歩も動けなくなります。魚が水の中は嫌だと言って水の外に出れば、生きられなくなります。

マタイ16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

こう書いてある通りです。

目が開かれ、善悪を知り、自分たちが神に背き、悪を行ったと知った男女は、「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」ました。
善悪の木の実を食べ、賢くなるというのは、本当に幸せなことだったのでしょうか。いえ、そうではありません。人は、神様の顔を避けるようになりました。自分の行いが悪いと、知っていたからです。そしてそれを知った上で、神様に許しを乞うということをせず、ただ隠れるのみ。罪を隠蔽したい。隠し通せばいいではないか。しかし頭隠して尻隠さず。これが人間のあさましき姿です。
木の間に隠れようと、神様にはお見通しです。
しかし神様は、そこにいると知りながらも、「どこにいるのか。」と問い続けられます。神様は、人のほうから、私はここにおります、罪を犯しました、どうかお赦し下さいと言ってくるのを、待っていらっしゃいました。
神様が問うて問うて、人は、もはや答えるしかないまでに、神様は、探し続けて下さったことでしょう。これは、神様が、悔い改めのチャンスを与えて下さっているのです。
アダムは答えました。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」
依然木の間に隠れながら。彼はまだ、謝ることが出来ません。罪の意識から、主なる神が自分をどう罰するかといったことを計算する余りに恐れ、裸であり自分をさらけ出すならば、神様に罪を見透かされてしまうという恐れから、彼は神の前に出ることができなくなりました。彼にとっては、自分を弁護するものは、彼自身しかいないと思っているようです。それまでに、自我の存在となったアダムは、神様に助けを求め、赦しを乞うということができなくなってしまいました。

神の前に出たら、自分の好きなことができなくなってしまうから、神の前に出るのはよそう。善悪の価値基準は、自分の内にあるのだから。こう考えるのが堕落後の人間です。しかし、それは思い違いです。神様は、私たちが思う以上に、私たちにとって最善の結果を、もたらして下さるのです。
神様は、もうこの時から、赦しと回復のチャンスを備えていらっしゃるのに、人は、それをつかむことが出来ません。自分が罪を犯したということを知りながら、ありのままの自分を神の前に差し出すことができないでいます。

私たちはキリストとともに十字架に死にました。私の罪のために、主はいけにえの死を選び取って下さいました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
ペンテコステの日、聖霊がひとりひとりに臨みました。キリストの御霊に満たされています。私たちもまた、自分自分という、自我生命に生きる人生を送っておりました。しかし、ひと度、聖霊によって生きるキリストに出会わせていただいてからは、私たちは、罪赦され、キリストにあって、生きるものとならせていただいたのです。

責任転嫁する男と女の声を聞き、しかし神様は、女の子孫すなわち人類をを蛇の子孫と対立するものとし、人類を神様の側へと置いて下さいました。
産みの苦しみも、子供が生まれた祝福に比べれば、取るに足りないものです。子供の姿を見れば、その苦しみは過ぎ去ります。土は呪われるものとなった。蛇が呪われたように、神に反逆したアダムが呪われるべきだった所、その呪いは、土へとすり抜けていきました。
耕し、食べ物を得るために苦労しますが、作物を前にして、その苦労は過ぎ去ります。

命の木から食べて、死なないいのちを持ち、永遠に罪びととして歩む道を閉ざして、やがて後に、イエス・キリストによって贖いの道を切り開き、罪の赦しと永遠の命の小道を備えて下さる主なる神様。創世記の罪の初めから、もう福音は、始まっているのです。

たどたどしく葉っぱをつづり合わせるみじめな人間のために、皮の衣を与えて下さる神様の子を思う愛は、いつまでも変わることがありません。

どこにいるのかと問いかけ続ける神様に、洗いざらいの自分を、あるがままに差し出し、贖いの御座のもとへと、走り寄ろうではありませんか。人は、この方のもとにあるときに、本当に生きるものとなるのですから。

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