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説教原稿

2008年5月4日
「命の息を吹き入れられた」
創世記 2章7-17節

私たちは、ルツ記から、学びました。

神様の守りの御手は、いつも神を信じるものとともにあり、祝福は、神を信じる者から周囲へと広がっていくこと、神様は、私たちの信仰の家を絶やさず、代々に続かせて下さることを学びました。

事実、神様は、天地創造からこのかた、選民イスラエルを何度も何度も支え起こし、今日には教会をキリストによって生み出され、失敗を重ねる民を、忍耐強く導いて下さいました。

新約聖書の最初の書・マタイの福音書は、長々とした系図から始まっています。ここで聖書を読むのを断念する方が多いと思います。私が始め、そうでした。どうしてこう、人の名前ばかり、ずらずらと記すのだろう。退屈だ、そう思いました。
しかし、だいぶあとになって、これらの人たちの背後にある神様の支えの御業を知るようになりますと、この主につながる系図の中に名前を持つ人たちが、信仰の偉大な巨人たちばかりではなくて、それぞれに弱さを持った人間、私たちと同じ人間であったということがわかるのです。

皆がいつも順風満帆だったわけではありません。悩みがなかったわけではありません。完璧な信仰を持っていたのではありません。皆、生きるか死ぬかのような苦しみを通り、信仰と不信仰のはざまを通り、罪を犯し、しかし神様に叫び声をあげながら、神様によってただ引き上げられて、祝福に入れられました。

系図、それは、罪びと、不信仰な民に対して神様が忍耐強く働き、神の民を絶やさずに導いて下さった証しなのです。

私は、聖書を読み始めのころ、中学生の当時ですが、父の書棚から共同訳聖書を開いたことを覚えています。新共同訳の前の翻訳ですね。父は私が生まれる前、少しの間、カトリック教会に通ったことがあったと聞いています。そして、私が生まれ、20年の間、教会の生活からは離れ、仏教を信じる歩みをしていましたが、私が渡米しまして、91年、洗礼を受け、帰国しまして、4年間、キングス・ガーデンという老人ホームで働きまして後、神学校に入りまして、その次の年の冬、1年ちょっとの求道生活ののち、99年、父も受洗へと導かれました。父は、自分が新しい教えを信じて、洗礼を受けるのは、自分が今まで生きてきた年数だけかかると言っておりましたが、私が洗礼を受けてから8年ののちでした。そののちちょうど5年後、2004年、母が洗礼に導かれました。これも神様のお働きの系図のような思いがいたします。
話があちこちに参りますが、私は、父の聖書を開きながら、創世記を開きました。「初めに、神は天地を創造された。」私は、この世界の成り立ちを、興味深く読み進めたことを記憶しております。

光、空、地と海、草と木、太陽と月、朝と夜、鳥と魚、そして人間、男と女。そうこうしているうちに、園の中央の木の実を食べて、エデンの園から追われていく先祖たち。大体その辺りまででしたでしょうか。聖書という書物は、この世界の始まりから始まっているのか、へぇと、読んでいました。

私の聖書読みはしばらく中断しまして、次には、中学の登校途中に、マンガ調に書かれた伝道文書を宣教師の方から受け取ることによって再開され、また中断して、今度はアメリカに行って、日本への宣教師を引退して母国アメリカで日本人伝道をして下さっていた先生たちによって受洗に導かれました。これも神様の系図的なお働きを覚えるものです。

伝道をして、うまく進んで、しかしぷっつりと関係が途絶える。しかし、神様は、別の場所で、別の人を通して、救いの業を計画していらっしゃいます。私たちは祈っていれば、そして導かれるならばいつでも用いて下さいと、準備していればよいのです。

神様は、壮大な天地創造のお働きを6日の間なさり、天地万物は完成されました。そして、6日間で完成なさったかと思いましたら、第7の日に、神はご自分の仕事を完成されたと2章2節に書かれています。
ある説教集には、このように書かれています。それは絵を描き終えて、絵を額に入れて満足して眺めているよう。襖絵が書かれて、大広間にきちっとおさまった時のようと。神様は、一連のお働きをことごとく終え、満足をもってこの世界を見渡し、手を止めて休まれる。見よ、その出来栄えは、ことごとく、非常に良かった。それが7日目の姿でありました。
そして、この7日目には、「夕べがあり、朝があった」とは書かれていません。ですから、この安息は、神様の祝福と聖別は、ずっと続いていると考えられるでしょう。
神様はこのうえなく、完成された創造のお仕事をなさり、その完成された世界をご覧になり、これ以上手をかける必要がないとみて、安息をとられた。そしてこの日を祝福し、聖別されたと聖書には書かれています。
そうです。この世界は、神様によって完成されています。そして、私たちには、この世界を喜び、作って下さった神様とともに、安息と祝福をいただき、聖別されたこの7日目の祝福の中に今、入れられているのです。
世界には、今様々な痛みがありますが、それは、この世界に欠陥があるのではなくて、7日目に、創造者のそばで、神をたたえ、安息に憩う、祝福と聖別の日を過ごさないことに原因を持っています。
人は、休まずに、自分の業に明け暮れています。これは、会社で働くということだけを指すのではありません。仕事によると、趣味・レジャーによるとを問いません。休まずに、時間を無駄にせず、スケジュール表に寸分の隙もないことが素晴らしいことのように思われがちです。
しかしここ7日目に起こったこと。神様が安息を取られたこと。そしてそのゆえに、神様はこの日を祝福し、聖別された日となさいました。

この日は、他の6日間とは異なります。この日が祝福と聖別の日と書かれているからです。この安息の日は、祝福に満ちています。世界の創造に勝る祝福の日であります。休んでいるのにであります。果敢に想像する日にもまさる祝福の日、それが安息の日であります。聖別の日。創造された6日間がきよくないということは決してないと思います。轟く雷のような声とともに、光ができて、次々と世界が、神の言葉によって形作られていきます。これは圧巻です。もしも私たちがその光景を傍らで見ることを許されるなら、なんと息をのむ光景でしょうか。しかし、その6日間に勝って、安息の日は、聖別の日、きよく別たれた日なのです。なにも働かなくて休んでいるだけなのにであります。

ここに、人類が置き忘れている大きな大きな鍵があるのです。

神の安息。これが神の業よりも祝福ときよさに満ちているということであります。繰り返して申し上げるようですが、神様はその安息のゆえに、第7の日を祝福し、聖別されました。ですから、神様は、手を止めて、休まれることを大事にしていらっしゃるのです。働くこと以上に、休むことを大事にしていらっしゃるのです。

神様は、安息を大切になさいます。この日を祝福し、聖別なさったからです。神様は、私たちのように、こざかしく動くと、すぐに疲れ果てて、心が乱れて、いらいらしてしまうという方ではないと思います。忙しいという字は、心が滅びると書くということをしばしば耳にする通りです。しかし神様はそのような方ではありません。創造のお働きの只中にも、父・御子・御霊の深い調和と、平安が流れていたことでしょう。良し、良し、非常に良いと、満足しながら6日の日を過ごされました。しかし、7日目には、それを超えて、安息をお設けになり、祝福と聖別を備えられました。

神様が休むということは、なにかそぐわないような気がいたします。全知全能なるお方が、どうして人間のように疲れて休むようなことをされるのか。しかし、神様は、安息をおとりになられたのです。
そして、この安息は、とこしえに続いています。神様のいらっしゃる所。そこは安息の場所であります。
ですから、教会とは、第一に、休むところであります。神様が休んでおられるのに、私たちが一生懸命に働こうとするときに、あのマルタとマリアのような出来事が起こるのです。

安息のゆえに、創造に勝る祝福と聖別がある。私たちは、救われて、教会に導かれ、この安息の中に入れられています。

マタイ
6:26空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

人は、神様がお膳立てして下さった最高の、完成された世界の中で、神様の祝福に憩い、聖別されて、いながらに過ごすことのできる存在でした。

土のちりでできたか弱い存在にすぎませんでした。私の子供も大好きでよく泥遊びをしますが、土で作った人形が自分で歩くことはありません。しかし、土のちりでできた、それだけの存在であるにもかかわらず、私たちは、神に似せられて造られ、その鼻に神の命の息を吹き入れられた存在なのです。人はこうして生きるものとなりました。それまでは死んでいたに等しい泥人形が、しかし神様の命の息を吹き入れられることにより、生きるものとなったのです。人は、アダム、アダムと、自分の名前が呼ばれるたびに、アダマ、アダマ、土のちり、土のちりと、自分の出自を思い出すのです。

ただ神にあって、神の命の息により泥人形が生き動いているということを、人は忘れてはならないのです。神の前に憩うことこそが、どんな創造の業よりも尊く祝福に満ち、聖別された姿であることを忘れてはならないのです。

10節、エデンから川が流れていました。この世界は、エデン・神の園からの流れによって、生かされています。祝福は、神の御座から流れます。

15節、神様は、人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。
それとともに、園のすべての木から取って食べよ、ただし、善悪の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」とおっしゃいました。

園の中央には、命の木と、善悪の知識の木が生えていました。善悪の木からは食べてはならないということは、命の木からは食べてもいいということでした。人は、命の木から食べ、永遠に死ぬことなく、楽園で生きられるはずでした。しかしそれと裏腹に、もう一方の木から食べれば必ず死ぬという、死に至らせる実が実っていたのです。命を与える実と、必ず死に至らせる実が、園の中央に植わっていたのです。神様が、どうしてそのような死に至らせるような恐ろしい木を植えたのかと責める前に、神様は、命を選び取りなさいとおっしゃっているのに、人はわざわざ死に至らせる実を選んで食べたという所に、問題があるのです。ここは、来週のテーマになります。

神様は、人にとって最高の環境を整えて下さり、地の管理者としての奉仕を与えて下さいました。また、人が孤独にならないようにと、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を神様は形作り、人のところに持ってきて、名前をつけさせました。助ける者としての女性をも作って下さいました。

創世記は、面白い組み立てで書かれています。1章から2章にかけて、神様は6日の間働かれ、7日目に安息を取られたことが記されています。4節には、これが天地創造の由来であると書きだして、人の創造に焦点を合わせ、もう一度書き始めます。2章3節まで、「神は、神は」、と書いてあります。4節からは「主なる神は」と書かれています。
4節に、「これは天地創造の由来」と書いてありますが、この「由来」という言葉は、へブル語では、「系図」という意味を持っています。
神様は、人の前に、主として、いつくしみを持って導く主なる神として、ここから神様は人とともに、系図を書き始められました。
人に祝福のおきてを伝えながらも、人はそれに従わず、神様のもとから離れていき、苦労してひたいに汗して糧をとり、たわわにみのる命の実にあずかれない者、有限のいのちしか持たない者とされました。

しかし主なる神様は、系図の先に、わたくしたちの命のために、イエス・キリストを与えて下さったのです。

私たちは、土くれであります。しかし、神様がこよなく愛し、命の息を吹き込み、生きる者として下さり、高価で尊いと呼ばれる土くれであります。

私たちは神にあって生きるものであります。神様のもとにしか、本当の安息はないのです。ここに本当の、祝福ときよさがあります。

永遠の安息に入るために道となって地に降りてきて下さったイエス様の御名を心よりほめたたえます。鼻に命の息を入れられ、生きる者となったすべての造られた民が、主の安息の中に入れられますように。私たちは祈り続けていこうではありませんか。
この安息の中から派遣されるお一人お一人が、週の半ば、神様の愛によって生かされ、神様を現すことができますように。祝福をもって皆様をここからお送りしたいと思います。
お祈りいたします。

「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」   詩篇150:6

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