説教原稿
2008年4月20日
「主はあなたを見捨てることがなく」
ルツ記 4章11-17節
よく日本で聞かれることがあります。へー、クリスチャンですか。お珍しいですね。わたし?いえいえ、わたしなんて、とんでもない。わたしはクリスチャンの方々のように聖人君子ではないし。酒もたばこもやりますし、かくかくしかじか。はい、わたしは人生太く短くを願っておりますから。そうですね、死後のこと、そりゃあ天国には行きたいですよ。でも、宗教という枠の中に自分を当てはめていくのがどうもたまらないんですよねぇ。私が死ぬって時に、病床で洗礼でも授けていただきたいもんですねぇ。
これは、何を隠しましょう、私自身が聖書に出会ったころ、感じていたことです。
クリスチャンは聖人君子、こんな私には不釣り合い、信じたら窮屈になってしまう。本当に、そうでしょうか。
クリスチャンの生活といますのは、本当に、一糸乱れぬ模範的なものであり、それを地で行かなければならないのでしょうか。
聖書の中には、数多い失敗談が載せられています。えっ、昔々の世にも、こんなひどいことがあったのか、現代と何も変わりがないではないか!そう思えるほどです。信仰の先祖、アブラハム、イサク、ヤコブとて、その例外ではありません。アブラハムは年老いて、子供が与えられると聞いても、信じることができず、妻サラは、ばかげたことと笑い出しました。しかし信仰によってアブラハムはイサクを主の言う通りいけにえとしてささげようとしました。
イサクは、エサウをひいきし、妻リベカはヤコブをひいきしました。ヤコブは、兄エサウを出し抜いて、長子の権利を横取りしました。 ヤコブは神様と格闘し祈り、祝福を勝ち取り、イスラエルと呼ばれました。
その後ヤコブは自分がだましたように、ラバンに騙され、長く働いてラケルを妻としました。ヤコブの子たちは、ぎくしゃくし、ヨセフをめぐって、ひどい仕打ちをしました。しかし神様はヨセフとともにおられ、ヨセフをエジプトの総理大臣とされ、ヤコブの一族は後に飢饉のとき、ヨセフによって助けられました。ヨセフの兄ユダは、自分の命に掛けてヨセフの弟ベニヤミンを守るといいました。
そのユダは、カナン人の妻と結婚しましたが、その子供たちは嫁タマルとともに生活しましたが子供が得られず、ついにはタマルと知らずに娼婦と関係をもったユダは、子供の嫁との間にペレツとゼラを設けました。
それから時が流れ、ヨシュアの時代、イスラエルがエリコへ侵攻する時、エリコの遊女ラハブは、ヨシュアの送ったスパイをかくまい、イスラエルがエリコの町を攻めたときにも、命が守られました。そしてそのカナン人ラハブと、サルモンという人との間に生まれたのが、ボアズです。そのボアズと、モアブ人ルツとの間にオベドが生まれ、そこにエッサイが生まれ、そこにダビデが生まれました。
あのダビデ王に至っても、自分の家来を殺して妻を奪うようなことをしました。しかし彼もまた、信仰によって悔い改め、主の喜ばれる王となりました。
人生の中で何が大切かといいましたら、皆様は人生の大先輩でいらっしゃいますから、釈迦に説法でございますが、失敗しないということではなくて、失敗したときにどうするかということであります。苦難や危機に合わないということが素晴らしいのではなくて、誰にでも思いかけずに襲いかかる苦難の時、どのようにそれに立ち向かうのかということが、大切なのです。
信仰といいますのは、人間が失敗したり、どん底に落ちた時に、いったいその人がどのように行動するかという時に、如実に表れるのです。
失敗しないようにというよりも、失敗したときにどのように正しく歩むのか。それを教えてくれるのが信仰であります。もちろん失敗しないようにとも教えますが。聖書には、敗者復活のエピソードに満ちています。
ルツ記の時代、それは士師たちが治めていた時ですが、それは、暗黒の時代でした。士師記の最後の言葉はこのようになっています。
「そのころ、イスラエルに王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」
イスラエルに王がなくとありますが、これはもちろん、イスラエルには神を信じる信仰がなく、という意味であります。この後、イスラエルは王を求めますが、神様は、民が神ご自身に従いたくないがために目に見える王を望んでいると見抜いていらっしゃいました。
民が神信仰を失う時、それぞれ自分の目に正しいと思うことをなし、本当に正しい方の目を恐れなくなる時に、民は力を失います。やがてイスラエルは北と南に分裂し、神殿は壊され、民は大国の捕囚民となってしまいました。
しかし、そんな中でも、悔い改める残りの民のために、神様は、驚くような不思議な方法で、助け手を送り、民を捕囚状態から解放して下さるのです。
神様は、贖って下さる方です。救い出して下さる方です。代価を払ってまで、私たちを罪の捕囚状態から、奴隷の状態から、キリスト・イエスの代価によって買い取って下さるのです。
私たちは、身を低くし、私たちの主は贖い主である神様ご自身ですと今日も告白したいのです。復活させて下さる方を新たに見上げて、この方に期待して歩みたいのです。
ルツとナオミのサクセス・ストーリーが続きます。
ナオミは、驚くような積極的な方法で、ボアズにアプローチするように、ルツに持ちかけます。ルツは、言いつけの通り、真夜中にボアズの所へ出て行きました。ボアズは気づいたときに驚きましたが、「よく若いもののところへ行かないでわたしのところへ」と、最大の好意を持ってルツを受け入れましたが、理性的に、親類としての責任を果たすためにはより近い一人の人がいます、その人が責任を果たさないというのなら、主の前に誓ってナオミとルツ=エリメレクと二人の息子のの土地を買い取りますと、約束しました。
ここで、親族の土地を買い取ることに対して、「贖う」という言葉が用いられているのです。それはつまりこういうことです。
ナオミの夫エリメレクは二人の男の子をもうけた。こうして、エリメレクは自分の財産を二人の子に継いで、死んでいきました。イスラエルでは、死んだ夫の妻には、相続が起こらないようです。ですから、子供がないと、すべての者が自分の者にならなくなるわけです。エリメレクは二人の子に財産を相続しましたが、二人の子は、子供をもうけることなく死んでしまいました。こうして、エリメレクの財産は、ナオミもルツも相続できず、エリメレクの名前も残らなくなってしまいました。
こうして、贖いが始まります。 近い親族から始まって、エリメレクの名を残し、残された親族を守るために、残された財産を買い取り、やもめを養うのが贖いの内容です。ボアズよりもエリメレクに近い親戚のものは、始め、財産を買い取るといっていました。残された者がナオミだけだったら、問題はなかったのですが、ルツが一緒ということが問題でした。まだ子供を産むことができるやもめの場合、そのやもめとの間に子供をもうけて、その子供に、エリメレクの財産をすっかり引き継がせてあげること、これが贖いでありました。こうなりますと、エリメレクの子供をもうけるといえども自分の子を増やすことにもなりますから、自分自身の財産のなにがしかをその子に相続するというお話になりかねません。もうすでに自分の子を持っていたその人は、それなら子供のいないあなたがそれをお願いしますということになっていくのです。
一族の者が、財産を買い取って、一族が絶えないように守る。そして、子供をもうけて、その子供に、死んだ人のために一族を継がせる。まさに自分が尻拭い役となって他の人を立てる。これが贖いということでありました。
私たちがここで感じますのは、神様は、私たちの一番近い親戚となって下さったということです。私たちが罪の支払う報酬である死との間でがんじがらめになって、どうにもこうにもならなくなっていた時、その罪の価を、一番近い親戚として代わりに支払って下さったのです。
この贖い(ゴーエール)という言葉は、イザヤ書、ヨブ記、詩編にも出てきます。
イザヤ書 41:13-14
「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。」
私たちの神様は、一番近い親戚として、いな、私たちの父ご自身として、代価を持って、絶体絶命で、他に助けのない罪びとである私たちを贖いによって、助けて下さったのです。
ボアズは、ダビデの曽祖父にあたりますが、その先に生まれる、イエス・キリストのひな型を私たちに示しているのです。
4章最後、お読みいただきました個所では、祝福を浴びるナオミの姿にスポットライトが当たっています。
14節、「女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」
またも、ナオミを愛するご近所の女性たちの言葉です。ナオミはついこの間、気遣うこの女性たちを前に、自暴自棄になり、私をナオミ(心地よい)などと呼ばずにマラ(苦い)と呼んでくださいと言っていたものでした。しかしどうでしょうか。彼女は本当にマラだったのでしょうか。いいえ、彼女は孝行娘に恵まれて、神様の祝福とお守りの中、やっぱりナオミだったのです。
ご近所の方々に愛されて話しかけられています。こんな親しい間柄を見ていますと、私は、この東城の地は、このことを地で行っているなぁと思いました。ご近所さんが親しく助け合う姿はこの地にも根付いています。
「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく」「家を絶やさぬ責任のある人を今日与えて下さいました。」
この書の結論ともいえる言葉です。
「主をたたえよ。 主はあなたを見捨てることがない。 そうして滅びないように贖い主を与えて下さる。 あなたの人生は、とこしえまでも、守られている。」
これが、この書の内容です。そして、聖書全巻のメッセージです。くじけても、失敗しても、なお立ちあがれる。神様に期待していれば。神様の前に静かに信頼し、期待していれば。これが聖書のメッセージであります。7人の子に勝るルツのような、信仰者が、身内から、このご近所から与えられ、ますますご家族が、この教会が、信仰の継承のうちに栄え、発展していきます。私たちは、そのことを信じて、家庭に、教会に、「主をたたえよ。主は見捨てることがない。贖い主を送って下さった」このように叫びつつ、人生を歩んでいきたい、こう願うのであります。
最後に系図が記してありますが、アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダの子、タマルの子ペレツから、ダビデまでの名前が記してあります。
信仰の父、大先輩であるアブラハムの子孫からなる神の民にもいろいろな失敗や、試練が襲いかかりました。しかし、そのような人たちをリレーして、神様は、イエス様に続く道を切り開かれました。
今日、私たちも、完全ではありませんが、神の民として、救いの民として、そのリレーのバトンを持って生きています。この後続く素晴らしい神の民の先輩として、主にあって胸を張って生きてまいりましょう。神様は、私たちの家を絶やさぬように、助けて下さっているのですから。
「主をたたえよ。 主は見捨てることがない。」ハレルヤ!
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