Warning: Undefined array key "HTTPS" in /home/tojokyokai/public_html/includes/head.html on line 16

説教原稿

2008年4月13日
「御翼のもとに逃れて」
ルツ記 2章1-13節

私たちの人生の歩みを導いて下さいます生ける主を賛美いたします。
先週は、ルツ記1章より、試練のどん底にいたナオミが、神様をどう捉えたか、み言葉から学びました。彼女は、神様の裁きの御手が下されたと考え、青菜に塩のような状態になってしまいました。
二人の嫁にも別れを告げ、彼女は人生に幕を下ろそうとしていたと理解できます。

しかし、神様は、心優しいルツを、ナオミのそばに備えて下さいました。ルツはもともとモアブの女性でしたが、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と、モアブとの完全な決別宣言をしています。

結婚式では、「死が互いを引き離すまで」というような誓約をしますが、ルツにおいては、死んでもなお同じところに葬られたいと言っていますから、その上を行っています。

信仰者も挫折する時があります。神様のお考えになっていることが分からなくなってしまう時もあります。
私たちは、イザヤ30:15で言われていることに、耳を傾けましょう。
「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」

神様は、モアブ人の女性から、救いをご計画されます。このことは、新約聖書の、パウロに示された、異邦人の救いを思い出させます。いつしか、ナオミから始まった信仰は、ルツに引き継がれ、神様はルツとともに働かれ、その記録は、「ルツ記」と名付けられました。

私たちの、一途な信仰が、家族に、他の方々に伝わっていくということ。そして、その新しい信仰者が、ついには自分を支え、めざましい主のお働きに用いられるようになる。このことは、主のお働きとしか言いようのないものです。まさに、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」マタイ20:16というみ言葉の通りです。

私たちが、み言葉に聞き続けるとき、神様に祈り続けるときに、これらすべては起こる、いやみ言葉に聞くようになる前から、神様は、私たちを選んで、恵もうとされているのです。私たちは、家族の救いを、神様にますます熱く祈っていきたいと思います。奇跡のストーリーは、今日も、起こりうるのです。

今日はルツ記2章が開かれております。1章では、モアブの地で悲惨をなめたナオミの姿がありました。しかし神様は、民を顧みて、食べ物をお与えになったという知らせが飛び込みました。苦しい時の助け。一条の光が差し込みました。神様の助けを信じて、ナオミとルツは、ベツレヘムに向かいました。

ナオミは、働き者でした。ベツレヘムに着くと、彼女は、自分が異邦人であるにもかかわらず、勇気を持って落ち穂拾いに出かけていきます。この姿を見て、ナオミは、「私の娘よ、行っておいで」と言っています。もうすっかり、実の親子のようになっています。
実の息子を失っても、なお自分を本当の母以上に慕ってくれる娘を持つということは、なんと幸いなことでしょう。神様がともにいらっしゃる時、失うという経験も、また埋め合わせられるのです。

3節、ルツは、農夫が麦を刈ったその刈り株の近くに落ちた落ち穂を拾って朝から歩いていました。
彼女がたまたま入ったその畑地は、1節で前置きされていましたように、ナオミの亡き夫、エリメレクの親戚、裕福で力のあるボアズの畑でした。

今日はこの、「たまたま」という言葉に注目しましょう。この言葉自体は、偶然にとか、図らずもといった、意味しか持たないのですが、さて本当に偶然にルツは、ボアズの畑を見つけたのでしょうか。
いえ、神様がルツを、ボアズの畑に導かれたのです。それがどのようにかは分かりません。これは全くの私の推測ですが、ルツは、そこで働く使用人たちの姿を見ていたのではないでしょうか。ボアズの畑の使用人たちは、他の畑の使用人たちよりも、生き生きと、楽しそうに、助け合い、働いており、ルツはそこでなら自分の、おこぼれ頂戴の働きも、とがめられないだろうと思ったのではないかと考えました。

これは単なるあてずっぽうではありませんで、いくつかの、ボアズの畑の使用人たちの優れた点を挙げることができます。

第一には、ボアズと農夫たちとのあいさつです。ボアズは、自分の使用人たちに、「主があなたたちとともにおられますように」と語っています。使用者も、使用人も、神様の前に共に立っている、謙遜なボアズの姿が見られます。そして使用人たちも、「主があなたを祝福して下さいますように」と語っています。ある注解書を読みますと、この当時、しもべたちは、主人が言った言葉と違う言葉、自分の言葉をもって答えているところを見ると、相互の関係が打ち解けているとみることができるというのです。
それはそれとしても、互いに、神様の祝福を祈りあう関係に、大変良好な労働環境と人間関係を見出すことができるのです。その点で、ボアズの畑の人たちは優っていました。

第二には、畑にやってきたボアズにルツを紹介した監督をしていた召し使いの言葉です。彼は、ルツを紹介して、こう言っています。「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。『刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」
彼は、名もない異邦人の女性が誰であるかを知り、落ち穂拾いのひとりひとりに至るまで、しっかりと把握していました。そしてその働きぶりまで、きちんと見守り、小屋で一休みするようにと勧めるまでに、行き届いていました。
灼熱の地であります。朝早くから、昼までずっと。正午には、暑くて誰も働かないような土地です。サマリヤの井戸で、イエス様が、一人の女性と生ける水についてお話をされましたが、あれはまさに正午の暑い時間のお話でした。彼女は人目を避けて、わざわざあの時間に、水を汲みに出かけていました。昔も今も、井戸端は、社交場だったのでしょう。昼が近づき、それでもなお働きをやめないでぽつんとしているルツを心配して、自分の使用人でもないのに、小屋で休ませる。そのような配慮をした監督であったからこそ、「朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」
という言葉が出たのではないでしょうか。
第三には、22節のナオミの言葉ですが、「よその畑で、誰かからひどい目にあわされることもないし」と、語られています。立場の弱い、やもめの在留異邦人を守ることは律法に書かれていますが、弱い立場の人たちが虐げられることは、日常茶飯事であったに違いありません。

このように、いろいろな意味で、ボアズの畑は、他の畑と違い、祝福と平安に充ち溢れていたと考えることができます。その土台となっていたのは、ボアズの、神を恐れる気持ちであり、そのような良い環境を見分けたのも、ルツの神様を恐れる心であったと考えることができるのです。こうして、たまたまであっても、確かに神様のお導きでルツはボアズの畑にたどり着いたのではないかと考えられるわけです。

ボアズは、監督の召使から、ルツのことを聞き、ナオミのことを聞き、自分の親戚に当る人であることがわかったのでしょう。若いものには邪魔をしないように命じ、水がめから汲み上げた水を飲んでもいいと、特別の待遇を与えました。

ルツは、この時まだボアズが自分の親戚に当る人であることが分かりませんので、たいへん不思議に思い、どうして目をかけて下さるのかと尋ねるわけです。しかし、聖書の読者は、1節に種あかしがされていますから、フムフム、心配しなくてもいいよと、小説を読むように読み進めていくのです。

先週も申しましたが、現実は小説より奇なりなどと申しますが、実際を生きる者にとっては、この先がどうなっていくのか、物事の背後に、どういったことが動いているのかは、分かりません。織物の裏糸ばかりを見るように、何が何だかさっぱりわからないことだらけであります。しかし一度織物をひっくり返しますと、そこには美しい絵が彩られています。大きな油絵を、至近距離から眺めても、何が何だか分からないこともあります。しかし、数歩か下がって絵を見ます時に、すばらしい構図に目を奪われるのです。
ルツとナオミもまた、そうでした。一歩下がればそこにはナオミのそばにルツが備えられており、もう一歩下がれば、ルツが一生懸命働き、その背後には、神様がしっかりと支えていてくださり、やがてボアズが与えられ、ダビデ、ついにはキリストが大きな構図の絵の中には記されており、そして、全世界の救いがご計画されているのです。
  私たちもまた、そのような、大きな、大きなご計画の中に用いられるために、今ここに、召されています。
  どんなときにも、大きな神様の御手の中にあって支えられます。
[新共同訳] 詩編
1:1 いかに幸いなことか・・・
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

私たちの人生もまた、ルツとナオミの歩みと同じです。神様を信じ、期待し、一歩一歩歩んでいくところが祝福と平安の花園となるのです。岩地に水がわき出るのです。神様は今日も生きていらっしゃいます。

ボアズはルツにいいました。「両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」

創造者である神様を信じることは、しばしば親替えをするといわれることがあります。私たちを産み育てて下さった両親は親に他ならないのですが、人類の親は、神様であるということです。よく、父なる神といいますと、お父さんに対して良いイメージを持たない人は、それでは、父なる神は受け入れられないとおっしゃいます。人であるには父は、いろいろな父があります。完全な父は一人もいません。しかし、父なる神様は、完全な養育者であられます。この地上の生まれ故郷を捨てて、むしろ発展的に、天に国籍を持つ者として、本国を天にいただくものとして、私たちも、ルツとともに、この神の国に招かれています。
私たちがここに導かれたのは、たまたまと思われるかもしれません。しかしそこには、神様の深いご計画があり、また、神様の召しに応答した先輩のクリスチャンの方々がいらっしゃいました。
神様は、ご自身の時に、ご自身の人を用いて御業をなさる。そして、ご自身の御翼のもとに私たちを逃れさせていただくのです。

ボアズの信仰の言葉は、ルツの心を打ちました。心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。こうルツは、語っています。

私たちも、神様からくる慰めを語るとき、心に触れる言葉となり、本当に、人を慰めることができるのです。

信仰一つで、自分の生まれ故郷を捨て、ナオミとともにベツレヘムにやってきたルツと、信仰深く歩み、祝福の内を歩んでいるボアズ。信仰がとりなす決定的な出会いの瞬間でありました。

私たちもこの教会で、神様の御言葉によって養われ、信仰による出会いによって成長し、本当の慰めを語るものとして今週も与えられたちに遣わされたいと願うのです。

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2025 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.