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説教原稿

2008年4月6日
「あなたの神はわたしの神」
ルツ記 1章15-18節

新しい年度の週のはじめ、すがすがしい朝を迎えました。
今まで3年間の間、横山先生のご奉仕のもと、午後2時からの礼拝に慣れ親しんでいらっしゃったわけですが、久しぶりの朝の礼拝は、いかがでしょうか。
ベテランの先生方から変わり、一転して若い牧師が講壇を守ることとなりました。落語で言いましたら、駆け出しから順々に真打へと順序が進んでいくものですが、今回はその逆です。皆様のご忍耐と、お祈りを心からお願い申し上げます次第でございます。

さて、皆様は、悲しいストーリーのドラマを見るのはお好きでしょうか。私は、そのようなドラマを見るとつい涙を誘われるたちなのですが、悲しいところで放送時間が終わり、「また続きは来週」などといわれますと、1週間が憂鬱になってしまいかねません。そこで私は、このように考えることがあります。ああこの主人公は、かわいそうだ。どうしてこんな目に合わなければならないのか。でもきっとこれからハッピーエンドが用意されている。しかし、ときには、それでもどうにも収まりがつかないほどに、かわいそうに思う時があります。そのような時には、こう考えます。
「この俳優さん、女優さんは、本当にかわいそうだけど、実際の俳優さんは、お給料をもらって幸せに今頃過ごしているから大丈夫だ。」
一緒にしんみりとみている妻の横で、「でもね、この女優さんは今頃たっぷりとギャラをもらって遊んでいるから大丈夫なんだよ」などと親切のつもりで行ってあげますと、「そんなことは聞きたくない」と、妻に怒られてしまいます。

人生という長い絵巻物の中には、時に暗転といいますか、どうしてこんなことが起こるのだろうと、いぶかしげに思うことがあります。そして、私たちが人生を歩む時、それはお芝居ではなくて、1回きりの本番勝負であります。誰も自分の役を代わってくれる人はいないですし、途中で放り投げることも出来ません。

ルツ記は、ナオミという女性の幸せな姿から、そのお話が始まります。ベツレヘムと聞いて、ピンとくる方も多いことでしょう。クリスマスになりますと、ユダヤのベツレヘムで、赤ちゃんが生まれましたと、よく劇で子供たちがセリフをしゃべります。

そのベツレヘムで豊かに過ごしていたのもつかの間、飢饉がこの地にやってきました。ナオミとその夫エリメレクは、食物を求めて3日ほどの道のりであるモアブの地へと出ていきます。
ナオミという名前は、「快い」という意味、エリメレクは、「私の神は王」という意味です。
時は、今からおよそ3000年前。士師が世を治めていたころとありますが、ヨシュアが死んで後、カナンの地への定着のさなか、カナン人と闘っている時、動乱の時代でありました。
このナオミの幸せを求めて歩いていく人生が、どのように波乱にもてあそばれていくのでしょうか。
もしも、このお話の最後のページをこっそりとのぞくとしましたら、そこにはイエス様のお姿があります。イエス様の前には、ページを何枚も戻ると、ダビデ王がいます。そして、ダビデのおばあさん、それがルツであり、その義理のお母さんがナオミです。そうです。ナオミは、イエス様のご先祖に当たる存在にまで高められるのです。

[新共同訳] ローマの信徒への手紙
8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

[新改訳] ローマ人への手紙
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

神様にとらえられた神の民、神を愛する者のためには、神様は万事が益となるように、最善を常になして下さるのです。神様にあって、私たちは輝かしい勝利者、圧倒的な勝利者とされています。私たちは神様の贖いを受け、天に名が書き記されています。私たちの人生の最後のページは、間違いないハッピーエンドが書き記されています。しかしそこに至るまでには、いろいろな苦難があるでしょう。しかし、どんなときでも神様はひと時も私たちを離れずに、そばにいて下さり、導きの御手を伸ばしていて下さる。このことを、ルツ記から学びたいと思うのです。

「マフロンとキルヨン」ナオミの二人の子供ですが、その名前の意味は奇妙です。マフロンは「病気」、キルヨンは「消え入る」という意味です。子供たちは病気がちだったのかもしれませんし、イスラエルの国の悲惨な状況を見た両親によってつけられたものかもしれません。

夫エリメレクは、妻と二人の息子を残して死にました。息子たちはその後、それぞれモアブの女性を妻にしました。その土地の女性をめとったということは、ずっとその土地に住み続けることを意味していたのでしょう。モアブは、アブラハムのおいロトの子孫ですが、土着の神々を拝んでいました。その偶像礼拝に注意しながらも、この当時は、イスラエル人とモアブ人との結婚は禁じられてはいなかったようです。

ナオミとモアブの地、息子のモアブ人との結婚、これらのことを読んでおりますと、ここ日本での私たちの生きざまと似通ったものを感じます。土着の宗教と価値観の中、私たちは神の民として、ここに住んでいます。クリスチャンでない方と結婚するような状況も、生まれます。そのような中にあって証しがなされていくとき、ルツのような神様を信じる家族をも起こされていくわけです。

二人の息子は、オルパとルツというモアブ人の女性と結婚し、10年ほどモアブの地で幸せに暮らしていました。しかし二人の息子は相次いで死に、ナオミは夫と子供に先立たれ、実の家族を失い、二人のモアブ人の娘とともに、モアブの野にひとり取り残されました。

ナオミは、異邦の土地モアブにいるときも、自分の神様を信じ、礼拝していました。二人のモアブ人の嫁たちも、それに従っていたことでしょう。しかし今は、二人のモアブ人とともに、モアブの地にただ一人。5節に書いてあります、「一人残された」とは、そのような彼女の身の上を指しています。

しかし神様はその信じる者を本当に「一人残される」のでしょうか。
ナオミに、一つのニュースが舞い込みます。「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった。」
ベツレヘムとは、パンの家という意味です。ベースが家、レヘムはパンという意味です。しかしそのパンの家、食べ物の家であるはずの故郷には食べ物が枯渇していた。そしてモアブの地に出てきて十余年。出ていくときは満たされていた、家族が一緒だったあの幸せな時。しかし今自分はただ一人。後継ぎがいないということは、当時、死を意味していました。
ナオミはこの時、異邦の土地を出て、自分の神様の待つ故郷へ帰ろうと、決断しました。
神様は、いつでも私たちを待っておられ、私たちを顧み、良いもので満たして下さる故郷の父のような存在です。

二人の嫁は、従ってついてきました。二人の嫁は、義理のお母さんのために道具を持ち、食べ物の世話をし、支えてくれる存在であったでしょう。しかしナオミは、そのような自分を助けてくれる嫁たちであっても、彼女たちの幸せな人生のためには、自分とともにいることが犠牲になってしまうかもしれないと思い始めていました。

モアブで育った二人の娘をユダの地に連れて行き、ずっと自分に従わせておくのか。それともまだ若い二人の娘たちは、自分の生まれ故郷で再婚し、もう一度幸せを築くことができるに違いない。
おそらく、ナオミには、一度自分の家に嫁に来た二人の女性をずっと自分のもとに置いておく権利のようなものがあったことでしょう。それは、モアブの二人の女性にも分かっていました。嫁たちは、黙々と、しゅうとめナオミの行くところへ、モアブの地を離れて歩いていました。しかし、ナオミと二人の嫁たちには、それ以上の信頼関係があったようです。9節には、ナオミが二人に口づけすると、二人は声をあげて泣き、別れません、あなたの民のもとへ行きますと言ったと記されています。

それに対しての結論的なナオミの言葉は、13節に書いてあります。
「主の御手が私に下されたのですから。」
二人の息子を失ったこと、これは主の御手が私に下されたことによるのだから、もうどうしようもないではありませんか。
神様の裁きが私に下された、そうならば、誰が、どのように私を救ってくれるのか。もうその道は全くないのです。そのような意味の言葉です。

もう私はあなたを助けることができない、神様が私に御手を下されたのだから。こう言われて、オルパは去っていきました。しかしルツは残りました。 オルパは薄情で、オルパは信仰がなかったからモアブに帰ったと考えるべきでしょうか。

神様が私に御手を下されたのだからとの言葉によりオルパは去りましたが、これはオルパが神様はすべてを治めている全能者であるということをある意味理解していたゆえとも考えられるのではないでしょうか。
ナオミは、自分が神様に裁かれているから私から離れてくれと頼み、オルパも、ある意味神様の偉大さが分かっていたからこそもう望みがないと思ってナオミを離れたとも考えられるのです。

しかし、ルツは、その面から言いますと、子供っぽいといいますか、駄々をこねているようにも見えます。神様から裁かれたとしても、それでもいいと駄々をこねています。

オルパは知性的で大人な女性、ルツは、人懐っこい人だったと思われます。

オルパは分別をわきまえて、そこまでお母さんがおっしゃるのならと、ルツは、それでも何でも、ナオミにすがりついて離れませんでした。
なんとも分別なき、子供っぽい姿ではないでしょうか。

自分の故郷に、相嫁とともに自分の両親の元に戻りたくないのかいといっても、ルツにとっては、もはやナオミが自分の母、ユダの神、聖書の神が自分の神なのでした。裁かれるなら自分も共に、死ぬならば自分も共に、ナオミの死ぬところで自分も死に、自分も同じところに葬られたい。死んで別れるのならともかく、その他のことでナオミから離れるようなことがあったら、神様が幾重にも私を罰して下さいますように。
神様への誓いを持って死ぬまで離れないと従ってこようとするルツに、ナオミはとうとう、根負けしてしまいました。

ルツはどうしてそんなに、ナオミとともにいたかったのでしょうか。それは、彼女がナオミという人によって本当に深い影響を受け、ナオミの生き方によって全く自分が変えられ、かつての生き方から全く違う生き方へと導かれていたことを意味します。

モアブにいた時の生き方、良心の自分への接し方、物の考え方、結婚前にルツは、いろいろと学び知り、自分というものを形作ってきました。しかしナオミとその家族に出会ってから。ナオミの信じる神様に出会ってから。彼女の生き方、考え方は一変し、それは新しい考え方であるにもかかわらず彼女自身となり、もはやどうやっても元の姿に戻ることのできない身となってしまった。もはやナオミを離れては、モアブの地にただ一人、ルツのいる場所は、どこにもなくなっていたのです。

なんというはっきりとした、信仰体験でないでしょうか。神と一つとなった姿ではないでしょうか。それを導いた、ナオミという人の、信仰に忠実な姿をも見ます。

私たちと、キリストの出会いというのも、そのようなものとなっているでしょうか。私たちが神様を知る前と知るようになった今は、こんなに立派になったとか進歩したとか、そういうことではありませんが、どれだけ心の考え方が変えられ、影響され続けて今に至るか。
自分の身が傷んでも、危険にさらされても、構わない。あなたのために、罪の贖いとなることができるのなら、十字架さえいとわない。私はあなたのために、私のいのちを差し出すと、私はあなたの罪を赦すと、十字架の上から叫ばれたイエス・キリストの生きざまが、どれほど私の生きる道となっているか。私はそのようなことをルツの言葉から感じます。

「あなたの神はわたしの神。」自分の子供から、自分の嫁から、義理の息子から、こう言われるということは、なんと素晴らしいことでしょうか。そのような「信仰の継承」というものは、どのようにしてなされていくのでしょうか。
「あなたを見捨てるなど、出来ない、あなたの行くところに行き、あなたの死ぬところに私も死ぬ。あなたの民は私の民、あなたの神はわたしの神。」
こう、身内の人に行ってもらうためには、私たちはどうしたら、良いのでしょうか。

ルツという女性の純粋さと、人懐っこさ、あふれる愛の性質、これも素晴らしいですが、ナオミの与えてきた、人格的、宗教的な感化力は、また、すばらしいものがありました。

しかしそんなナオミであっても、神様の裁きが自分の身にくだったという、ぬぐいきることのできない本当の苦しみが、常に彼女の心をふさいでいました。

十年以上ぶりに、故郷ベツレヘムに帰ってきて、町じゅうが二人のことでどよめき、女性たちがナオミさんではありませんかと、話しかけてくるとは、ナオミという女性が、いかに周囲の人から愛されていたかということが、ここからも分かります。

そんな、歓迎して、労をねぎらってくれる人たちの前で、ナオミは、決していやされることのない心の傷を持っていました。

「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。21 出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」

彼女の心の悩みは、彼女の信仰の挫折にありました。なぜ全能者なる神様は、自分に裁きの手を下し、溢れる富を根こそぎにし、私を悩ませ、不幸に落とされるのか。
私の名前が「快い」という意味を持つということは、もはや自分にとっては最大の皮肉に他ならない。この名前が自分を苦しめる。私はいっそ「苦い」という名で呼ばれたい。

ナオミの心は、神様の前に、打ちひしがれていました。

神様は、ご自身を信じる者を、どのように取り扱って下さるのでしょうか。本当に、ナオミが言うように、神様は、人を裁き、富を奪い、悩ませ、不幸にするのでしょうか。

「二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まる頃であった。」
あああの、落ち穂拾いの情景が、浮かんできます。サクセス・ストーリーが、幕を上げようとしています。

今日私たちは、信仰者の人生にも、苦難は襲いかかることを学びます。突如として暗雲が立ち込め、絶体絶命になってしまうことを学びました。しかしそのような中にも、神様の助けの道は与えられるということを学びました。
「主がその民を顧み、食べ物をお与えになる」

[新共同訳] ペテロの手紙一
4:12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
4:14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

「主の御手が私に下された」と悲しむ人。イエス様のお言葉に耳を傾けて下さい。

「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。」

ナオミのように、神を愛し、人々から尊敬され、愛されるような人にでも、試練は襲いかかります。しかしそれは、神様がその人を憎んでいるからではありません。神様は、素晴らしい私たちのハッピーエンドのために、万事を益として、すべてを備えていて下さるのです。
今週も全能の、愛の主に、すべてをゆだねましょう。
主が心配して下さいます。そして、家族に、救いをもたらして下さいます。

[新共同訳] ペテロの手紙一
5:7 思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。

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